72話 呪いの装備は外せない(後編)
もしもいつか死んだときに自分が天国へ行けるとしたら、こんな奇跡みたいな光景が見えるのかもしれない。
色鮮やかな虹が七海のスマートフォンの画面から天に向かって伸びたとき、レキトは戦いの最中であることを一瞬忘れて、思わずそんなことを考えた。
生命力を感じさせるほどの輝きは、「美しい」を通り越して「神々しい」。
このまま青空を越えて、雲を突き抜けて、地上と天界をつなぐ架け橋になりそうな虹だった。
目の前で垂直に架けられた《魔性の虹》 は、NPCがプレイヤーと戦うために開発したアプリ兵器。
ここ『Fake Earth』という電脳世界の生みの親であるアーカイブ社が、プレイヤー同士の対戦の武器として創造した『ギア』の紛い物。
それにもかかわらず、光り輝くスマホ画面から虹が出現した様は、まるで魔法としか思えないような超科学を──この電脳世界の創造主であるアーカイブ社しか起こせないはずの奇跡を成し遂げていた。
「綺麗でしょ? これ、SNSでも映えるように、ビジュアル重視で作ってもらったんだ」
横ピースを目元で決めた七海は、冗談っぽくウィンクする。
色鮮やかな虹が闘技場の高い天井に当たる直前、七つの色は噴水のように放物線を描いて、粗くざらついた土のグラウンドに等しく降り注いだ。
そのままメリゴーランドのように回り始めて、枝分かれした光は七海を中心に円を描いていく。
緩やかに回転する七つの色の光は赤一色に変わり、次第に橙色、黄色へ移り変わった。
一周するごとに光の回転するスピードは速くなっていく。
黄色の七つの光が緑色、青色、藍色、紫色へ移り変わる間隔も短くなっていく。
そして、最後に七つの光は虹色に変化して、徐々にスピードを落として停止すると、儚く透けて音もなく消えた。
七海は口元に笑みを浮かべて、真上に高く掲げていたスマートフォンを下ろす。
妖しげに光るスマホ画面は点滅するたび、虹の七つの色に順番に変化していった。
── 《魔性の虹》がどんな力を持っているのか、現時点での情報ではまったく見当がつかない。
──アプリ兵器はギアと同様、現実ではあり得ないようなことを実現させる以上、あらゆる可能性を警戒しておく必要がある。
両手でスマートフォンを構えたレキトは顔をしかめて、ホームボタンを長押ししていた親指に力を入れる。
端末上部のイヤホンジャックに電気は溜まっていたが、ライトグリーン色のレーザー光線を七海に向けて撃つことはできなかった。
七海の話によれば、《魔性の虹》はレキトの弱点を突くために開発された秘密兵器。
普段レキトが使っている対プレイヤー用レーザーを受けることで、その力を発揮するカウンター系の武器の可能性がある。
警察官のプレイヤーの淀川と戦ったとき、対プレイヤー用レーザーをスマホ画面に吸収されて、強力な電気のバリアに換えられたことを思い出した。
「わかるよ、遊津っち。未知のものってどう対処すればいいかわかんないよね。でも、『静観』も、『注視』も、『様子見』も、要は全部『何もしない』ってことだよ」
切り裂くような殺気を喉に感じた瞬間、姿勢を低くした七海は一気に加速して飛び出す。
爆発的なスプリントスピード!
全速力で走る彼女の後ろで土煙が舞い上がった。
《小さな番犬》が吠える声の音量が跳ね上がり、赤色のスマートフォンの振動が一層強まって、ライトグリーン色の照準が激しくぶれる。
妖しげに光る七海のスマホ画面が、虹の七つの色に点滅する間隔が短くなっていく。
レキトは震えるスマートフォンを握りしめて、ライトグリーン色の照準がブレないように固定した。
そして、七海に対プレイヤー用レーザーを撃つ──ふりをして、ホームボタンから離れかけた親指をピタッと止める。
だが、七海はフェイントに引っかからなかった。
迷いで足が止まることもなければ、緊張で表情が固くなることもない。
撃てるもんなら撃ってみなよ、と挑戦的な眼差しが雄弁に語っている。
──このまま撃たなければ、何もできずに負けてしまう。
──だったら 《魔性の虹》がどんな力でも瞬時に反応できるように目の力を使って、素早く接近してくる七海の動きを見切って、リスク覚悟で撃つしかない。
レキトがスクエア型眼鏡の縁を摘むと、七海は光の色が変わるスマホ画面をレキトに向けた。
罠にかかったと言わんばかりの笑み。
明智との対戦で目の力を使ったとき、彼女のスマホカメラのフラッシュを焚かれた記憶が脳裏をよぎった。
嫌な予感がしたレキトはスクエア型眼鏡を外せず、迫りくる七海から距離を取ろうと後ろに下がる。
次の瞬間、目の前から「砂飛沫」が視界を覆うように襲いかかった。
地面を蹴り上げた七海による目くらまし攻撃!
すかさずレキトは親指をホームボタンから離して、対プレイヤー用レーザーを撃った。
ライトグリーン色のレーザー光線は砂飛沫を貫き、真正面に広がった砂飛沫が崩れ落ちた。
視界が開けるまでの数瞬の間、レキトは急接近した七海が攻撃してくることを警戒する。
だが、視界が開けた先、なぜか七海は地面を蹴り上げる前よりも1メートル後ろに下がっていた。
縮こまるように膝を抱えてしゃがんでいて、驚いたレキトと目が合うと、両手をにこやかに振った。
《魔性の虹》で画面が七色に光っていたスマートフォンがどこにも見当たらない。
悪寒が走ったレキトが宙を見上げると、背後で何かがドサッと落ちる音がした。
振り返った先の足元に七海のスマートフォンが転がっていた。
光り輝いているスマホ画面の色が移り変わるスピードは、1秒間に10回も変わるほど速くなっている。
どうして七海はレキトにスマートフォンを投げて、離れた場所で身を小さくしているのか?
落ちている七海のスマートフォンが爆発して、高熱の爆風に吞み込まれる──。
最悪の想像が脳裏をかすめて、慌ててレキトは地面を転がって、七海のスマートフォンから遠ざかる。
しかし、七海のスマートフォンに何の変化も起きなかった。
光り輝いているスマホ画面の色が目まぐるしく変わるだけだった。
七海が砂飛沫で目くらましをした隙に、レキトに向かってスマートフォンを投げてきたのに、それ以外のことが何も起こらない。
──まさか《魔性の虹》は……。
七海の狙いに気づいた瞬間、背後から渾身の体当たりを食らった。
体勢が崩れたレキトは振り返って、光の弾を連射しようとしたが、鋭い手刀でスマートフォンを叩き落とされた。
そのま勢いよく押し倒されて、砂飛沫が舞い上がる。
視線と視線がぶつかった。
馬乗りになった七海は獲物を見るような目をしている。
夜会巻きに結ったミディアムヘアは解けていて、蜻蛉玉のかんざしの先端がレキトの首に突きつけられていた。
「……勝負ありだね、遊津っち。まさかこんな簡単に負けると思わなかったでしょ?」
涙袋のある大きな目でウィンクして、七海は蜻蛉玉のかんざしを指で挟んで回す。
必死に吠えていた《小さな番犬》は大人しくなり、赤色のスマートフォンの振動も止まった。
横に目を向けると、七海のスマートフォンの画面は虹色に光っている。
レキトはため息をつき、七海の狙いどおりに騙されていたことを確信した。
「七海さん、《魔性の虹》は『虹の七色にスマホ画面を光らせる』、ただそれだけの機能ですね?」
「にゃはは、さすがにバレちゃうか。そう!《魔性の虹》は見かけ倒し全開で、相手に勘違いさせるためのアプリ兵器。その感じだと、遊津っちは弱点もわかったかな?」
「ええ、徹底的にやられたおかげでわかりましたよ。『相手の戦い方を見極めようと慎重になりすぎて、主導権を握られてしまう』。これが七海さんの伝えたかった弱点の1つですね?」
レキトは七海との模擬戦を振り返る。
《魔性の虹》を警戒しすぎるあまり、対プレイヤー用レーザーで攻撃することができず、目の力を使うこともできなかった。
常に最悪の可能性を懸念していたせいで、その場しのぎの安全策しか取れず、後手に回りつづけて負けてしまった。
「うん、まあ正解。なんか小難しく答えてるけど、要は『考えすぎ』ってこと。ほぼ何でもアリのギアがどんな力かなんて、必死に考えても簡単に絞り切れないし、結局『Fake Earth』って相手を倒せばオッケーじゃん。──敵のギアがどんな力かわかんないなら、わかんないまま倒すくらいの気持ちでいいんだよ」
馬乗りになった七海は顔を近づけて、レキトの耳元でそっと囁く。
俯いて垂れた髪の毛先がレキトの頬に触れて、耳たぶが息で温かくなった。
レキトは七海を押しのけて、無理やり起き上がった。
七海は明るく笑って、レキトの背中についた砂を手で払う。
観客席に座る綾瀬は指笛を吹いて、レキトたちの健闘を讃えていた。
「いや〜《魔性の虹》、まさかのハッタリかよ! 七海ちゃん、駆け引き超ツヨツヨじゃん! レキトは残念だったけど、弱点にソッコーで気づけたし良かったんじゃね?」
「……それはどうだろうな。遊津暦斗の場合、自分の弱点に気づかなかった方が良かったかもしれない」
「なんでですか、伊勢海パイセン? 考えすぎがダメなら、フツーに考えすぎないように戦えばよくね?」
「人間、誰しも本質を簡単に変えることができないからだよ。遊津暦斗が戦いの最中に考えすぎるのは、今までの成功あるいは失敗を積み重ねて獲得した哲学によるもの──。つまり、彼がプレイヤーになる前から人生をかけて培ってきた生き方だ。染みついた思考の癖を変えることは、ある意味で人格を矯正するくらい難しい。ゲーム風に例えるなら、『呪いの装備』を外せないのと同じだ」
真剣な口調で話す伊勢海の声が聞こえてくる。
レキトは左手を握ったり開いたりして、七海の手刀で筋を痛めていないことを確かめた。
観客席から背中に心配そうな視線が集まっているのを感じる。
落としたスマートフォンを拾うと、《小さな番犬》が犬小屋のアイコンに隠れて、レキトの様子を窺っていた。
きっと対戦中に考えすぎてしまうのは、格闘ゲームで読み合いをする習慣が無意識レベルにまで根付いているからだろう。
対戦相手の行動パターンを戦いながら分析して、最適解となる立ち回りを導き出す──。
現実世界にいた頃から今日に至るまで、一人のゲーマーとして、このプレイスタイルを貫いてきた。
伊勢海の言うとおり、長年の思考の癖を直すのは容易くなく、途方もない時間がかかるだろう。
少なくとも《遊戯革命党》との決戦になる10日後には間に合いそうにない。
レキトは電源ボタンを押して、スマートフォンの画面を暗くした。
両目を閉じて、息を吸ってゆっくりと吐く。
そして、綾瀬たちがいる観客席の方を振り返って、安心させるために笑顔で手を上げた。
「あれ? 意外と落ち込まないんだ、遊津っち」
「落ち込む? なんでですか? 七海さんは俺一人じゃ気づけなかった弱点を教えてくれたんですよ。今の自分より強くなるためのヒントをくれたんです。──協力プレイをやっていて、これ以上嬉しいことはありませんよ」
レキトは眼鏡をかけ直すふりをして、緩みそうになった口元を隠す。
心がワクワクして、全身に力がみなぎってくるのを感じた。
もしソロプレイのままだったら、プレイヤーとしての壁にぶつかっていただろう。
けれども、綾瀬と明智と出会えて、身近なライバルとして刺激をもらえるようになった。
七海と模擬戦で戦って、自分のプレイスタイルの弱みを知ることができた。
お互いのコインを奪い合うゲームで、協力プレイができていることに、心から感謝したい気持ちでいっぱいだった。
だが、これで満足して終わってはいけない。
一方的に受け取るだけの関係で完結させてはいけない。
協力プレイの醍醐味は、お互いに良い影響を与え合うことなのだから。
レキトは綾瀬たちのいる観客席に背を向けて、反対方向へまっすぐ歩いた。
闘技場のグラウンドの中央に立ち、親指をホームボタンに添える。
そして、熱く燃える意思を込めた視線を七海にぶつけた。
「え? 遊津っち、まさか今から私と2回戦やりたい感じ?」
「もちろんです。お互いダメージはないんですし、まだまだ余裕で戦えますよね?」
「まあ、それもそうだね。じゃあ、やろっか。でも、覚悟しててね。──私、人の弱点ガンガンいじめるの好きだから」
意地悪そうな顔をした七海は目を細めた。
涙袋のある大きな目は爛々と輝きを放っている。
「ありがとうございます。さっきの模擬戦と同じように、弱点を攻めてもらいたかったので、そう言ってくれて助かります」
「へぇ、ずいぶん自信満々じゃん。もしかして《魔性の虹》のタネが割れたから、次はイケそうとか思っててる?」
「まさか、思ってませんよ。七海さん、まだ隠してるアプリ兵器もありますし、プレイヤーに選ばれた才能も見せてませんし。そもそも、俺の2つ目の弱点が何かもわかってませんよ」
「じゃあ、なんで? 遊津っちの考えすぎる性格は簡単に直せるもんじゃないし、今んところ勝ち目はあんまないことは正直わかってるでしょ?」
「ええ、よくわかってますよ。でも、それがどうしたって言うんです?」
レキトは一呼吸置いて、スクエア型眼鏡をかけ直す。
「対戦は、勝てる相手だから挑むんじゃありません。勝ちたい相手だから挑むんです。──自分より弱い相手と戦ってもつまらないでしょう?」
レキトは微笑み、握り拳で自分の胸を軽く叩く。
《遊戯革命党》の暁星との対戦で、綾瀬と明智にプレイヤーとして一歩先を行かれたように感じた差は何だったのか、今やっと理解することができた。
あのとき綾瀬と明智が暁星に立ち向かったのは、《迷える羊の子守唄》で眠らせられる勝算があったからではない。
暁星の底知れない強者のプレッシャーを前にして、あの場で取るべき最善の選択は、勝てる可能性に賭けるのではなく、《ULTRA PASMO》で全員を自宅へワープして逃げることだったからだ。
それでも綾瀬と明智が暁星と戦うことを選んだのは、傷だらけのレキトが倒れているのを見て、黙って見過ごすことができなかったからだろう。
どんな強大な敵に挑むことになっても、自分が正しいと思えることを迷わず選択できるかどうか──。
暁星がアントの隊員たちを虐殺しようとしたとき、敵対することを躊躇したレキトと比べて、綾瀬と明智は揺るぎない芯の強さを持っていた。
「いいね、そういうの。熱くて、格好良くて、ちょっとだけ泣かせてやりたくなるよ」
七海は蜻蛉玉のかんざしを指で回しながら、闘技場のグラウンドの中央まで歩いてきた。
今からどう痛めつけようかと楽しみにしている表情。
観客席の綾瀬たちは静かに見守っている。
お互いの攻撃が当たる間合いで、レキトは七海と見つめ合った。
張り詰めた空気がしんと静まり返った瞬間、レキトと七海は同時に仕掛けた。
レキトは親指でホームボタンを叩いて、ライトグリーン色の光の弾を撃った。
七海は足を踏み込んで、蜻蛉玉のかんざしを突き出した。
《小さな番犬》が激しく吠え始める中、至近距離からの攻撃は交錯して、お互いに紙一重でかわす。
すかさずレキトは親指でホームボタンを連打して、ライトグリーン色の光の弾を連射した。
後ろへ下がった七海は屈んだり、素早くアバターを横にひねったりして、軽やかな身のこなしで避けつづけた。
全ての弾を回避しながら、蜻蛉玉のかんざしをくわえて、後ろ髪をねじって結ぶ。
綺麗にまとめた髪を蜻蛉玉のかんざしで留めて、懐からスマートフォンを手に取った。
「──《恋する双子座と痺れる三角関係》」
七海は唇をスマートフォンで隠して、呪文を唱えるようにつぶやく。
両手で横向きにスマートフォンを構えると、六等星のような微かな光が七海の両肩の上に2つ現れた。
プレイヤーと戦うために開発されたアプリ兵器にしては、息を吹きかければ消えそうなくらい弱々しい見た目。
けれども、《小さな番犬》の吠える声は前よりも確実に大きくなっていた。
【『相手の戦い方を見極めようと慎重になりすぎて、主導権を握られてしまう』。これが七海さんの伝えたかった弱点の1つですね?】
【うん、まあ正解。なんか小難しく答えてるけど、要は『考えすぎ』ってこと】
頭の中で七海との会話がフラッシュバックする。
『Fake Earth』に限らず、あらゆるゲームの対戦は一瞬の判断が勝敗を分ける。
対戦相手の出方を窺いすぎて、勝機を逃してしまっては本末転倒だ。
七海がレキトの「対戦相手を分析する戦い方」を弱点と指摘したのは、的を射たアドバイスと言えるだろう。
けれども、レキトは考えすぎる性格が致命的な弱点だとは思えなかった。
今までプレイヤーとして、一人のゲーマーとして歩んできた道が間違っていると思えなかった。
凛子と一緒にゲームセンターで遊んだ日々で培ったプレイスタイルが、この世界で通用しないとはまったく思わない。
だから、頭脳をフル稼働させて、目の前の状況を整理しろ。
対戦相手の思考を分析して、未来の行動を予測しろ。
全力を出し切って、限界を超えて、最善を尽くせ。
絶対に攻略できないゲームがないように、絶対に勝てないプレイヤーもいない。
視野を広げて、見方を変えて、攻略法を見つけるんだ!
今までの対戦した記憶が走馬灯のように駆け巡った。
凛子とゲームセンターで遊んだ日々から、数分前に七海に負けた模擬戦まで──。
無限にコマ送りされている場面は共鳴し合って、虹色に光り輝きながら1つにまとまり始めた。
そして、小さな鍵が完成したとき、目の前にスキルツリー画面が浮かんだ。
レキトは鍵を手に取って、スキルツリー画面の鍵穴に突き刺すと、新しい必殺技のアイデアが脳内にアンロックされる。
「──幻惑射撃戦術『THORN』」
レキトはスクエア型眼鏡の縁に触れて、反対の手の親指でホームボタンを長押しした。