78話 葬り去られた援軍(第一楽章)
【視点人物:杉本 勇作(Sugimoto Yusaku)】
(年齢)75歳
(性別)男性
(配偶者)無し
(子ども)無し
(居住形態)持ち家・戸建て
ピアノ・ソナタ第23番へ短調作品57「熱情」。
世界三大ソナタの1つとして称えられるこの曲は、聴覚を失いつつあったベートーヴェンが己の過酷な運命と向き合い、苦しみながらも芸術家としての使命を果たす覚悟を決めた末に生まれた傑作だ。
突如襲いかかってきた嵐に翻弄されるような、不穏で緊迫感に満ちた第一楽章。
激しい嵐に一筋の光が差し込む中、祈りを捧げるような静謐な第ニ楽章。
そして、抑圧された希望を解き放ち、烈火のごとき勢いで嵐に立ち向かうような激情的な終楽章。
怒涛のフィナーレは極限までテンポが速くなり、最高潮に荒々しく情熱が燃え上がった瞬間、一気に燃え尽きたかのように劇的な終わりを迎える──。
ここ最近の勇作は、隣の家の娘がピアノで弾くこの曲の終楽章で目を覚ましていた。
「……いつ聴いても名曲だな」
勇作は左手を畳につけて、布団から起き上がる。
歳のせいか、寝ていただけなのに体の節々が痛い。
木製の振り子時計を見ると、すでに9時を回っていた。
片手で布団を畳み、押し入れの下段に引き摺るようにしまい込み、洗面台で顔を洗って、寝巻きの作務衣から普段着のポロシャツに着替える。
玄関から外に出て、表札前の郵便受けから新聞を脇に抱えて、庭で実っているミカンを1つもぎ取った。
華やかで躍動感のあるピアノの音色が響いてくる。
勇作は耳を傾けながら、隣の奥さんからお裾分けされた肉じゃがを冷蔵庫から取り出し、電子レンジにかけた。
「いつもピアノの音でご迷惑をおかけしておりますので」と隣の奥さんは物腰柔らかく頭を下げ、晩御飯の余り物や旅先のお土産を頻繁に持ってきてくれる。
正直、あんな素晴らしい演奏を無料で聴けるのは感謝の気持ちしかなかったが、勇作はそのことを言わないことにした。
隣の奥さんの手料理はどれも絶品で、旅先のお土産もセンスが良く、日々もらうのをこっそり楽しみにしていたからだ。
──杉元さん、よかったら高松までコンクールの応援に来てよ。長生きしててよかったと思える演奏、聴かせてあげるから。
──東京から高松はちょっと遠いな。それに、いい演奏は毎日十分に聴かせてもらってるし。
──ちっちっちっ。わかってないな〜、杉元さん。人生を左右するような大勝負のプレッシャーの中で、練習をはるかに超えるパフォーマンスを発揮する。それが超一流のピアニストの共通点なんだよ。
先日スーパーへ買い物に出かけたとき、隣の家から出てきた娘の澄麗とばったり会ったことを思い出す。
母親譲りの気品のある顔立ちに、吸い込まれそうな大きな目には自信で満ちあふれていた。
傲慢なくらい自信満々なのは小さい頃から変わらない。
小学生だった頃の彼女は「私はね、将来、世界一のピアニストになるよ」と胸を張って言っていた。
中学生だった頃の彼女は「『情熱大陸』か『プロフェッショナル 仕事の流儀』、私が密着されたとき、どっちのインタビューに出たい?」と気の早いことを言っていた。
高校生だった頃の彼女は「杉元さんが歳の割に健康なのは、普段私の演奏を聴いてるからだよ」と生意気なことを言っていた。
もっとも、その揺るぎない自信を裏付ける努力を、勇作はよく知っている。
遠方での大会などで家を不在にしている時を除いて、澄麗のピアノを聴かない日は1日たりともなかった。
勇作は今朝の新聞を広げ、朝食に肉じゃがとミカンを食べる。
牛肉はほろっと柔らかくて、煮汁と肉汁が染み込んだじゃがいもは舌の上でとろけて、誠に美味なり。
口直しにミカンのさっぱりとした酸味を味わっていると、澄麗が休憩に入ったのか、隣から流れていたピアノの音が鳴り止んだ。
朝食を終えた勇作は片付けを済ませて、縁側から裏庭へラジオを持って出る。
ラジオのニュース番組を聴きながら、テレビで観た体操トレーニングをみっちりこなす。
怪我で右腕を失っているため、その代わりに左腕のトレーニングを2回行った。
穏やかな声で話す男性パーソナリティによれば、またしても都内で一人暮らしの老人の家が闇バイトグループの強盗に遭ったらしい。
ゲストで来ていた犯罪社会学の専門家が言うには、「標的となる家には郵便受けの下にシールが貼られているから要注意」とのこと。
まさかと思いつつも、郵便受けの下を恐る恐る覗いて、怪しげなシールが貼られていないことに安心する。
だが、勇作が玄関から戻ると、誰かが家の中にいる気配がした。
それも少なくとも2人。長年生きてきた勘がそう告げていた。
護身用の金属バットを靴箱から取り出して、息を殺して廊下を忍び歩く。
一歩進むごとに、心臓の音がドクンドクンと大きくなっていくのを感じる。
隣の家から「熱情」終楽章のピアノの演奏が流れてきた。
緊張感を孕んだ低音部の和音が連打されて、急激に高音域に転調する様は不安感を煽りに煽った。
誰かの気配がするのは、廊下を曲がった先にある襖の向こう側。
勇作は固唾を呑み、震えそうな指を襖の引手にかける。
そして、力強い音色に背中を押され、襖を一気に開け放った。
しかし、侵入者たちの顔が見えた瞬間、勇作は肩の力を抜いた。
振りかぶった金属バットをゆっくりと下ろす。
車椅子の源一と眼帯をした辰兵衛が、温かい昆布茶を飲んでくつろいでいた。
「お~邪魔してるよ、勇ちゃん。今日も健康的に体操してて感心だな」
「毎回言ってるが、勝手に人の家に侵入しないでくれ。どうせお前ら馬鹿2人だと思っていても、こっちは念のために警戒するんだ」
「まあまあ、勇ちゃん、この美味しい阿闍梨餅でも食べて機嫌直して。昆布茶も淹れておいたから」
「ありがとう、辰兵衛。お前はいつも気が利くな。でも、もらい物のお土産を勝手に開けて、許可なく台所を使わないでくれ。プラスマイナスでいうと、どっちかといえばマイナスだから」
勇作は座布団に腰を下ろし、昆布茶をずずずと音を立ててすする。
近所に住んでいるこの2人が、勇作の家をたまり場にするのは、いつものことだった。
源一は車椅子生活だし、辰兵衛は片目が見えないのだから、勇作はどっちかの家に集まる方が便利だと思っているが、2人は「居心地がいい」という理由で頑なに譲らない。
まあ、この家は一人で暮らすには広すぎるから、2人が来ると少し安心する気持ちもある。
もちろん、こんなことを言うと2人はつけあがるので、絶対に言うまいと心に誓っていた。
「なあ、勇ちゃん。今日の新聞、見せてくれないか?」
「そうそう、早く見たい」
「わかってるよ。今すぐ持ってくるから急かすな」
勇作は居間へ向かい、食卓に置いてある今朝の朝刊を手に取った。
その下に隠れていたスマートフォンをつかみ、4桁のパスコードを打ち込んでロックを解除する。
「──報道されない世界の真実を教えてくれ、《唯一人の読者のための新聞》」
勇作がスマートフォンに呼びかけ、音声認識機能でギアを起動した。
「伏せ字だらけの新聞」のアイコンが表示された瞬間、スマホ画面がまばゆく光り、地球のロゴが刻まれた新聞がプリントアウトされた。
勇作は記事の見出しをざっと目を通した後、和室にいる源一と辰兵衛に新聞を渡す。
──No.406《唯一人の読者のための新聞》は、使用者が興味のある事件やニュースを新聞として毎日教えてくれるギア。
──つまり、『Fake Earth』で今が何が起きているのか、昨日に都内でどんな戦いがあったのかなどを教えてくれる。
源一と辰兵衛は皺だらけの顔を一層皺くちゃに綻ばせて、仲良く肩を寄せ合って新聞を読み始めた。
「ほぅ、遊戯革命党に新メンバーが1人加入か。これでプレイヤーの頭数は8対6。アントの戦力はもともと心許ないってのに、これでさらに差が開いたな」
「うん、NPC機能停止計画が実現する見込みはほぼ確実だね」
勇作たち3人は『Fake Earth』に参加したとき、実年齢の倍以上である「老人アバター」を割り当てられた、不運なプレイヤーだ。
そして、戦いで勇作は右腕を、源一は両足を、辰兵衛は左目を失った。
それを境に、3人ともゲームを攻略することを諦めている。
しかし、ギブアップし、現実世界へ帰るためのコインを3枚集めることもできず、この偽物の世界で10年近く暮らしていた。