67話 美談へのすり替え
「1つ目の質問です。
──この決勝戦、2日前のディズニーランドでの戦いと何かしら関係がありますよね?」
Jr.ウィンターカップの東京代表校を賭けた試合が始まったとき、サブアリーナ2Fの観客席に座るレキトはカリナに質問する。
審判が真上に投げたバスケットボールは、朱烏学院中学校の選手が味方のいる位置へ叩き落とした。
すぐさま桜上水中学校の背番号7番の選手がディフェンスにつくが、ボールを受け取った4番の選手は右に切り込むと見せかけて、左から鋭いドリブルで抜き去る。
そのまま単独で走り込んで、ゴール下から先制のシュートを決めた。
「『はい』、おっしゃるとおりです。
よくわかりましたね」
「俺とあなたたち組織との接点がそれしかありませんからね。
他に手がかりはないですし、消去法で判断しただけです」
「なるほど。
『メタ視点で考えた』ということですか。
これは簡単に正解されちゃいそうですね」
隣に座るカリナは微笑み、控えめに拍手する。
両手を顔の近くまで上げて、指先を重ねるように叩いていた。
自然と洗練されている優雅な所作。
親しみやすい態度で接する一方で、近づきすぎてはいけないような高貴さみたいなものを感じさせる。
レキトは片手をポケットに突っ込み、ライムミント味のフリスクケースを揺らす。
なぜカリナはレキトと会う場所にバスケットボールの試合会場を選んだのか?
彼女が出した謎に対して、「はい」か「いいえ」で答えられる質問をできる回数は残り4回。
タイムリミットの第3クォーター終了まで、残り時間は34分27秒。
口の中へフリスクを一粒放り込み、レキトは少女たちの試合を見つめる。
両校とも都大会の決勝戦まで勝ち上がるだけあって、選手のことを誰も知らなくても見応えのある試合だった。
流れるようなパス回し、高低差と緩急を使い分けたドリブル、体の軸がブレないジャンプシュート──。
並々ならぬ練習量を積んできたことが、一つ一つのプレイから伝わってくる。
桜上水中学校が中距離シュートを決めると、すぐさま朱烏学院中学校が速攻で点を取り返した。
「序盤を制した方が勝負を制する」と言わんばかりに、お互いに超ハイペースで攻めつづけて、それぞれのゴールネットを交互に揺らしていく。
だが、第一クォーターの終盤に差し掛かったとき、激しく点を取り合う試合に変化が訪れた。
朱烏学院中学校の4番がパスをカットした。
朱烏学院中学校の5番がシュートをブロックした。
朱烏学院中学校の7番がドリブルを奪い去った。
素早くカウンターの速攻を決めて、続け様に得点していく。
レキトはスマートフォンを操作して、都大会の決勝戦で戦っている両校の実績を調べた。
桜上水中学校はここ数年間目立った活躍がないのに対して、朱烏学院中学校は全国大会に5回連続で出場している常連校らしい。
第一クォーター終了のブザーが鳴り響いたとき、電子スコアボードの得点は12-26で、朱雀学院中学校が大差で勝っていた。
「どうです?
真面目に観てみると、思ったより面白いでしょ?」
誇らしげな顔をしたカリナはあごに手を当てて、弾んだ口調でレキトに尋ねる。
推しているアイドルを布教する人のように、共感してくれることを信じてやまない目をしていた。
レキトは口に手を当てて、喉まで出かかった言葉を呑み込む。
カリナが自然と親しげに接してくるので、大事な交渉相手であることをつい忘れてしまい、「この試合を見せる理由があるんですよね? なに普通に楽しんでるんですか?」と危うくツッコミを入れてしまうところだった。
「たしかに思ってたより面白いですね。
試合にスピード感があるのはもちろん、全国大会出場がかかってるからか、両校とも何が何でも勝ちたい気迫みたいなものを感じますし」
「そう言っていただけて何よりです。
第一クォーターが終わったばかりですが、どなたか注目してる選手とかいますか?」
「……そうですね。
素人目線になりますが、朱烏学院中学校の8番でしょうか」
「あら得点数の多い4番じゃないのは意外ですね。
もしかして気になるって、遊津さん、ああいう綺麗系の方がお好みなんですか?」
「試合開始からボールに一度も触れないで、多くの得点に貢献してるからですよ。
朱烏学院中学校の8番はコートを走るだけで、桜上水中学校の守備陣形を乱して、最後に4番が得点できる形を作ってました。
ディフェンスするときも、8番が自陣にスペースを作って、桜上水中学校がそこを攻めるように誘導してたんです。
第一クォーターのMVPは間違いなく8番の彼女ですよ」
朱烏学院中学校のベンチを見るように、レキトはカリナに目配せする。
第一クォーターに出場していた選手たちがスクイズボトルで水分を補給している中、背番号8番の選手は監督と作戦ボードを使って話し合っていた。
試合開始からハイペースな展開だったにもかかわらず、ポニーテールの彼女だけ汗をまったくかいていない。
レキトの見立てのとおり、朱烏学院中学校は8番の選手がキーパーソンであることは間違いないだろう。
だが、レキトが本当に注目している選手は、朱烏学院中学校の8番ではなかった。
カリナの質問に嘘をついたのは、その選手に注目する理由をまだ言語化できないからだ。
せっかく推理ゲームに挑戦している以上、気になった謎は自力で解きたい。
レキトはカリナに悟られないように、桜上水中学校のベンチに目を向けた。
桜上水中学校のベンチの端に座っている「背番号13番の控え選手」を見つめる。
背番号13番の選手は目を閉じて、手首につけた虹色のミサンガに触れていた。
小麦色に日焼けした肌が似合うスポーツ少女。
他の選手よりも体格が優れているわけでもなければ、顔立ちや髪型が目立つわけでもない。
──どうして試合に出ていない選手のことが気になるのか?
新たな謎について考察しようとしたとき、インターバル終了のブザーが鳴り響いた。
「おや、桜上水中学校は選手を一人替えたみたいですね」
灰色の目を細めたカリナは興味深そうにつぶやく。
背番号13番の控え選手がウィンドブレーカーを脱いで、短髪の7番の選手と交代してコートへ入っていた。
桜上水中学校を応援していた観客たちが活気だち、指笛を吹いたりマフラータオルを振り回し始める。
同級生らしき女の子たちはせーのと掛け声を合わせて、「みっちゃんファイト〜!!」と声を揃えてエールを送った。
「皆さん、お待たせしましたー!
桜中の勝利の女神、私がついに参戦です!
今日も全力で頑張りますので、力強い応援をよろしくお願いしまーす!!」
背番号13番の控え選手は元気良く叫んで、声援を送った観客たちに両手を大きく振る。
サービス精神旺盛なアイドルのように、カメラ目線でウィンクしたり投げキッスしたりしていた。
朱烏学院中学校の選手たちは意に介さず、マッチアップする相手の選手を指差していく。
13番の選手は白い歯をこぼして笑い、対戦校を真似するように、マッチアップする選手に人差し指を向けた。
審判のホイッスルが鳴り、第二クォーターは桜上水中学校の攻撃から始まる。
対戦相手のパスを通すことすら許さないように、朱烏学院中学校の選手たちは一対一で厳しくマークについていた。
辛うじてマークを振り切った10番にパスを出すと、近くにいた朱烏学院中学校の8番は走り込んで、色黒の5番と2人がかりでディフェンスにあたる。
囲まれた桜上水中学校の10番は味方へボールを戻すこともできず、色黒の5番にボールを奪われて攻守はあっという間に切り替わった。
「ボールボールボールボォォォォル‼︎」
交代した桜上水中学校の13番は叫びながら、全速力でボールを奪った5番を追いかける。
弾丸のような速さでコートを駆け抜けて、両手を上げて自陣のゴール前で立ち塞がった。
朱烏学院中学校の8番は逆サイドへ攻め上がっており、1対2と数的不利なディフェンスの実力が試される場面。
朱烏学院中学校の5番が味方を見た瞬間、桜上水中学校の13番はパスカットしようと飛び出した──。
が、視線で欺いた5番にドリブルで抜かれて、そのままゴール下からシュートをあっさりと決められた。
その後の試合を観ていくかぎり、桜上水中学校の13番は攻守ともに役に立っていなかった。
ギャンブル気味にプレイする癖があり、無茶なパスカットに何度も失敗して、無謀なドリブルを幾度なく止められていた。
拾えそうにないボールを追いかけて、速攻でゴール前まで攻め込んだオフェンスを防げないのに追いかけて、一人だけ途中出場なのに誰よりも汗だくになっている。
コートで戦っている選手の中で、「経験」と「技術」が明らかに足りていなかった。
だが、桜上水中学校の他4人の選手たちは、13番の積極的なプレイに感化されたように調子を上げていた。
13番がパスカットに失敗したときは、10番が素早くカバーに入り、相手のシュートをはたき落とした。
13番がドリブルをスティールされたときは、6番が死角からボールを奪い返して、流れるようにジャンプシュートを決めた。
「さすがキャプテン! ナイスヘルプ!」と13番はゴマをするような仕草をして、「また調子のいいこと言って」と呆れたように笑う6番とハイタッチを交わす。
──実力順に選手を並べることが、必ずしも強いチームになるとは限らない。
── 13番のギャンブル気味のプレイを味方がフォローすることで、結果としてチームの力がより発揮されている。
桜上水中学校を応援している観客たちは追い上げムードで盛り上がり、控え選手たちがベンチで応援歌を歌う声も勢いづいた。
第二クォーター終了まで残り3秒を切ったとき、桜上水中学校の 13番にボールが回った。
13番は3Pラインより前の位置からシュート体勢に入った瞬間、感情をなくしたロボットのような顔つきに変わる。
第二クォーター終了を知らせるブザーが鳴ると同時に、13番が放ったシュートはゴールのネットを揺らした。
電子スコアボードの得点は29-38に変わり、桜上水中学校は点差を1桁台に詰めて後半に折り返した。
「……面白い選手ですね、カリナさん。
味方の調子を上げるための交代要員かと思えば、土壇場で難しい3Pシュートを決めてみせるなんて」
「存分に試合をお楽しみくださってるみたいですね。
ただ、推理ゲーム中なのをお忘れではありませんか?
質問できるのはあと4回、タイムリミットは第三クォーターが終わるまでのルールですよ」
「ああ、それならご心配ありませんよ。
あなたが出したクイズの答えは、あと2回の質問でだいたい絞れますからね」
レキトは微笑み、左手の指を2本立てる。
なぜカリナはレキトと会う場所にバスケットボールの試合会場を選んだのか?
試合に出る前から13番が気になった謎も合わせて、第二クォーターでおよその見当がついていた。
10分間のハーフタイムの間、終始走り回っていた選手たちはベンチで休み、学生のボランティアらしき人たちがモップでコートに落ちた汗を拭いている。
真剣な顔に変わったカリナは、レキトの質問を静かに待っていた。
「2つ目の質問です。
今回の決勝戦で戦っている選手の中に、あなたの部下の家族がいますか?」
「……『はい』、そのとおりです。
それで3つ目の質問は何でしょうか?」
「桜上水中学校の13番、彼女は先日のディズニーランドの戦いで殉職した隊長の八重樫の娘ですよね?」
──やっぱり君は根がいい奴だな。
──まだ避難している人たちがいたから、戦いに巻き込んでしまわないように、攻撃するのをやめたんだろう?
レキトは八重樫の笑った顔を思い出す。
RPGでスキルツリーが順番に開放されていくように、八重樫との記憶が連鎖的に蘇った。
できれば見逃したいと本音を漏らしていたこと、いざ戦えば隊員たちと集団で体力を削りにくるプレイスタイルで手強かったこと──。
そして、レキトの恋人の真紀をかばったとき、《遊戯革命党》の暁星のギアで全身を剣に刺されて、惨たらしく殺された姿が脳裏にフラッシュバックする。
「『はい』、正解です。
ほとんど手がかりもない状態でよく気づきましたね」
「実は第一クォーターから彼女が気になってたんですよ。
もっとも、13番が八重樫の娘だと確信できたのは、表情が似ていたおかげですけどね」
レキトはカリナに種明かしして、ベンチで仲間と談笑している13番を見つめる。
第二クォーターが始まる前、朱烏学院中学校の選手を指差したときに見せた13番の白い歯をこぼした笑みは、八重樫が戦う前にレキトに向けた表情と瓜二つだった。
最後にシュートを打った瞬間に機械みたいな顔に変わったところも、八重樫が戦闘に入ったときの豹変ぶりによく似ている。
今回の決勝戦で13番が目立っている選手であることも含めて、彼女の正体を見抜くことは難しくないだろう。
ただ、13番が八重樫の娘であることがわかっても、カリナがレキトに死んだ隊員の娘の試合を見せる真意が何かはわからなかった。
質問できる回数はあと2回。
特殊防衛組織『アント』の代表、カリナ・オリベイラという人物の本質にどこまで迫れるのかが試される。
レキトが頭をフル回転させていると、カリナは口に手を当ててくすっと笑った。
「遊津さん、もう結構ですよ。
推理ゲームは終わりです」
「……何を言ってるのですか?
まだ質問は2回残ってますし、タイムリミットの第三クォーターは終わってませんよ」
「いえ、そういうことではなく、これ以上考えていただく必要がないんですよ。
私が出した問題の答えは、『この試合に4番隊隊長の八重樫の娘がいるから』で十分です。
私があなたに直接伝えたいことまで答えていただくことは求めてませんよ」
ゲームはあなたの勝ちです、とカリナは控えめに拍手を送る。
灰色の大きな目は優しく、尊敬の眼差しをレキトに向けていた。
どうやら『Fake Earth』でのハードな日々に慣れたせいで、推理ゲームの難易度を高く考えてしまっていたらしい。
「CLEAR‼︎」というテロップが、レキトの頭の中で思い浮かんだ。
だが、レキトは残された謎を解くことをやめなかった。
やり込み要素を残した状態でのゲームクリアに価値なんてない。
カリナの考えを当てるのは難易度が高いからこそ、ゲーマーとして攻略し甲斐がある。
それに、プレイヤーに殺された八重樫に関わる問題は、自力で答えに辿り着かなければいけないような気がした。
レキトはスクエア型眼鏡をかけ直す。
背番号13番の八重樫はベンチに座って、補給食のレモンのハチミツ漬けをガツガツと食べていた。
試合中とは思えない食べっぷり。「『もぐもぐタイム』というより『ばくばくタイム』だな」と6番がツッコミを入れて、給水していた10番は笑いを堪え切れず噴き出す。
──どうして背番号13番の八重樫は父親を亡くしたばかりなのに、彼女を含めた桜上水中学校の選手たちは誰もそのことを気にしている様子がないのか?
──もしかして父親が亡くなったことを娘は知らされていないのかもしれない。
レキトがカリナに探りを入れようとしたとき、死にゆく兄に両親が生きていると「嘘」をついた妹の美桜の顔が思い浮かんだ。
「カリナさん、八重樫の娘は父親が殺されたことをチームメイトに隠してますね?」
「……やはり簡単に正解されてしまいましたね。そのとおりです。
私が八重樫の殉職を家族へ伝えに行ったとき、娘の光帆さんは手を握りしめて、『チームのみんなを動揺させないために、決勝戦が終わるまで学校に連絡しないでほしい』と母にお願いしました。
決勝戦で勝って全国大会に出場することが、亡くなった父が一番喜ぶことだからだそうです」
小さい頃からバスケを熱心に教えてもらったみたいですよ、と遠い目をしたカリナはつぶやく。
悲しみを表立たないようにしている声だった。
父親がプレイヤーに殺されたことを知ったとき、当時の八重樫の娘はどんな様子で身内の不幸を隠すことを決意したのだろうか?
彼女は何でもないように取り繕って、涙を一滴も流していないような気がした。
「きっと多くの人にとって、これは『美談』として扱われるでしょう。
亡くなった人のことを思って、今を生きている人が前向きに頑張る。
この物語に励まされる人がいるかもしれません。
私自身、娘の光帆さんの覚悟を目の当たりにしたとき、胸を打たれるものがありました」
カリナは前を向いたまま、淡々とした口調で語った。
灰色の目には静かな怒りが宿っている。
「ですが、これは紛れもなく『悲劇』です。
一人の少女の父親が殺された。
決勝戦の晴れ舞台で戦う姿を観てもらうことができなかった。
彼女にとって起きてほしくなかった出来事のはずです。
この辛い現実を誤魔化すために、『美談』という言葉にすり替えてはいけないんですよ」
隣に体を向けたカリナはレキトを見つめる。
力強く揺るぎない視線だった。
レキトはカリナの目見つめ返す。
灰色の目に宿る怒りが燃え移ったかのように、胸の奥が熱くなっていくのを感じた。
「さて、本題に入りましょうか。
全世界の人々の虐殺を目論むヒューテックたちの計画を阻止するために、あなたたちに協力することへの是非について。
私たちの使命は、このような悲劇をなくすことです。
誰かにとって大切な人が命を奪われるようなことはあってはならない。
当たり前なものではなくなってきている、ささやかな幸せを守りたいんです。
だから、『アント』の代表としてお約束します。
──私たちは総力を挙げて、あなたたちと共に戦うことを」
真剣な顔をしたカリナは座った体勢で右手を差し出す。
綺麗な指がすらっと長い、気品のある手だった。
レキトは感謝の意を込めて、カリナと固い握手を交わす。
ハーフタイム終了を知らせるブザーが鳴り響き、両校の選手たちがコートへ向かっていった。
それからレキトとカリナは八重樫光帆の試合を見守った。
第三クォーターは朱烏学院中学校の攻撃から始まり、裏のエースの8番に初めてパスが回った。
素早く13番の光帆がボールを奪いに来た瞬間、一気に加速してスピードだけで抜き去った。
続けてヘルプに来た10番をロールターンで躱して、6番を股抜きドリブルで抜き、ゴール下の2人が立ちはだかるよりも先にシュートを放つ。
後半開始からわずか7秒、5人抜きのシュートはゴールリングのネットを揺らした。
電子スコアボードの得点は29-40に変わり、点差がふたたび二桁に突き放される。
朱烏学院中学校の応援が強まり、桜上水中学校の応援を呑み込んでいった。
背番号8番は鮮やかなパスカットを連続で成功して、切れ味の鋭いドリブルでディフェンスを何度も突破していく。
2人がかりでマークについても、ファウルで止めようとしても、8番の勢いは止まらない。
第三クォーターが終わったとき、両校の得点は35-68と倍近くの点差が開いていた。
だが、桜上水中学校の選手たちの目は諦めていなかった。
最終クォーターが始まった直後、全員で特攻するような勢いでコートを駆け抜けて、先制点をレイバックシュートでもぎ取る。
背番号8番を2人がかりでマークするのをやめて、光帆が代わりに1人でマッチアップについた。
蒸気のような湯気が体から立ち上る中、汗まみれの彼女は感情をなくしたロボットのような顔つきに変わる。
背番号8番がパスをもらって前を向いたとき、光帆は左手でボールを素早く奪い取った。
──それは1人の少女がバスケットボールの才能を開花させたことがわかるプレイだった。
──朱烏学院中学校に歩み寄っていた勝利の女神が立ち止まって振り返った瞬間だった。
点差を10点台に縮めた直後、光帆は背番号8番のドリブルをもう一度止めた。
他の桜上水中学校の選手たちも奮起して、背番号8番以外の攻撃をことごとく止めていく。
もはや桜上水中学校が勝たなければいけない相手は「時間」のみ。
朱烏学院中学校は勝利の女神の手を取って逃げ始めて、桜上水中学校は必死の形相で追いかけていく。
そして、試合終了まで残り5秒。
電子スコアボードの得点は72-73、桜上水中学校がシュートを1本決めれば逆転勝ちの展開──。
桜上水中学校の6番は熾烈なリバウンド争いを制して、敵ゴールに向かって走る10番にロングパスを出した。
10番がパスを受け取ったとき、手の汗でボールが滑ってコートの外へ転がった。
試合終了まで残り2秒を切った。
朱烏学院中学校の選手たちが口元を緩める。
「ボールボールボールボォォォォル‼︎」
だが、光帆は叫びながら、全速力でボールを追いかけた。
力強くサイドラインを踏み切り、コートの外に飛び出たボールに飛びついた。
試合終了まで残り1秒。
空中で身を翻した光帆は、遠くのゴールに向かってシュートを打つ体勢に入る。
後ろに倒れながら光帆は両手首を返して、山なりのパスを優しく出すようにシュートを放った。
試合終了のブザーが鳴り響く中、観客たちは息を呑んでシュートの行方を見守った。
桜上水中学校のベンチに座る選手たちは祈るポーズを取った。
朱烏学院中学校の8番はため息をつき、「ナイスシュート」と清々しい顔でつぶやく。
試合終了時に光帆が放ったシュートは、高さ3メートルのゴールのネットを揺らした。
サブアリーナの会場は静まりかえり、オレンジ色のバスケットボールがコートに落ちて弾む音が聞こえる。
次の瞬間、空気を震わすほどの大歓声が上がり、審判がホイッスルを吹く音がかき消された。
光帆の同級生らしき人たちは立ち上がって拍手を送り、叩きつづけた手のひらが真っ赤になっている。
桜上水中学校の選手たちはガッツポーズを取って、光帆に駆け寄って飛びついていった。
光帆は両手で顔を覆って、天を見上げて泣いていた。
火照った肩を震わせて、嗚咽を漏らしている。
汗の噴き出た頬を涙が伝っていく。
誰よりも喜んでいるように見えるはずの姿が、レキトには誰よりも悲しんでいるような姿に見えた。
「いい試合でしたね。
私も頑張らなければいけないと思えるゲームでした」
「本当にそうですね。
だからこそ、あなたたちと協力プレイするにあたって、最後に1つ質問してもいいですか?」
「もちろん構いませんよ。
1つとは言わず、気になることがあれば何個でも聞いてください」
「ありがとうございます。
訊きたいことは1つで十分ですよ。
ただ、大切なことですので、嘘偽りなく『はい』か『いいえ』でお答えください」
レキトはスクエア型眼鏡をかけ直す。
《遊戯革命党》が特殊なウィルスを精製するギアを使って、世界中の人たちを虐殺する計画。
特殊防衛組織『アント』の司令官の門松にレキトが伝えたとき、彼は何の証拠もない話に疑うような反応を示さなかった。
それどころか、組織の代表のカリナはレキトの話を同盟を組む決め手にしている。
プレイヤーを取り締まるNPCたちの機関が、当時逮捕しにきたレキトの言葉を素直に信じるとは思えない。
おそらく特殊防衛組織『アント』がレキトの話を疑わなかったのは、《遊戯革命党》の計画をレキトが伝える前から知っていたからだろう。
「カリナさん、あなたたち組織は俺たち以外に手を組んでいるプレイヤーがすでにいますね?」
「『はい』、正解です。
──極秘事項ですので、みんなには内緒ですよ」
悪そうな顔をしたカリナは人差し指を唇に当てた。