51話 心優しい人、偽らざる本音
忌引きで休んだ期末テストの追試を終えたレキトは、真紀と待ち合わせした校庭の藤棚に向かった。
『校内マップ』を頭に浮かべて、北校舎と西校舎をつなぐ渡り廊下を歩く。
12月の初旬、吐く息は微かに白い。
運営から毎月支給される100万円の電子マネーを使って、購買の自販機で温かい缶コーヒーを2本買う。
紫藤と「装備アイテムの洋服」の買い物をして以来、電子マネーはほとんど使っておらず、「残高は84万2851円です」とスマホ画面に表示される。
剪定する前の枝が絡むように伸びた藤棚の下、真紀は英語の長文読解の参考書を読んでいた。
眩しい夕陽を横顔に浴びながら、意に介さない様子で文章をシャーペンのペン先で追っていた。
一区切りついた様子になるまで待ち、近づいたレキトは真紀の名前をタイミング良く着いた感じで呼ぶ。
振り返った彼女に缶コーヒーを差し出すと、真紀の表情はぱっと明るくなった。
「お疲れ様、レッくん。追試はどうだった?」
「まあまあ、かな。
見直す時間はなかったけど、解答欄は全部埋めれたし」
「おっ、手応えありか。さすが優等生」
「校内模試学年1位が何を言ってるんだ、真紀。
昨日LINEで『期末は楽勝だよ』って言ってたけど、全然そんなことなくてビックリしたよ」
缶コーヒーのプルタブを開けて、何も言わずに少しずつ飲みながら、レキトたちは並んで歩く。
湯気で眼鏡のレンズが曇ると、隣を歩く真紀がくすくすと笑った。
帰り道に通る公園で、空き缶用のゴミ箱へ2人で飲み終えた缶を同時に放り投げる。
どちらの缶もゴミ箱の縁で弾んでから中へ入り、お互いに目配せを交わして笑い合った。
永福町駅のホームに着くと、ちょうど到着のアナウンスが流れた。
真紀がマフラーに顔をうずめたとき、レキトは彼女が悲しそうな表情を隠したように見えた。
どうしてそう感じたのかはわからない。
気のせいだと思い直して、停車した電車に2人で乗った。
「そういえば今日も塾か、真紀?」
「うん、2コマ。世界史と古文の文系デイ。
終わったら自習室にこもる予定かな」
「そっか。毎日頑張ってて凄いな」
「狙ってるところが狙ってるとこだしね。
今の時期から頑張っておかないと」
真紀は網棚にスクールバッグを載せて、吊革を持っていない方の肩を軽く回す。
塾のテキストや参考書が多く入っているのか、網棚を置いたスクールバッグは少しだけ膨らんでいた。
彼女が志望する進学先は国公立医学部。
中学3年生の頃、姉の出産に立ち会ったことをきっかけに、産婦人科の医者を目指すことを決めたらしい。
「たまには息抜きしてくれよ。
真紀は十分に頑張ってるんだし。
最近の模試もA判定が出たんだろう?」
「心配ありがとう。
でも、大丈夫だよ。
……私は今日も息抜きできてるし」
真紀はレキトを上目遣いに見上げた。
愛嬌のある丸くて大きい目を軽く細める。
意味深な視線、悪戯っぽい笑み。
健康的な色の唇は、柔らかそうで艶々としている。
移りゆく車窓の風景、眩しい夕陽が電車内に差し込んでいく。
隣にいる真紀のセーラー服が赤く色づいた。
彼女の形のいい耳はとくに赤く染まっている。
まもなく次の駅に到着する旨の車内放送が流れる。
井の頭線の電車が明大前駅のホームに入っていく。
車両内の乗客の何人かが、降りる準備をモゾモゾと始めた。
真紀もつま先立ちになって、網棚からスクールバッグを下ろす。
「レッくん、明日の朝もいつもの電車でいい?」
「……ああ、大丈夫だよ。真紀、勉強頑張ってきて」
「ありがとう。頑張ってくる。じゃあ、またね!」
華奢な肩にスクールバッグをかけて、真紀は電車からホームに降りた。
すぐさま発車ベルが鳴り響き、電車のドアはあっという間に閉まる。
電車はふたたび走り始めて、明大前駅のホームから離れていく。
遠ざかるレキトの姿が見えなくなるまで、駅のホームを歩く真紀は手を小さく振っていた。
◯
プレイヤーが操作するアバターは、ゲーム開始時に憑依されるまで、NPCとして人生を歩んでいる。
今、この世界でプレイヤーのレキトが真紀と恋人関係にあるのは、過去にNPCのレキトが彼女と付き合うようになったからだ。
そして、高校生の男女が交際すれば、性的関係を持つこともあるだろう。
プレイヤーのレキトに身に覚えがなくても、NPCのレキトが真紀とセックスをしていたとすれば、その行為のやり方次第で真紀の妊娠は起こり得なくもない。
真紀が鞄から取り出した、笑顔の赤ん坊の絵が表紙の「母子健康手帳」を目にした瞬間、レキトは心臓が一瞬止まるのを感じた。
思わず息を止めて、咄嗟に首を横に振りそうになった。
頭の中で《小さな番犬》が吠えているイメージがよぎる。
片手をポケットに突っ込み、赤色のスマートフォンが震えていないことを確かめた。
もし真紀が妊娠した子どもを産むことになったら、レキトは父親の責任が生じることになる。
彼女の両親から支援を得ることができたとしても、高校生が子どもを育てることは簡単なことではないはずだ。
恋人として定期的にデートする今と比べて、時間的な制約がさらに増えて、プレイヤーとして活動できる時間も減るだろう。
──現時点でさえNPCの高校生のふりをするためにゲーム内の学校に通っているレキトは、プレイ時間を無駄にしている。
──けれども、プレイヤーであることを隠し通さなければ、NPCの警察などを敵に回して、ゲーム攻略に支障をきたす恐れがある。
──何より操作しているアバターが真紀の彼氏である以上、妊娠した彼女に何もしないわけにはいかない。
真紀に妊娠を告げられてから、ここまで思考に費やした時間は約1秒。
恋愛シミュレーションゲームの選択肢が頭に浮かんだ。
ここでの選択によって、今後の自分の在り方が大きく変わるだろうターニングポイント。
このアバターの人生の分岐点より先に広がる、複数の未来を想像する。
「責任を取ろうとか、そういうことは考えなくていいよ、レッくん。
お父さんとお母さんに相談したら、『好きにしなさい』って言ってたし。
怒られるかなって思ったけど、意外とそんなこともなかったしね。
私のことは気にしなくていいから、レッくんは自分がどうしたいかだけを考えて」
隣に座っている真紀は優しい表情を浮かべていた。
腹部から膝の上に右手を移して、温かい眼差しでレキトを見守っている。
デートで立ち寄ったカフェでくつろいでいるような居住まい。
穏やかで話しやすい雰囲気を醸し出している。
この世界に来てから約1ヶ月、レキトが一緒にいるとき、真紀は子どもができた素振りをまったく見せなかった。
何かに悩んでいる様子もなく、ふとしたときに暗い表情をすることも一度もなかった。
おそらく妊娠したことを隠していたのは、NPCの両親を殺されたレキトのことを気遣ったからだろう。
今さっきレキトに妊娠を告げたときも、彼女は軽いトーンで明るく打ち明けた。
今まで妊娠したことを秘密にしていたのは、それが「望まない妊娠だったから」で間違いない。
それなのに、辛い目にあった恋人に心労をかけないように、妊娠したことを何でもないように取り繕っている。
出会ったときから今この瞬間まで、レキトがNPCの彼氏を孤独に演じていたように、真紀も普段どおりの彼女を孤独に演じている。
レキトは口を結んだ。
真紀は親の意見を話したが、彼女自身はどうしたいのかを話していない。
「私のことは気にしなくていいから」と切り捨てている。
頭に浮かんだ複数の未来は消えて、分岐点の先にある道筋は1本だけに絞られる。
目の前の恋人の目を見つめて、レキトは自分の選択を告げることにした。
「真紀、俺のことを考えてくれてありがとう。
でも、俺がしたいと思ったことは、真紀を支えることだ。
だから、子育てできる体制を整えるよ。
──実は起業をこっそりしててさ、その事業がうまくいきそうだから、金銭的にはなんとかなると思うし」
レキトは微笑み、「嘘」をつく。
赤色のスマートフォンをつかみ、「電子マネー残高確認」のアプリを起動した。
Web通帳を表示して、「178万円3660円」の貯金残高を真紀に見せた。
『Fake Earth』のプレイヤーは、運営から毎月100万円の電子マネーが支給される。
「この世界での活動資金は、労働なしに得ることができる」ということだ。
年収に換算すれば、非課税の1200万円。
毎日ベビーシッターをフルタイムで雇っても、3人家族を養うことのできる金額だ。
表向きは養育費を稼ぐために働くことにすれば、NPCの高校生のふりをするために学校へ通っている時間を、プレイヤーとして活動する時間に充てることができる。
もちろん真紀の親から学校へしっかり行くように言われるかもしれないが、出席日数と成績が問題なければ、仕事の都合で学校を多少休むことは黙認されるはずだ。
綾瀬と明智との協力プレイで、《迷える羊の子守歌》の催眠音波で子どもを寝かしつけてから、《ULTRA PASMO》の瞬間移動で合流することもできる。
そして、真紀がレキトに本当は言いたかっただろう、「子どもを産みたい」という気持ちを尊重することができる。
「真紀、俺は何があっても味方でいる。
もし不安なことがあるなら、これから遠慮せず何でも言ってくれ。
迷惑なんかじゃないし、頼ってくれる方が嬉しいから。
『真紀と産まれてくる子どもを幸せにする』って約束するよ」
レキトは左手を真紀の手に重ねた。
重ねた手を持ち上げて、真紀の腹部に優しく触れる。
彼女の手を強く握り、ゆっくりとうなずきかけた。
真紀は愛嬌のある丸くて大きい目を瞬かせた。
言葉を失った様子、優しい微笑みは口元から消えていた。
真剣な顔をしたレキトが瞳に映っている。
やがて彼女の唇が震えはじめた。
深黒色の瞳がじわりと潤んでいく。
重ねたレキトの手をぎゅっと握り返す。
真紀が俯いたとき、透き通った滴がレンガ敷きの地面に少しずつ落ちていった。
「……良かった。……ホント良かった。
……あんな悲しいことがあったばかりなのに……こんなことになっちゃったから。
……私たち高校生だし……もし堕ろそうって言われたら……仕方がないかもって思ってて。
……でも私は嫌な気持ちがあったから……どうしようって……ずっとずっと色々考えてて」
真紀は口に手を当てて、嗚咽を漏らす。
上向きの長いまつ毛は濡れていた。
握った手は弱々しく震えている。
「今まで1人で不安にさせてごめん、真紀。
けど、『中絶』が選択肢にあるわけないだろう」
「……ありがとう……レッくん。
…‥やっぱり……いつも優しいね。
……ごめん……ほんのちょっとなんだけど……肩を借りていいかな?」
泣き顔の真紀はレキトの左腕を引っ張る。
握った手を離さないまま、潤んでいる目元をレキトの肩に当てた。
彼女の涙の温かさが服越しに伝わってくる。
レキトは何も言わず、真紀の頭をそっと撫でる。
それから真紀が泣き終えるまで、5分もかからなかった。
また何でもないように取り繕ったのではないかと心配したが、彼女の赤く腫れた目には涙が残っていなかった。
真紀はスマホのインカメラを手鏡代わりにして、「……うわ、自分の顔にドン引きだ」とため息をつく。
涙で化粧は崩れていたけれど、その表情は泣く前よりも晴れやかだった。
「レッくん、私、ちょっとお手洗いに行ってくるね。
あと、ついでに何か買ってくるよ」
「ありがとう。じゃあポップコーンをお願いしようかな。
味はオレンジチョコで」
「オレンジチョコ、美味しいよね。
わかった。人気の味はけっこう並んでるかもだから、のんびり待ってて」
真紀はベンチから立ち上がり、『美女と野獣』の城の方へ歩いていく。
すかさず足を止めて、早足で引き返して、恥ずかしそうにレキトの前を通り過ぎた。
どうやらトイレの場所を間違えたらしい。
遠のく真紀は途中でレキトを振り返り、にこやかな笑顔で手を軽く振った。
この世界の恋人に手を振り返した後、レキトは口元に浮かべていた笑みを消す。
真紀の姿が見えなくなったのを確認して、赤色のスマートフォンを手に取った。
電源ボタンでスリープモードを解除して、ホーム画面にいる《小さな番犬》を見つめる。
《小さな番犬》は頭がハチミツの壺にハマって、抜け出せずにジタバタともがいている。
「さて、そろそろ用件を話してもらおうか。
──さっきから見張ってること、こっちはとっくに察してるぞ」
レキトは親指をホームボタンに添えた。
視線を送ってきた相手を睨みつける。
《小さな番犬》の青いスパイク首輪の色は、警告色の黄色に変わっている。
ガストン像の噴水のある広場には、7人のアバターがいた。
噴水の縁に座ったカップル2人は、彼氏が彼女の服に肩乗りチップをつけることに苦戦していた。
バラエティ系ユーチューバーらしき4人組は、ポッキーゲームでチュロスを食べている様子を楽しそうに撮影している。
清掃員の男は箒を掃いて、落ち葉でミッキーの絵を作っている。
清掃員の男は箒でミッキーの絵を崩して、箱型のちりとりに放り込んだ。
バラエティ系ユーチューバーらしき4人組は、動画の撮影を中断した。
噴水の縁に座ったカップルの彼氏は、肩乗りチップを彼女の服から外す。
7人のアバターはレキトの方へ歩き始めた。
尻ポケットから、ハンドバッグの中から、モッズコートの袖口から、各々のスマートフォンを取り出していく。
全員でレキトの座るベンチの前を囲んだとき、中央に立つカップルに変装していた男がスマートフォンを掲げた。
電源ボタンを人差し指で押して、真っ暗な画面を明るくする。
彼のスマートフォンの画面には、防犯カメラの映像──。
【眼鏡を外したレキトが明智彩花と電車内で戦っている姿】が映っていた。
「はじめまして、遊津暦斗くん。
僕は特殊防衛組織『アント』第4隊隊長の八重樫颯真。
──本日14時39分、ヒューテック認定された君を逮捕しにきた」
親指でスマホ画面をスワイプして、八重樫は電子データの逮捕状を見せる。
「精神憑依罪」という現実世界で見たことのない罪名が記されていた。
プレイヤーのレキトに対して、「ヒューテック」の呼称を用いている。
「特殊防衛組織」という名前から推測するに、おそらく彼らはプレイヤーからの自衛を目的としたNPCの特殊部隊らしい。
「……真紀が戻ってくるまで5分くらい、か。
1人あたり目標30秒ってところだな」
レキトはスクエア型眼鏡をかけ直す。
頭にタイムリミットの数字が浮かんだ。
5分間のカウントダウンが始まったと同時に、アバターの重心を前に移す。
だが、対プレイヤー用レーザーを起動しようとした瞬間、レキトは親指をホームボタンから咄嗟に離した。
ガストン像のある噴水の後ろで、男性従業員のNPCが家族連れの客を避難させていた。
女性従業員のNPCがパレード用のロープを張ったポールを置いて、誰もこの場所へ立ち入ることができないように道を封鎖している。
他の6名の隊員が臨戦態勢に入った中、隊長の八重樫は口元を柔らかく緩めた。
「やっぱり君は根がいい奴だな。
まだ避難している人たちがいたから、戦いに巻き込んでしまわないように、攻撃するのをやめたんだろう?
隊長として言っちゃダメなことだけど、できれば君を見逃してあげたいのが本音だよ」
八重樫は人差し指を口の前に立てる。
笑った口元から白い歯がこぼれていた。
隣にいるカップルのふりをしていた副隊長らしき女性が、むすっとした表情で八重樫を睨みつける。
「ぶっちゃけ君も彼とは戦いたくないだろう?」と八重樫はウィンクする。
「僕たちは知っているんだよ。
さっきの君と妊娠した恋人のやり取りも。
電車の屋根で戦っていた君が決死の覚悟でレーザー光線を撃って、落下する電光掲示板からホームにいた女性を助けたことも。
もちろん組織の立場上、君の存在を許すわけにはいかないんだけどね」
八重樫は肩をすくめて、大きなため息をついた。
気心を許した友人に見せるような態度。
戦う前の特有のひりついた雰囲気を漂わせていない。
パレード用のロープを張ったポールによって、ガストン像のある噴水の広場への道が封鎖される。
従業員のNPCも避難を終えており、レキトの目の前には敵対する7体のアバターしかいない。
「さて、雑談は終わりにして、ぼちぼち仕事モードに切り替えようか。
素直に捕まってくれたら嬉しいけど、さすがにそういうわけにはいかないだろうし。
──ここは楽しいテーマパークだから、もしできたら物は壊さないように配慮してくれよ」
八重樫は目を閉じて、左側頭部を右手で触れる。
仮面を顔につけるように、左から右の側頭部へ手を動かした。
右へ手が行くにつれて、微笑みが口の端から消えていく。
右側頭部へ手がたどり着き、閉じていた目がゆっくりと開かれる。
感情のない目と合った瞬間、レキトは時間が一瞬だけ止まったような錯覚を覚えた。
嫌な予感がしたと同時に、座っているベンチから急いで飛び退く。
《小さな番犬》が吠えるや否や、木製のベンチが真っ二つに砕かれる。
鋭い蹴りを放った八重樫は、雰囲気が変わっていた。
「別人格に切り替わった」というより、「人間性を無くした」というような顔つき。
敵意も殺意も闘争心もなく、機械がプログラムされた命令に従うように、事務的にレキトを始末しようとしている。
レキトが飛び退いた先に、清掃員に変装した男の隊員が襲ってきた。
斜め後ろへ避けようとすると、副隊長らしき女性の隊員が先に回り込んできた。
他の4人の隊員はレキトの逃げ道を塞いでいる。
「起動、アプリ兵器──《対ヒューテック用ブレイド》」
6人の隊員がレキトを囲む中、隊長の八重樫は静かにつぶやく。
そして、プレイヤーがギアを起動するように、親指でスマートフォンの画面を叩いた。