50話 異世界を巡るデート
『あなたの大切な人が──』
『誰かの大切な人を傷つける前に』
ハムスターのモグ吉とのチュートリアルが終わった翌日、日本政府広報のCMがリビングのテレビで放送された。
仲良くクロワッサンを食べている親子、買い物袋を2人で持つカップル、そして校庭でバレーボールして遊んでいる制服姿の女子高生たちの映像が流れる。
親しい相手と過ごす、幸せそうな日常が描かれていた。
超常異人類「ヒューテック」対策のCM。
身近な人がいつもと違う様子だと感じたら、すぐに相談窓口へ連絡することを呼びかけている。
当たり前のことだが、現実世界では流れていない。
レキトは片手をポケットに突っ込み、ライムミント味のフリスクケースを揺らした。
ログイン1日目、50人の教団服を着たプレイヤーたちと戦ったとき、武装した警察官たちが現場へ駆けつけてきたことを思い出す。
教団ギルドのプレイヤーたちが対プレイヤー用レーザーを撃った瞬間、総勢30名の隊員たちは怯まずに拳銃を発砲していた。
プレイヤーといえど、「プレイヤーとの戦いに慣れている武装したNPCの集団を敵に回すこと」は、「ゲームオーバーになるリスクを高めること」を意味するだろう。
──レキトの両親が亡くなった忌引き休暇が終われば、ゲーム内の学校に通うことになる。
──このアバターと仲良くしていた生徒にプレイヤーであることを疑われないように、NPCの自分をうまく演じなければいけない。
レキトは赤色のスマートフォンを手に取る。
現実世界のように休学する選択も考えたが、このアバターの日常を大きく変えるようなことは、プレイヤーとして怪しまれるきっかけになりそうな気がした。
左手の親指をホームボタンに当てて、指紋認証でロックを解除する。
プレイヤーに初期装備として支給されるスマートフォンは、操作するアバターのスマートフォンを元にしている。
《対プレイヤー用ナイフ》などのギアを除いて、ホーム画面のアプリは操作するアバターがNPCだった頃にインストールした設定だ。
もしチャットアプリがあれば、プレイヤーが憑依する前のアバターが連絡したトーク履歴が残っている。
このアバターが誰と交流があったのか、トーク履歴から対人関係を大まかに把握することができる。
《小さな番犬》が居眠りしているホーム画面を、レキトは右にスワイプする。
通知をオフにしていたLINEのアイコンをタップした。
起動画面からトーク履歴の画面に切り替わり、未読のメッセージが更新される。
メッセージ受信でスマホが振動した瞬間、未読件数は「7件」から「213件」へ一気に増えた。
プレイヤーの優斗と戦う前に確認してから2日間見ないうちに、膨大な量のメッセージが溜まっていた。
部活やクラスのグループLINEが盛り上がったのかと思いきや、60人近い友達から個別にメッセージが送られている。
英語表記のフルネームや漢字表記の名前、あだ名っぽいハンドルネームが並んでいた。
『親御さんのこと、森ティーから聞いた。
授業のノートは取っておくから、安心して休んでくれ』
『大丈夫か? 俺にできることあったら何でも言って!
返信は無理してしなくていいからな!』
『面白い動画見つけましたよ!
私のオススメですから、気分転換によかったら観てくださいね〜』
レキトの両親がプレイヤーに殺されたことを知ったのか、心配や気遣いのメッセージが殺到している。
同級生らしきNPCだけではなく、先輩や後輩らしきNPCからもメッセージが届いていた。
LINEのトーク履歴の画面を見つめていると、昔の友人らしきNPCからメッセージがさらに1件追加される。
「家族以外にも付き合いの多いアバター、か。
……演じる難易度が高いどころか、未読のメッセージを返信するだけで大変そうだな」
レキトはため息をつく。
未読のメッセージを眺めるだけで、周囲がいい人に恵まれていることがわかった。
既読をつけないように、機内モードにスマートフォンを変更する。
交友関係の中で重要人物になるだろう、『彼女』という表示名のトーク履歴をタップする。
レキトと彼女のトーク履歴は、普通の高校生カップルより淡々としていた。
毎日の連絡は3回程度のメッセージの往復で終わっていた。
たまにLINE電話をかけることがあっても、通話時間はすべて10分以内に収まっている。
恋人同士の甘いやり取りもなければ、絵文字やスタンプを送った履歴さえない。
一番古いやり取りまで遡ると、レキトたちの恋人関係は1年半以上続いていた。
トーク履歴によれば、彼女の本名は「茅野真紀」。
同じクラスに所属しているらしい。
『すぐ会いにいくから、いつでも連絡して大丈夫だよ』
『私には何もできないけど、そばにいることはできるから』
真紀とのトーク履歴で、最後に送られたメッセージ。
レキトを気遣うメッセージの上には、「彼女がメッセージの送信を取り消しました」という履歴が3つあった。
3つのメッセージの送信を取り消すまで、それぞれ10分以上の間隔が空いている。
送信を取り消されたメッセージは復元できないため、消えた3つのメッセージがどんな内容だったのかはわからない。
けれでも、両親を亡くした彼氏にどんな言葉をかければいいのか、NPCの恋人が悩んでいた跡はトーク履歴から消えずに残っていた。
◯
靄がかかった森の奥、煉瓦のアーチ橋を渡った先、絵本に出てきそうな城がそびえ立っている。
淡いピンクとパープルを基調にした外観、お姫様を夢見る子どもが憧れるような城だった。
その一方で、訪問者を威嚇するように、ガーゴイルの像が尖塔に配置されている。
「愛らしさ」と「恐ろしさ」、その城は対立する2つの概念を両立させていた。
立派な城門の前には、大勢の人たちが舞踏会に招待された客のように列をなしている。
銃を携えたカウボーイ姿の男の子の後ろには、煌びやかなドレスで着飾った女の子が並んでいた。
獣耳のカチューシャを頭につけるなどして、ネズミやウサギの獣人に仮装する者もいる。
公共の場ではコスプレとして目立ちそうな格好が、この場所ではドレスコードとして自然に溶け込んでいる。
──現実世界を再現したゲーム内で、「異世界」を模倣した隔離空間。
──19世紀の開拓時代から近未来の宇宙時代まで、歩くだけでタイムスリップを擬似体験できるテーマパーク。
夢と魔法の王国『東京ディズニーランド』へ、レキトはデートに来ていた。
「ほら見て、レッくん。
あそこの中学生っぽい女の子、肩にプーさんのぬいぐるみ乗せてる。
歩いてたら滑り落ちそうなのに、どうやって乗せてるんだろうね」
澄んだ冬晴れの空の下、隣にいるNPCの真紀は首をかしげる。
黒髪のミディアムヘア。
ふんわりとした毛先がわずかに揺れた。
愛嬌のある丸くて大きい目。
長い睫毛は少しだけ大人っぽい。
透明感のある肌は、一目見るだけでハリがあることがわかる。
『久しぶりにディズニーに行ってみない?』
『気分じゃないかもだけど、楽しい場所に行ったら、楽しい気持ちになるかもしれないし』
山手線バトルロイヤルに参加する3日前、真紀から送られてきたLINEを思い出す。
NPCの自分なら恋人の誘いを断らないだろうと思い、『ありがとう。次の休みの日に行こっか』と返信を送った。
正直に言えば、ディズニーランドに行くことは気乗りしなかった。
アトラクションに乗るために、咄嗟に身動きの取りづらい行列に長時間並ぶ。
行列の中にプレイヤーがいるかもしれないことを考えると、神経が休まりそうになかった。
係員に安全バーを下げられれば、アトラクションに乗っている最中は、その乗り物に拘束されることになる。
もし敵プレイヤーが故意にアトラクションを止めて襲ってくれば、安全バーで動けないレキトは圧倒的に不利だ。
けれども、いざ真紀とディズニーランドを回ると、レキトはデートを心から楽しんでいた。
いま彼女と噴水前のベンチに座って喋っているだけで、ディズニーランドを満喫できているように思える自分がいる。
他の人なら気まずくなりそうな沈黙さえも心地よい。
たったいま手をつないでいなくても、魂でつながっているような感覚がある。
──操作しているアバターに精神が引っ張られているのだろうか?
『Fake Earth』をプレイしていく中で、レキトは現実世界にいた頃と趣味嗜好が変わった自覚があった。
例えば、生臭さが苦手だった刺身を抵抗感なく食べられるようになった。
自宅で考え事をしているとき、名前も知らない海外バンドの曲を自然と聴くようになっていた。
人間は生きているだけで、何らかの影響を絶えず受けている。
昨日と今日で心身ともに変化することは当たり前だ。
そもそも、人間の細胞は3ヶ月周期で新しいものに置き換わるため、まったくの別人に定期的に変わっているとも言える。
今までの自分が違う自分に変わることは恐れることではない。
ただ、プレイヤーの精神にアバターが影響を及ぼす度合いについて、細心の注意を払う必要がある。
プレイヤーにとっては「現実世界」が「本物」であるが、アバターにとっては「ゲームの世界」が「本物」だからだ。
プレイヤーの優斗は「俺はこの世界の家族と過ごす日常を失いたくない」だと語っていた。
NPCに戻った優斗も家族愛が強い兄だったことを鑑みて、プレイヤーの優斗は操作するアバターの影響を強く受けて、現実世界より『Fake Earth』に価値を置くようになった可能性がある。
もしも長時間プレイしていくことで、精神がアバターに蝕まれていく仕様があるとしたら──。
頭の中で「あるエンディング」が思い浮かぶ。
NPCの家族や恋人と過ごしていくうちに、凛子を助けたい気持ちが徐々に薄れていく未来。
そして、現実世界の記憶を失わないまま、「藤堂頼助」ではなく「遊津暦斗」として、『Fake Earth』で人生を送ることを主体的に選択する。
事実上のゲームオーバーのタイムリミットが、今この瞬間も迫ってきているかもしれなかった。
「……レッくん、大丈夫? もしかして気分悪くなった?」
隣にいる真紀はレキトの顔を心配そうに覗き込んでいる。
ケーブル柄の手袋をはめた手を、レキトの左手に重ねた。
今、彼女はレキトが亡くなった両親のことを思い出したのではないかと気遣っているのだろう。
触れた手は小さくて温かい。
「ありがとう、真紀。
なんとなく楽しいなって思って、ぼんやりしてただけだから大丈夫だよ」
「そっか、なら良かった。
あっ、じゃあ今さっきの私の話を聞いてなかったよね?」
「ごめん、うっかり。
何話してたか、もう一度言ってよ」
「いいよ。でも同じこと言うのって、なんか改まった感じで緊張するね。
……って、こう言っちゃうのも、なんかハードル上がっちゃう感じか」
真紀は困ったように笑った。
「逆にかしこまった雰囲気にしよっかな」と冗談っぽく言って、背筋を伸ばして両手を膝の上に置いた。
隣にいる恋人が言い淀む様子を見て、レキトは「珍しい」と不思議に思った。
いつもの彼女だったら、もう一度同じ話をすることをお願いされれば、さらっと言い直しそうな印象だったからだ。
「……本当はさ、もっと早く言いたかったことなんだけどね。
でも、レッくんにあんなことがあったら、タイミング的に言い出せなくて。
いっそのこと内緒にしようかなと思ったけど、『こういうのは相手にちゃんと伝えなさい』って先生に叱られちゃって」
真紀は口元から笑みを消した。
お腹に右手を優しく添える。
真剣な目でレキトを見つめる。
「レッくん、あのね、私ね──妊娠しちゃったみたい」
精一杯の明るい声で打ち明けた真紀は、新品の母子健康手帳を見せた。