80話 葬り去られた援軍(終楽章)
この偽りの世界に転送されてから6ヶ月、《唯一人の読者のための新聞》を毎日読み続けて、勇作は確信したことが1つある。
それは「『Fake Earth』で他のプレイヤーと協力することほど愚かな選択はない」ということだ。
過去に読んだ記事の中には、6枚のコインを集めたプレイヤーが最後の1枚を手に入れるために、協力していたプレイヤーをゲームオーバーにした記事があった。
規模の大きいギルドへ加入するために、仲間全員をゲームオーバーにして、彼らのコインを献上した記事もあった。
7人のパーティーの1人がアジトで人知れずゲームオーバーになり、残された6人は誰が裏切り者なのかと疑心暗鬼に陥り、激しく争った末に全滅した記事もあった。
初めのうちは協力プレイで効率よくコインを集められても、最終的には誰かが裏切ったり、信じられなくなったりして、仲間割れが起きてしまう。
結局、信じられるのは自分だけ。一人で生きていくしかない──そう思っていた。
「……あんた、頼みがある。子分でもなんでもいいから、俺を仲間にしてくれないか?」
だが、傷を治してもらった勇作は起き上がれるようになると、徳三へお礼を言うより先に、協力プレイをごく自然に持ちかけていた。
瀕死の勇作からコインを奪わなかった徳三なら、裏切られる心配がない──そんな打算的なことを考えたからではない。
ただ純粋に、ゲームオーバーになりかけたところを救ってくれた恩を返したかったからだ。
とはいえ、急に仲間になりたいと言い出すのは、怪しさしかないだろう。
どうすれば受け入れてもらえるのか、勇作は頭で必死に考えた。
「うん、いいよ。じゃあ、いつでも連絡取れるように、LINE教えてもらってもいいかな?」
「いや、そんなこと言わずに……えっ? 本当にいいのか⁉︎」
勇作は思わず訊き返す。
こんな老いぼれで、しかも片腕のないプレイヤーと組んでも、戦闘では足を引っ張られるだけだ。
「協力プレイ」というより「介護プレイ」になりかねないのに、こんなにあっさり受け入れた理由がわからない。
「もちろん大歓迎さ。いま協力し合ってるプレイヤーが2人いて、仲間があと1人欲しいと思ってたところだからね。──麻雀は3人より4人で打つ方が楽しいだろう?」
徳三は茶目っ気混じりにウィンクして、LINEのQRコードを表示したスマートフォンをひょいっと差し出した。
それから勇作は徳三のパーティに加入して、源一と辰兵衛を合わせた4人で行動するようになった。
とはいえ、ゲーム攻略を目指すことはなく、勇作の家で麻雀を打ったり、釣りに出かけたりして、隠居したように過ごすだけだった。
徳三の実力ならゲームクリアを目指せそうだが、ゲームマスターを探すこともイベントに参加することもせず、戦うのは自衛するときか、誰かを助けるときのみ。
徳三にも叶えたい願いはあったようだが、今こうして平穏に暮らしている方が性に合っているらしい。
「平穏に暮らしている方が性に合っている」ということは、現実世界での徳三は平穏な暮らしではなかったのか?
お互いの過去に踏み込まないのは暗黙の了解だったので、徳三がどういう人生を歩んできたのかはわからなかった。
ソロプレイの頃は長かった毎日があっという間に過ぎていき、4人で過ごす日常が当たり前になっていく。
フィギュアスケート選手として復帰する夢は胸の奥で燻り続けていたが、引退後のセカンドライフだと思えば悪くなかった。
普段は自由気ままに過ごし、困っている人を見かけたら助ける。
街中でプレイヤー同士の戦いが起きれば、近くにいるNPCが巻き添えを食らわないように、徳三を中心に源一や辰兵衛とも力を合わせて、避難させたり鎮圧したりする。
明日生きられるかどうかわからない世界だったけれど、きっと今日みたいな日々が、この先もずっと続くだろうと思っていた。
しかし、老人パーティを組んでから5年が経ったある日、勇作が《唯一人の読者のための新聞》を起動すると、『志村徳三、百貨店でゲームオーバー』という見出しが一面を飾っていた。
見間違いかと思い、目をこすってみたが、見出しは一文字たりとも変わらない。
この世界は残酷なことに、「嘘」であってほしいことほど「真実」だ。
いったい誰が徳三をゲームオーバーにしたのか?
怒りと悲しみに震える手を握りしめて、涙でにじむ前に勇作は記事を読み進める。
そして、最後まで読み終えたとき、あまりに衝撃的な内容にしばらく身動きが取れなくなった。
徳三をゲームオーバーにしたのは、NPCの一般男性だった。
記事によれば、百貨店でプレイヤー同士の対戦が起きたとき、徳三は店内のNPCが巻き込まれないように割って入った。
争っていたプレイヤーたちをなんとか追い払った後、血塗れのアバターで重傷を負ったNPCの女の子を《リカバリーQ》で治療していたところ、恐怖でパニックになったNPCの男性が背後から襲いかかり、スポーツ用品店のバットで後頭部を殴られたらしい。
──理不尽な目に遭ってる人がいたら、僕はそいつが誰であろうと助ける。
──世の中には、誰かを理由もなく傷つける人がいる一方で、理屈抜きで助けてくれる人がいるってことを知ってもらうために。
──そうして助けられた人が、今度は別の人に手を差し出すようになって──そうやって社会が温かく明るくなっていけば、いつか巡り巡って自分に返ってくるかもしれないしね。
徳三は命がけで守ろうとしたNPCに殺された。
理不尽な目に遭う人々を身を挺して助け続けたにもかかわらず、結果として彼に返ってきたのは、むごたらしい仕打ちだった。
『息子が起こした無差別殺人事件の被害者を生き返らせるために、ブラックカードを求め、『Fake Earth』に参加した』
ゲームオーバーを報じた記事の最後には、勇作が知らなかった徳三の過去が一行だけ記されていた。
◯
荒れ狂う嵐のようなピアノの演奏が隣の家から響き渡る。
ピアノ・ソナタ第23番へ短調作品57「熱情」。
澄麗の国際コンクール大会に向けた意気込みは、鬼気迫るものだった。
勇作は今いる和室で全自動麻雀卓を囲み、4人でよく麻雀を打ったことを思い出す。
徳三がゲームオーバーになって以来、麻雀テーブルは押し入れにしまわれたままだった。
「勇ちゃん、お前が普段お隣さんに良くしてもらってるのは知ってる。でも、それはプレイヤーだってことを知らないからだよ。もし勇ちゃんの正体を知ったら、今までどおり接してくれなくなる。そもそも、NPCはプログラムなんだ。人の形をしているけれど、人間じゃない。情を抱く必要なんてない。だから、遊戯革命党の計画を止めようなんて、らしくないことは考えるなよ」
車椅子の源一は皺だらけの顔を歪めて、震える声で懇願するように言った。
徳三がゲームオーバーになったとき、残された3人の中で誰よりも涙を流したのは彼だった。
辰兵衛は俯いて、陰のある表情で黙り込んでいる。
激しいピアノの音色が鳴り響いても、重苦しい空気は揺らがなかった。
勇作は膝に置いた拳を握りしめる。
遊戯革命党は、都内最大規模を誇ったギルド《ホムラ組》を壊滅させて、今や東京エリアで最も勢いのあるギルド。
メンバー全員が7つ以上のギアを所持しており、確かな実力を備えている。
一方、特殊防衛組織アントは経験の浅いプレイヤーが多く、ギアの所持数も劣っている。
勇作たちが加勢しても、焼け石に水にしかならない。
源一が忠告したとおり、遊戯革命党の計画を止めようとするなんて、進んでゲームオーバーになろうとする自殺行為だった。
「……ありがとう、源さん。厳しいことをはっきりと言ってくれて。たしかに考えが足りてない部分はあった。でも、俺は一人でもアントに加勢するよ」
勇作は自分の意思を告げる。
はっきりと言い切った瞬間、ずっと胸に刺さっていたトゲみたいなものが取れたような気がした。
辰兵衛は顔を上げて、勇作を信じられないように見つめる。
源一は白髪交じりの眉をひそめ、苛立ちと困惑が入り混じった表情を浮かべた。
「なんでだよ? 無謀なのはわかってるだろ? 今更徳さんの真似でもやるつもりか?」
「違うよ、源さん。徳さんの生き方は格好いいと思うけど、俺が遊戯革命党の計画を止めようと思ったのは、それが理由じゃない」
「じゃあ、どうして?」
「隣の家の娘さん、来月にピアノのコンクールがあるみたいなんだ。さっきから一生懸命に練習してるのが聴こえてくるだろう?」
「はぁ? なんだよ、それ。そんな些細なことのために、人生を賭けるのか?」
「ああ、そうだな。それだけだったら、さすがに俺も無茶なことをやろうと思わなかったよ。
──でも、実はこの『熱情』の終楽章はさ、俺がオリンピックで金メダルを獲ったときにかけた曲なんだ」
あの日、世界一の栄冠を手にした瞬間。
人生で最も輝いた5分間の記憶が蘇る。
嵐に立ち向かうようなメロディが流れ、怒涛のテンポに負けない速さのステップを刻み、氷上で観客を熱狂の渦へと巻き込んだ。
軽やかに高く跳び上がり、連続でジャンプを決め、そして人類史上初の7回転半の着氷に成功。
演技が終わった瞬間に優勝したことを確信した、練習をはるかに超えたパフォーマンス。
会場が揺れんばかりの歓声と、万雷の拍手に包まれながら、「また4年後、もっと凄い演技を」と心から強く思った。
10年経った今でも、記憶の箱にしまい込んでも、あのときの熱は消せなかった。
隣の家から『熱情』の演奏が聴こえてくるたび、胸の奥で燻っていた炎が燃え上がって、全身の細胞が疼いた。
血が沸騰するように滾り、握りしめた拳が灼熱のように熱を帯びた。
聴覚を失う運命に向き合いながら、芸術家としての使命を果たす覚悟を決めて、『熱情』を生み出したベートーヴェンの姿が思い浮かぶ。
もっと情熱的に生きろ、と魂が震えて叫んでいた。
「源さん、辰兵衛、俺たちはセカンドライフを楽しむために、『Fake Earth』をプレイしたわけじゃない。叶えたい願いがあったから、現実世界で大きなことを成し遂げたように、もう一度この世界で成し遂げにきたんだ。
操作するアバターが老人だからなんだ? 腕とか足とか目とか欠損したからなんだ? その程度の理不尽、現実世界で跳ねのけてきただろ? 遊戯革命党なんてぽっと出に日和ってどうする?
『らしくない』のは、今こうやって余生みたいな暮らしを送ってることだよ」
勇作は源一と辰兵衛を交互に見る。
遊戯革命党の計画を止めに行くか、平穏な暮らしを変わらず続けるのか。
どちらを選ぼうと、勇作の戦う覚悟は揺るがない。
けれども、10年間共に過ごした仲間として、この熱を感じ取ってほしかった。
「馬鹿か。身の丈に合わないことを考えやがって。いま当たり前だと思ってることがどれだけ幸せなのか、お前はよくわかってない。その利き腕を失ったとき、今までどれほど恵まれてたか気づかされただろ」
「僕はアントに加勢するよ。一緒に頑張ろうね、勇ちゃん」
「はぁ⁉︎ 辰兵衛、お前まで何言ってんだ? 勇ちゃんの理想論に感化されたのか?」
「いい演説だったけど、さすがに僕は銀行員だったからね。冷静に損得を考えて、遊戯革命党のNPC機能停止計画は止めた方がいいって思っただけさ。もしプレイヤーだけの世界が実現したら、僕たちみたいな老人アバターは生き残るのが難しくなるからね」
辰兵衛はしれっと言って、遊戯革命党の計画に反対する理由を挙げていく。
近所のおいしいラーメンが食べられなくなること、好きな配信者の動画が見れなくなること、これからも3人で旅行に出かけたいこと。
とくに海外旅行は絶対に行きたいそうだった。
「それに、僕は徳さんに助けてもらったおかげで、プレイヤーとして生き残れた。だから、もし徳さんが生きてたらやりそうなことを、代わりにやりたい。
──元銀行員として、借りはきちんと返さないと」
辰兵衛は寂しそうに笑って、誰もいない座卓の一角へ目を向ける。
そこは徳三がよく座っていた定位置だった。
「考え直してくれ、辰兵衛。お前と勇ちゃんが加勢したところで、たいした戦力にならないぞ」
「本当にそうかな? 僕たちが加勢しても戦力にならないっていうのは、間違いじゃないかなって思うけど」
凍てつくような殺気を感じた瞬間、勇作は跳ねるように立ち上がり、黄土色の光の刃を寸前でかわした。
斬りかかってきた辰兵衛は座卓の上に飛び乗り、すかさず光り輝いたナイフを源一へ振り下ろす。
車椅子に座る源一は素早く前輪を上げて、横へ鋭く旋回して斬撃を回避した。
勇作がスマートフォンを手に取ると、目の前から湯気の立った昆布茶が飛んでくる。
空になった湯呑みが座卓に落ちて跳ねたとき、辰兵衛は別の湯呑みで源一に昆布茶を勢いよく放っていた。
勇作は対プレイヤー用ナイフを起動し、飛んできた昆布茶を細かく刻んで霧散させた。
源一は自分の湯呑みをつかみ、一滴も逃さずにすくい取って収める。
辰兵衛は満足そうにうなずき、電源ボタンを押して対プレイヤー用ナイフを解除した。
「ほらね。10年生き残っただけあって、僕たちは思ってるより動けるじゃん。徳さんがいなくなってから、何人かプレイヤーも倒したんだし、しっかり自信持とうよ」
辰兵衛はにこっと笑って、座卓から飛び降りる。
老いた身には無茶がすぎたのか、苦々しい表情で腰をトントンと叩いた。
勇作は源一をじーっと見つめる。
源一は白髪の頭を掻きむしり、うんざりしたようにため息をついた。
「ちくしょう、わかったよ! 一緒にやればいいんだろ! その代わり、少しでもヤバかったら、アントの連中を見捨てて、お前らだけ助けて逃げるからな!」
「そんなこと言って、結局は最後まで見捨てないよね。源さん、責任感は人一倍強いんだし」
「生意気なこと言うな、辰兵衛。だいたい、さっきのはなんだ? うまく反応できなかったら、怪我するところだったぞ!」
「まあまあ。無傷で済んだんだし、いいじゃないか。そんなことより、2人とも力を貸してくれてありがとう」
勇作は感謝の気持ちを伝えた。
辰兵衛は冗談っぽくピースした。
源一は鼻を鳴らして、湯呑みで昆布茶をズズズとすする。
隣の家から流れてくる『熱情』の演奏はクライマックスに突入して、情感豊かな旋律は嵐と衝突したかのように空気を震わせた。
「たのもー! すみません〜! プレイヤーの方はいますか〜?」
突然、知らない男性の大声が庭から聞こえてくる。
その声は底なしに明るく、まるで少年漫画の直情系主人公を彷彿とさせた。
縁側を歩く足音は勇作のいる和室へ近づいてくる。
勇作たちは目配せを交わして、息をひそめてギアをすぐ起動できるように身構えた。
だが、縁側から障子が開けられたとき、勇作たちはギアを起動することができなかった。
勇作の家にやってきたのが、意外な人物だったからだ。
そのプレイヤーは銀髪のショートヘアで、柄の悪そうな目つきをして、黒いレザーチョーカーを首に巻いていた。
片手にはスマートフォンを持っていて、「赤い地球を模った羅針盤」がスマホ画面の上に浮かんでいる。
《唯一人の読者のための新聞》の今朝の一面に顔写真が載っていた男。
ログインボーナスで《闘争を求める羅針盤》を引いた、捜索系のギアの持ち主。
遊戯革命党に新しく加入するプレイヤー、犬塚忠臣が目の前に現れていた。
「……犬塚忠臣!!」
「あれ? あんたら初めましてなのに、なんで俺のこと知ってんだ? ……ああ、そっか! 俺が遊戯革命党に入るからか! いや〜さすがだな! 今、一番勢いのあるギルドだけあるよ」
犬塚は得意げな顔をして、鼻の下を人差し指でこする。
今朝の新聞で顔写真を見たときの印象は「女を騙していそうな半グレ」だったが、実際に会ってみると「無邪気な少年」のようだった。
ただ、強者特有の非凡さを感じさせる雰囲気は変わらない。
今までどれほどの戦いをこなしてきたのか、真っ黒なレザージャケットに染みついた血の臭いが漂っている。
「にしても、超ラッキーだな。ちょうどプレイヤー3人に出くわすなんて。おかげで手間が省けたぜ」
「……どういうことだ?」
「遊戯革命党に持ってく手土産だよ。せっかくギルドに入れてもらえるんだから、やっぱ礼儀が大切だろ? で、菓子折りにしようかと思ったけど、俺たちはプレイヤーじゃん? じゃあ、一番喜んでもらえるのはコインになるけど、なんか1枚だけだと物足りなくてさ~。だから、結婚式のご祝儀に3万円用意するみたいに、コインを3枚用意しようと思ってたわけ」
犬塚はこめかみをスマートフォンの角で軽く叩く。
1対3という数的不利の状況にもかかわらず、臆さないどころか、むしろ喜んでいた。
そもそも、こいつは《闘争を求める羅針盤》で勇作の居場所を探り当て、先制攻撃を仕掛けるチャンスはあった。
それなのに、堂々とプレイヤーであることをアピールして、勇作たちの前に姿を現している。
負ければコンティニューできないゲームで、生き残るための抜け目なさが欠けている。
けれども、『Fake Earth』を始めたときは誰もが持っていて、世界の厳しさを知るにつれ失われていく自信を、変わらず持ち続けていた。
「……てめえ舐めるなよ、ひよっこ。新人プレイヤーにやられるほど、俺たちは耄碌してねえぞ」
源一はドスを利かせて、犬塚を睨みつけた。
辰兵衛は真顔になって、不気味なほど静かに黙り込んでいる。
犬塚は目を瞬かせて、心底不思議そうな顔をしていた。
「何言ってんだ、爺さん。あんたらは老いぼれのアバターで、手とか足とか使えなくなっても、この世界で生き残ってるんだ。──リスペクトはあっても、油断なんてするわけねえだろ」
犬塚が電源ボタンで《闘争を求める羅針盤》を終了させた瞬間、隣の家から流れていた『熱情』の演奏が急に大音量で響き渡る。
勇作は顔をしかめて、咄嗟に左手と肩で両耳を塞いだ。
ギアによる攻撃を受けた感覚はない。
源一と辰兵衛は身構えたままで、変わった様子はなかった。
どうやら生存本能が犬塚の一挙一動に素早く反応するために、五感が過敏に鋭くなってしまっているらしい。
それほど恐ろしいプレッシャーを感じさせる実力者。
緊張で額に汗が流れ、心臓が今にも飛び出しそうなほど激しく鼓動している。
勇作は息を深く吐いて、澄み切ったピアノの音に耳を澄ませた。
「源さん、辰兵衛、俺たちもラッキーだな。──遊戯革命党の戦力を減らせるチャンスだぞ」
「へへ、違いねえ。こいつのコインを奪えば、強いギアが手に入るかもしれないしな」
「こうやって3人で戦うのは久しぶりだね。さあ、初っ端からぶっ放していこうか」
辰兵衛は肩を回して、両手でスマートフォンを構えた。
源一は咳払いをして、車椅子に取り付けたスマホホルダーを口元に近づけた。
勇作は背筋を正して、全力を込めて畳を踏み込んだ。
怒涛の勢いに乗った演奏が流れる中、目の前の景色がスケートリンクに一変する。
「──命を穿ち、破砕せよ! 《狩人の魂よ、文明に宿れ》!」
「──凍えて死ね! 《氷国で舞い踊る妖精》!」
「── 巡り巡れ! 《前人未到たる108回転半》!」
勇作たちは叫んで、一斉にギアを起動した。
辰兵衛がスマートフォンを投げると、端末上部のイヤホンジャックと充電プラグから光の刃が出現して、猛スピードで回転しながら犬塚に襲いかかった。
源一がスマホカメラを構えると、凍てついた息吹が切り裂くように放たれた。
高く跳んだ勇作は全身が勢いよく回転、凍てついた息吹を身にまとって、渾身の回し蹴りを狙い澄ます。
「──勝ち鬨を吼えろ、《白夜の狼》!」
犬塚は不敵に笑って、高らかな声でギアを起動した。
握りしめたスマートフォンから狼の遠吠えのような声が響き渡った瞬間、犬塚の目が真っ赤に染まる。
それから10分後、犬塚との対戦は終わった。
隣の家の澄麗は『熱情』の終楽章を繰り返して演奏して、勇作たちを奮い立たせてくれた。
激しい戦いの最中、彼女がピアノを弾くのを止めなかったのは、周りの雑音が耳に入らないほど集中していたからだろう。
今まで聴いてきた中で一番だと自信を持って言える、惜しみない拍手を送りたい演奏だった。
犬塚は息を切らして、苦しそうに顔を歪めた。
片腕は折れて青くなり、顔の半分は凍りついて、腹には風穴が開いている。
シアン色の血だまりが足元に広がっていた。
あと一撃でゲームオーバーにできるところまで追い詰めていた。
だが、勇作たちは指一本動かす力が残されていなかった。
源一は壊れた車椅子から転げ落ち、血塗れでうつ伏せに倒れていた。
辰兵衛は意識を失って、力なく障子にもたれかかっていた。
仰向けに倒れた勇作はギアを声で起動しようとしたが、喉を切り裂かれて声を出すことができなかった。
「……強かったぜ、爺さん。あんたが俺のことを忘れても、俺はあんたのことを一生忘れねえよ」
犬塚は勇作に歩み寄って、対プレイヤー用ナイフを振り上げた。
真っ赤に染まった目には尊敬の念があり、試合後のスポーツ選手のように相手を心から称える目をしていた。
そして、シルバーグレイ色の光の刃を振り下ろす。
──カチッ。
隣の家の澄麗がピアノで弾いていた『熱情』の演奏が終わったとき、誰がスイッチを押したような音がした。