69話 What's my name?
「やれやれ。やっとお出ましか。待ちくたびれたぞ」
推定10代後半の男性アバターが独り言のようにつぶやく。
真っ黒な外ハネヘアで、前髪が目にかかるほど長い男だった。
黒色にこだわりを持っているのか、丈の長いコートから靴まで全身が黒コーデに統一される。
思春期の中学生が妄想で描いた漫画の主人公みたいな見た目。
斜めを向いて座っている男性アバターは組んでいた足を下ろして立ち上がる。
だが、革張りソファから腰を浮かせた瞬間、男性アバターは丈の長いコートの裾を踏みつけた。
勢いよく体勢を崩した男性アバターは、華やかな柄のカーペットに頭をごちんとぶつける。
「……やれやれ。また俺はやらかしてしまったか」
うつ伏せに倒れた男性アバターは笑みを漏らして、気障ったらしく起き上がった。
丈の長いコートの裾をはたいて、涼しげな顔で襟を正す。
ただ、転んだときに当たりどころが悪かったのか、痛そうなあざが目の上にできていて涙目になっていた。
「伊勢海成郎。
このギルドを人知れず仕切ってる影のリーダーだ」
前髪をかき上げた伊勢海は名乗って、丈の長いコートの裾をはためかせる。
なぜか斜めに構えるように立っていて、流し目でレキトたちを見つめていた。
なんでギルドを人知れず仕切ってるらしい影のリーダーが、頼んでもないのに人前で堂々と自己紹介してるんだ?
レキトは頭に浮かんだ疑問を呑み込んで、ひとまず自己紹介することにする。
「遊津暦斗です。よろしくお願いします」
「私は明智彩花。
趣味はお菓子作りと猫カフェ巡りでーす」
「……須原杏珠。よろしく」
明智の自己紹介に続いて、革張りソファに座っている女性アバターは涼やかな声で名乗る。
推定20歳前後で、綺麗めのパンツコーデを着こなして、雪のように白い髪をポニーテールに束ねていた。
作り物のように美しく整った顔立ちをしているが、表情も作り物のように動かない。
この世界で生きているNPCよりアンドロイドらしい人物だった。
──初対面の印象として、伊勢海は格好つけるタイプで、須原はきっちりとしているタイプ。
──どちらもアジトの部屋の雰囲気を壊す、自堕落的な物を置きっぱなしにする人物には見えない。
レキトと明智が同時に振り返ったとき、誰かの人差し指が両方の頬にプニッと当たった。
「にゃははっ! 引っかかった、引っかかった〜!
2人とも、期待どおりの反応だね〜!」
真後ろに立っていた女性アバターがゲラゲラと笑う。
涙袋のふっくらした大きな垂れ目に、健康的な血色のいい肌で、首周りの髪がくびれたミディアムヘアの女性だった。
朝っぱらか夜遅くから酒を飲んでいたのか、耳たぶに当たる息がアルコール臭い。
ベージュ色のリブニットは胸元が緩く、片側の肩からずれ落ちていても気にする素振りがなく、色々とだらしなさそうな女性だった。
しかし、隙だらけな見た目とは裏腹に、涙袋のふっくらした女性アバターはレキトと明智に気づかれず背後を取った。
初めての場所にレキトは警戒していたにもかかわらず、真後ろで人差し指を構えていることを感じ取らせなかった。
《遊戯革命党》の暁星に背後から肩を組まれたときを思い出させる「無の気配」。
彼女はプレイヤーの中でも只者ではないことは間違いないだろう。
「あれれ〜? どうした、じっと見ちゃって?
もしかしてあたしに一目惚れしちゃったかな?」
「まったく違います。
……いえ、その、魅力的な方だとは思うんですが」
レキトは明智に肘で小突かれて、すぐにフォローを入れる。
「にゃははっ!
これから一緒に戦う仲間だから、気を遣わなくてもいいよん。
とりあえず冗談は置いといて、君たちに訊きたいことがあるんだよね〜」
──あたしの名前さ、わかる?
涙袋のふっくらした女性アバターは自分を指さして尋ねる。
答えてくれることを期待するように、レキトと明智を交互にちらちらと見た。
もしかして『Fake Earth』内で有名なプレイヤーなのだろうか?
基本的にソロプレイで活動していたので、直接会ったことのないプレイヤーの噂は聞いたことがない。
明智も申し訳なさそうな顔をして、どう返事すれば傷つけないのかを考えているようだった。
「あっ! わかんないなら、正直にわかんないでいいよ!
入団テストでも何でもないし。
反応見た感じ、たぶん君たちと『はじめまして』だよね?」
「……ええ、そうですけど」
「私もはじめましてです」
「だよね〜。残念だけど、そう上手くいくわけないか。
──実はあたし、記憶喪失でさ、自分がプレイヤーだってこと以外、なーんも覚えてないんだよね」
涙袋のふっくらした女性アバターは頬を掻く。
友達に笑える失敗談を話すような軽い口調だった。
微かに息がアルコール臭いし、酒の飲みすぎで記憶が一時的に飛んでいるだけではないだろうか?
山手線バトルロイヤルの翌日にゲーム内で体験したことの情報共有を行ったとき、綾瀬がチュートリアルのカブトムシと酒を一日中飲みすぎたせいで、その時の記憶がないことをなぜか嬉しそうに話していたことを思い出す。
「すみません、記憶がないって現実世界にいた頃のことも覚えてないんですか?」
「うん、皆無だね。
この世界のあたしの名前もわかんないし、リアルの名前も性別も年齢もわかんない。
まあプレイヤーだって覚えてるってことは、ゲームオーバーになったわけじゃないと思うけど」
涙袋のふっくらした女性アバターはあっけらかんとした口調で答える。
ゲームオーバーになれば記憶が消されることを知っているということは、『Fake Earth』のルールは一応覚えているようだ。
「とりあえず思い出すまで、あたしのことは『七海』って呼んで」と記憶喪失の彼女は名乗った。
姓名どちらにもいる名前だから、仮名として使うことに決めたらしい。
「七海さん、呼び名を教えてもらいましたけど、たぶんプレイヤー名なら確認できると思いますよ」
「えっ嘘!? どうすんの、彩花っち?」
「簡単ですよ。支給されたスマホのロック画面を左にスワイプすると、こんな風に『プレイヤーID』と『プレイヤー名』が見れます。
チュートリアルのジョンさんに教えてもらった、パスコードなしで使える機能ですよ」
明智はニコッと笑って、スマートフォンの画面を見せる。
金色のコインが表示されていて、【明智彩花(Akechi Saika)プレイヤーID:4583/0506/1998】と近未来チックな書体の文字が彫られていた。
もしも七海が本当のプレイヤー名をロック画面から確認できれば、そこから芋づる式に情報を得ていくことができるだろう。
新たな情報がわかっていくうちに、七海自身が記憶を取り戻すことができるかもしれない。
「あー、ね。そういう機能あるらしいね」
だが、七海の反応はあまり芳しくなかった。
期待に輝いていた目が落胆の色に変わる。
スマホゲームのガチャでSSRを引いたが、欲しかったキャラではなく入手済みのキャラだったときのようなリアクション。
レキトが彼女の仲間2人の方を肩越しに見ると、伊勢海は天を仰いで、須原は目を伏せている。
こいつ、まさか──。
レキトは息を呑み、七海をまじまじと見つめる。
頭に浮かんだ疑惑について、何かの間違いであることを祈った。
運営がプレイヤーに支給するスマートフォンは、敵プレイヤーと戦うためのギアがインストールされている重要アイテム。
おまけに命の代わりとなるコインがスマホ画面の下に埋め込まれているのだから、想像しているようなことがあるわけがない。
「いや、実はスマホもないんだよ。
なんか記憶なくしたときに、一緒に失くしちゃったみたいでさ。ホント困っちゃうよね〜」
七海は後ろ髪に触れて、呑気そうにあははと笑った。