60話 ifルート
記憶はあらゆるものに触発されて蘇る。
忘れたい記憶も、忘れたことを忘れた記憶も、ふとしたことをきっかけに蘇る。
ただし、どの記憶が何をトリガーに蘇るのかは、自分自身でもわからない。
そして、今までトリガーにならなかったものが、あるとき急に記憶を蘇らせることもある。
この世界の恋人の真紀の微笑みを見たとき、レキトはNPCの母親のことを思い出した。
警察官のプレイヤーの淀川が撃った銃弾から、咄嗟にレキトをかばって殺された母親。
撃たれた胸から血を流しながら、レキトが無事だったことに笑っていた。
死を目の前にしているにもかかわらず、相手に心配をかけさせないための笑み。
真紀の笑った顔は、あのときの母親によく似ていた。
「レッくん、ずっと──」
「──《執剣秩序》」
暁星は真紀が話し終える前に、ギア名をつぶやいた。
その淡々とした声色は、彼女の発言を邪魔しようとする悪意すらなかった。
今から機能停止にする真紀が最期に何を言うのか、まったく気に留めていない。
まるで車のエンジンの音くらいにしか思っていない様子だった。
「暗黒色のフレーム」が真紀の周りに出現した。
前後左右から斜め上や斜め下まで、全方位にフレームが配置されている。
あらゆる角度の真紀の姿が、それぞれのフレームに映っていた。
18枚のフレームに映る真紀は、潤んだ目をそっと閉じていく。
「……絶対に……死なせて……たまるか!」
──起動されたギアを強制終了させるためには、使用したプレイヤーをゲームオーバーにするしかない。
うつ伏せに倒れたレキトは、地面に転がっているスマートフォンへ手を伸ばした。
いくつもの剣が突き刺さって、瀕死の重傷を負ったアバター。
シアン色の血に染まった手を前へ動かしていくにつれて、血管がブチブチと切れるような音が鳴った。
それでも必死に激痛を堪えて、指先が1ミリでも早く近づくように、伸ばした手を限界まで開く。
ぼんやりとした視界が徐々に狭くなっていく中、痙攣している指先がスマートフォンに届いた。
残された力を振り絞って、シアン色の血で汚れたスマートフォンを持ち上げる。
全神経を左手に集中させて、暁星の後頭部にイヤホンジャックを向ける。
だが、レキトは頭で思い描いたように、対プレイヤー用レーザーを撃つことができなかった。
ホームボタンに当てた親指に力がまったく入らない。
ほんのわずかに下方向へ長押しするだけなのに、コントローラのボタンが反応しなくなったように動かなくなっている。
「まだ力尽きるな」と思った瞬間、重たかったアバターが急に軽くなったのを感じた。
真紀を助けたい思いに反して、握っていたスマートフォンが手から滑り落ちる。
18枚のフレームは剣の形状に変わり、全方向から真紀に向かって襲いかかった。
──ねえ、レッくん。この子の名前はどうしよっか?
突然、目の前の光景が「ディズニーランド」から「知らない病室」に変わる。
穏やかな日光が差す部屋で、透き通るような白いベッドにいる真紀は赤ん坊を抱いていた。
この偽物の世界で産まれた命。
17歳の母親の腕の中で、赤ん坊は気持ち良さそうに眠っている。
ベッドの側に立っていたレキトは、この世界の新しい家族を見つめる。
これは「現実」ではない。
もしかしたら存在したかもしれないルートを想像した世界。
今から起きる悲劇から目を逸らして、こうあってほしかった未来を描いた妄想だ。
──もしレキトが今日のデートを延期していたら、真紀が殺されることはなかったのではないだろうか?
──あるいは《遊戯革命党》に加入することを決めていたら、今日ここで誰の血も流れずに済んだのではないだろうか?
あのときの選択を選び直すことができたら、今が違ったのではないかと思う分岐点がいくつもある。
けれども、どんなに後悔したとしても、一度過ぎ去った分岐点には二度と戻ることができない。
頭の中で滴型の種が発芽して、樹形図が広がっていくイメージが浮かぶ。
煌びやかに輝いている樹形図には、分岐点がいくつもあった。
将来レキトが体験するかもしれない未来が、分岐点から枝分かれした先に映っている。
その中の1本の枝が切り取られて、「真紀と子どもの3人で幸せに過ごす未来」が消えた。
「Set up! 『高輪ゲートウェイ駅』!
──目的地へ飛ばせ!! 《ULTRA PASMO》!!!」
《執剣秩序》の剣が真紀に刺さる直前、聞き覚えのある男の声が聞こえた。
場の空気をガラッと変えそうな、明るくて芯のある声だった。
真紀は目を丸くして、誰もいないはずの後ろを振り返る。
駅の自動改札機をICカードで通り抜けたときを連想させる電子音がピピッと鳴った瞬間、彼女はガストン像の噴水の広場から消えていなくなった。
うつ伏せに倒れているレキトは言葉を失った。
いま自分の目で見ているものが信じられなかった。
全方向から真紀に襲いかかった剣は、地面にすべて突き刺さっている。
数秒前まで彼女がいた場所には、シアン色の血の跡が一滴もない。
いったい何が起きたのか、レキトは状況をすぐに理解できた。
LINEで安否を確認しなくても、真紀が無事に助かったことがわかった。
こんなことができるのは、あのギアを持ってるあいつしかいない。
そして土壇場の救出作戦を立案したのは、ギアの扱いに長けた彼女だろう。
NPCを人間と変わらない存在だと認識しているプレイヤーは、レキト1人だけじゃないことを思い出す。
№500《ULTRA PASMO》。
山手線バトルロイヤルで優勝したプレイヤーが入手できる、「使用したプレイヤーがゲーム内で一度通過したことのある座標へテレポートする」空間転移系のギア。
使用プレイヤーのアバターに触れていれば、複数の人や物も同時にテレポートできる性能。
このギアはNPCがプレイヤー同士の戦いに巻き込まれないように、安全な場所へ避難させることを可能とする。
ふたたび電子音が広場でピピッと鳴り響いた。
よく知っている男女のプレイヤーが手をつないで、レキトの前へ瞬間移動したかのように現れる。
──プレイヤー名「綾瀬良樹」。
──プレイヤー名「明智彩花」。
協力プレイしている2人はつないだ手を解いて、安堵したような顔でふぅっと一息ついた。
「ひゃ〜今のはヤバかった! 超ギリギリ!
危うく串刺しになるかと思って、玉ヒュンしちゃったんだけど!」
「ね! 私も遠くから見ててハラハラしちゃった!
でも、良樹くん、こういう生きるか死ぬかの瀬戸際って意外と楽しく感じない?」
「うわ、それマジでわかる〜!
なんかアドレナリンがブワッて出るんだよね!
これを知っちゃうと、ちょっとやそっとの刺激じゃ物足りないっていうかさ!」
「けど、さっき乗ったスプラッシュ・マウンテンはビビったでしょ?
最後に落ちるときの写真、良樹くん目を閉じてたし」
「いや、だってアレは別格じゃん!
とっとと落ちて終わりたいのに、すげえ焦らされるんだぜ。
水しぶきでズボンが濡れちゃったときなんてさ、漏らしたんじゃないかってマジ焦った!」
綾瀬は後頭部に手を当て、能天気そうな顔で明るく笑う。
ドナルドの帽子をかぶっていて、派手なオレンジ色の前髪を中に入れ込んでいた。
頬に星形のホログラムをつけた明智は、ミニーのカチューシャを頭につけている。
リトルグリーンまんのカップを片手に持ち、ランタンに似たポップコーンのバケットを首から下げていた。
「……どうして? ……2人が……ここに?」
意識が遠のきそうになる中、レキトは質問する。
暁星のギアにやられて、全身に剣が突き刺さったアバター。
シアン色の血で汚れた手はタッチパネルの誤作動を起こすため、綾瀬と明智にLINEで助けを求めることはできなかった。
たとえ《ULTRA PASMO》ですぐに駆けつけられたとしても、綾瀬たちはレキトが戦いに巻き込まれたことを知る術はなかったはずだ。
「あれ? 良樹くんがLINEを送ったと思うんだけど……。
もしかしてレキトくん見てなかった?」
「あ! 悪い、彩花!
『送っとく』って言いながら、完全に忘れてた!
……まあ、なんていうか、その、見てのとおりだよ」
「もうー! ていうか、意味深な感じに説明しないでよ!
レキトくんがデートに出かけた後、私が『ディズニーランドいいな〜』って言ったら、良樹くんが『NPCのゼミ仲間と制服ディズニーしたことがある』って言うから、《ULTRA PASMO》で入場ゲートへワープしてきたって話でしょ!
……いちおう先に言っておくけど、レキトくんがいないから2人で出かけただけで、隠れてデートしてたってわけじゃないからね!」
明智はレキトに念押しして、綾瀬の背中をビシバシと叩く。
小さな耳は湯気が出そうなくらい真っ赤になっていた。
両手を顔の前で合わせた綾瀬はヘラヘラと笑っている。
そして、地面に倒れているレキトの方を振り返って、「今からカッコいいところを見せるから、ちゃんと見ててくれよ」と歯の浮くようなセリフをさらっと言った。
《小さな番犬》の吠える声が小さくなった。
赤色のスマートフォンの振動が弱まる。
明智が目配せして、綾瀬はうなずいた。
2人はスマートフォンをつかみ、《遊戯革命党》の暁星に視線を向ける。
「いいね、とっても仲が良さそうで。
うちの和気藹々としたギルドにぴったりだ。
──だから、君たち全員をスカウトするために、ギルドの代表として実力をアピールさせてもらうよ」
嬉しそうな顔をした暁星は拍手して、握手できない距離にいる2人へ手を差し出す。
そして、対戦相手を挑発するように、人差し指をくいくいと曲げた。