58話 最期の言葉を言う前に(前編)
これはレキトがゲームに参加する523日前、NPCの恋人「茅野真紀」の物語である。
付き合って3ヶ月が経った頃、レッくんの家の晩御飯に初めてお呼ばれしたので、当日までにテーブルマナーに関する本を手当たり次第読むことにした。
「普段どおりで大丈夫だよ」とレッくんは優しく言ってくれたけど、このイベントの重要性を全然わかっていない。
「親が息子の彼女に会いたい」というのは「息子にふさわしい相手かどうかを見定めたい」ということだ。
しかも一緒に食事をする場所はレッくんの家。
料理のメニューはレッくんの家族が決める。
食べ方が試されるパスタや焼き魚がさりげなく出てきてもおかしくはなかった。
正直なところ、レッくんの親に好かれなくても構わない。
まだ高校生カップルなんだから、今すぐ結婚をするわけでもないし、嫌われたら会わなければいいだけの話だ。
もし交際を反対されるようなことになっても、レッくんは親の言いなりになるような人じゃない。
ただ、レッくんの家族から悪い評価を受けるせいで、レッくんに嫌な思いをさせることが嫌だった。
本で勉強したテーブルマナーは、考えずにできるようになるまで何度も復習した。
それ以外の立ち居振る舞いは、YouTubeで寝る間を惜しんで勉強した。
当日はNHKのアナウンサー風の服装に着替えて、開店1時間前に並ばないと買えないタルティンの四角缶を手土産に持っていく。
──できることは全部やった。
──けれど、準備をやりすぎているところが、かえって鼻につくのではないかと不安になってくる。
隣にいるレッくんが自宅のインターホンを鳴らしたとき、心臓が胸から飛び出しそうなほど緊張しているのを感じた。
「お、お、お待ちして、おりました。
わわわ、私、妹のみみみ美桜です!
さ、さ、さあ、どどどうぞ!
上がっちゃって、くくください!」
玄関のドアを開けた妹の美桜ちゃんは、早口で噛みまくりながら挨拶する。
今っぽいシースルーバンクが似合っており、透けて見えるおでこは彼女の愛らしさを強調していた。
可愛らしい目と合った瞬間、美桜ちゃんは顔を赤くする。
そして、手と足が同時に出すように歩いて、リビングに案内してくれた。
「いらっしゃい、真紀さん。兄の優斗です。
いつも弟がお世話になってます」
兄の優斗さんがにこやかに微笑みかける。
公家っぽい顔立ちに、品の良さそうな物腰。
もし教育実習にうちの学校へやってきたら、女子生徒がSNSのアカウントをこっそり探しそうなモテる雰囲気のある人だった。
美容院に行きたて感があるツヤ髪で、全身をスーツでばっちり決めている。
「もしかして今日は正装!?」と不安がよぎったが、リビングにいるレッくんのご両親も妹の美桜ちゃんもカジュアルな私服だった。
「……兄さん、なんで結婚式に行く人みたいな格好してるんだ?
気合い入りすぎてて、ちょっと怖いんだけど」
「何を言ってるんだ、暦斗。
大事な弟の彼女に初めて会うんだぞ。
身だしなみを完璧に整えるのは、兄として当然の義務だ」
「わ、わ、我が家へ、よよようこそ、ままま真紀さん!
き、き、今日は、じじじ自分の家だと思って、ゆゆゆっくりしていっててて、くだだださい!」
「……お父さん、落ち着いて。
バグったゲームキャラみたいになってるから。
真紀に変な家族だって思われるだろう」
レッくんは呆れた顔でため息をつく。
家族同士で気兼ねなく会話しているだけなのに、まるでコントを繰り広げているようだった。
思わず微笑んでしまうと、キッチンにいるレッくんのお母さんも口元を緩めている。
お互いに同じ顔をしていることに気づき、一緒にクスクスと笑い合った。
「さあ、みんな座って。
冷めないうちに食べましょう」
レッくんの家の晩御飯は、豪華なおもてなし料理だった。
サーモンとアボカドの生春巻き、チキンときのこのクリームスープ、さっぱりとしたローストビーフetc.。
盛り付けを見るだけで、おいしいことを確信させる逸品の数々だった。
どの料理も見た目の期待を超えた味で、緊張していたことを忘れてしまうほどだった。
おいしいものを食べながらの会話は自然と弾んだ。
レッくんのお父さんも美桜ちゃんも緊張が解けたようで、昔のレッくんの面白エピソードを色々と話してくれた。
自分から進んで喋りたくなるくらい居心地がよい一時。
家にお邪魔する前は「早く帰ろう」と思っていたのに、いざ帰る頃には「もっと長居したかった」と思うようになっていた。
「今日はありがとうございました。
作ってくださった料理、どれもとってもおいしかったです」
「いえいえ、こちらこそ。
またいつでも食べに来てちょうだい、真紀ちゃん。
美桜も次に会える日を楽しみにしてるみたいだし」
「お母さんの言うとおり、絶対に来てね!
真紀さん、約束だよ!」
「もちろんだよ、美桜ちゃん。
またインスタのこととか色々と話そうね!」
夜道をレッくんに付き添われて、レッくんの家族4人に見送られる。
10メートル先の角を曲がる直前に振り返ると、笑顔でみんな手を振ってくれている。
真紀は歩調を緩めて、大きく手を振り返した。
◯
「ディズニーランドのトイレに鏡はない」というのが迷信でよかった。
涙で崩れかけた目元の化粧を直しながら、真紀は情けない自分にため息を漏らす。
妊娠したことを明るく打ち明けて、両親を亡くしたレッくんに負担をかけないようにするつもりだった。
産みたい気持ちはあったけれど、子どもを堕ろす覚悟はできていた。
けれども、レッくんは真紀の腹に手を優しく当ててくれた。
金銭的な心配をかけないように、「起業した」と嘘をついて、遺産を相続しただろうウェブ通帳を見せて。
『真紀と産まれてくる子どもを幸せにする』と約束してくれた。
昔から素敵な彼氏であることはわかっていたけれど、「恋人になってくれた人がこの人でよかった」と今日ほど思ったことはない。
もちろん高校生2人で子どもを育てることは、想像以上に大変なことになるだろう。
夜遅くになっても寝つかないなど、思い通りにいかないことの方が多いはずだ。
真紀の親が子育てに協力してくれたとしても、精神的にも肉体的にも辛くてどうしようもないときがあるかもしれない。
それでもレッくんと一緒なら、不思議となんとかなりそうに思えてくる。
むしろ産まれてくる子どもとの日々を、憧れたキャンパスライフのように待ち遠しく感じるようになっている。
今の真紀にとって、これからの自分の未来はとっても明るい気がした。
「……あれ?」
トイレから出た真紀は周りをキョロキョロと見回す。
なんだか人が少ない。
いつも混みすぎて移動するだけで一苦労するディズニーランドが急に空いているように感じた。
どのアトラクションも並んでいる列がなくなっている。
乗り場前でぎゅうぎゅう詰めになっているベビーカーも片手で数えられるほどしかなかった。
──もしかしたらディズニーランドで何かあったのかも。
真紀はスマートフォンを手に取って、Twitterで「ディズニーランド」のつぶやきを検索した。
今ディズニーランドに来ている人たちのつぶやきがスマホ画面に表示される。
ガストン像の噴水のある広場で「ヒューテック」が現れたため、みんなレストラン内や入口の方へ避難しているらしい。
ヒューテックが現れた場所は、レッくんがトイレに行った真紀を待っている場所だった。
慌ててレッくんに電話をかけようとした瞬間、LINEの通知でスマートフォンが振動する。
ちょうどレッくんからのメッセージ。
真紀は即座にトーク画面を開いて既読する。
『近くでヒューテックが出たらしい!
俺も向かってるから、急いで入場口まで避難して!』
とりあえずレッくんが無事でよかった。
真紀は胸をなで下ろして、待ち合わせ場所の入場口を目指す。
だが、数歩歩いたところで、真紀は立ち止まった。
急に妊娠した腹が冷たくなって、きゅっと締め付けられるような痛みがあった。
普段なら何でもないようなことなのに、今日は何かのシグナルに思えてならない。
レッくんの両親はヒューテックに変異した警察官に殺されたことを思い出す。
レッくんにとって、ヒューテックは両親の仇。
恋人や家族を失った人たちが、すべてのヒューテックに只ならぬ憎しみを抱いているのはよくある話だ。
真紀を安全な場所へ遠ざけるように嘘をついて、実は自ら危険を冒そうとしていてもおかしくない。
真紀は振り返って、ガストン像の噴水のある広場へ引き返した。
いま自分がどれだけ危ないことをやろうとしているのかはわかっている。
ヒューテックのいる現場へ近づくことは、台風の日に大荒れしている川へ飛び込むようなものだ。
それでもレッくんが勝ち目のない仇討ちをやろうとしているなら、なんとしてでも止めなければいけない。
妊娠した体で転ばないように、真紀は早歩きで急いだ。
思い違いであることを祈りながら、レッくんと一緒にいた場所へ戻る。
ガストン像の噴水のある広場には、生きているのかどうかがわからない人たちが一箇所にまとめられていた。
死体置き場のような光景。
一箇所にまとめられた人たちから5メートル離れたところに、ヒューテックらしき男性が立っていた。
そして、ヒューテックらしき男性の足元に、うつ伏せに倒れたレッくんの姿が目に飛び込んでくる。
いくつもの鋭い剣に全身を刺されていて、レッくんはおびただしい量の血を流していた。
「……レッくん!」
真紀は20メートル先にいるレッくんに向かって走った。
「逃げろ」とレッくんは目で訴えていたけれど、重傷を負った恋人を放っておくことはできなかった。
ヒューテックらしき男性をなんとかしなければ、レッくんは間違いなく殺されてしまう。
奇跡に縋る思いで、真紀はヒューテックらしき男性の顔へスマートフォンを投げた。
しかし、投げたスマートフォンは、ヒューテックらしき男性に片手ではたき落とされた。
目の前に飛んできた羽虫を無心で追い払うようなはたき方。
宙をくるくると回転しながら、真紀のスマートフォンは地面に落ちていく。
落下の衝撃でスマホ画面がミシッと割れる音が聞こえた。
ヒューテックらしき男性は真紀にスマホカメラを向けた。
QRコードを読み取るときのような目で、真紀をカメラ越しに見つめている。
「──《執剣秩序》」
ヒューテックらしき男性はスマホ画面を叩いて、何か呪文らしき言葉を唱えた。
スマホカメラのレンズが光った瞬間、何もないところに「真っ黒なフレームみたいなもの」が浮かび上がった。
真っ黒なフレームはカメラで写した人物を逃がさないように配置されていた。
瞬く間にグチャッと音を立てて、すべてのフレームが黒く塗り潰される。
真っ黒に塗り潰されたフレームは剣の形状に変わって、全方向から素早く襲いかかった。