37話 列車非常停止警報装置(後編)
誰かがスイッチを入れたような音がした。
ゲームで遊ぶとき、ハード機のスイッチを入れる音によく似ていた。
この「スイッチを入れる音」と「スイッチを切る音」とは似ているようで、同じではない。
2つの音をよく聴き比べてみれば、いつも「スイッチを入れる音」のほうが、わずかに力強い響きであることがわかる。
「カチッ」という音が鳴った直後に、池袋駅の線路についたシアン色の血は泡立ちはじめた。
生臭い嫌な臭いともに、蒸気が血から立ち上った。
小さな泡はだんだん増えていき、泡立つ勢いも強まっていく。
すべての泡がピンボール玉くらいに膨れ上がった瞬間、線路についた血から一斉に切り離された。
シアン色の血の泡がゆっくりと舞い上がっていく。
秒速1センチの速度で、地球の重力に逆らっていった。
夜風に揺れることなく、5•6番線の屋根の上で死んでいるプレイヤーたちの方へまっすぐ向かっていく。
5•6番線のホームの屋根に辿りつくと、シアン色の血の泡はシャボン玉みたいに破裂した。
泡から飛び散った血は、2人の男性プレイヤーに降りかかる。
彼らのスーツのチェック柄に、シアン色の水玉模様が付け加えられた。
シアン色の水玉模様は2人のスーツを這っていく。
それぞれの対プレイヤー用ナイフで斬られたらしき傷口の中へ戻っていく。
やがて死んだ2人のプレイヤーはNPCに生まれ変わり、寝ぼけたような顔でホームの屋根から起き上がった。
彼らの着ているグレンチェックの柄スーツには、シアン色の血の染みどころか、ナイフで斬られた跡も消えてなくなっている。
薄っすらと目を開いていた2人は、山手線の電車を間近で見た途端に目を見開いた。
慌てて周囲を見回しはじめて、隣に似たような人がいることに気づく。
おそらくプレイヤーだった頃は仲間だったはずなのに、お互いにお互いのことは忘れてしまったらしい。
NPCになったスーツ姿の男性2人は、どちらもぎこちない愛想笑いを浮かべていた。
オレンジ色の髪のアバターは、2Fの跨線橋の窓のそばでロングコートを羽織る。
そして、自分のスマートフォンの画面を鏡の代わりにして、戦いで乱れた髪の毛先を手で整え始めた。
満足げな笑みを浮かべた後、1Fのホームを見下ろす。
7•8番線のホームにいる俺と目が合う。
俺は口の中へフリスクを1粒放り込み、奥歯でガリッと噛み砕こうとする。
だが、放り込んだはずのフリスクは前歯の先端に当たり、口の中からスニーカーのつま先へ落ちた。
手を握っては開いて、指の感覚を確かめる。
12月の寒い夜なのに、手が汗で濡れている。
オレンジ色の髪のアバターは俺に軽くお辞儀すると、整えたばかりの髪の毛をぐしゃぐしゃにしながらスマートフォンに何かを叫んだ。
すかさず割れた窓ガラスを至近距離で撮影して、Vサインをした彼自身を自撮りした。
オレンジ色の髪のアバターは透明になって、2Fの跨線橋の窓から見えなくなる。
撮った写真とアバターを同じ色に変えるギアを起動したようだった。
しかし、オレンジ色の髪のアバターがいなくなっても、俺の手の汗が止まらない。
アバターの肩に力が入り、いつもより肩の位置が少しだけ上がっているのを感じた。
《小さな番犬》が激しく吠えている。
「Danger」のポップアップがスマホ画面で点滅する。
俺はロック画面の地図を見つめた。
目に見えているものは揺るぎようのない事実だった。
B1Fにいた3人のプレイヤーから逃げ切った先に、別のプレイヤーがやってきている。
乗ろうとした電車の先頭車両に、1枚のコイン記号が表示されていた。
──キュッ。
急いでB1Fへ階段で降りようとした瞬間、俺は左手の小指に違和感を覚えた。
構わず前に踏みだしたが、アバターの動きに左手がついてこなかった。
その場で固定されたかのように、左手を1センチでも前に動かすことができない。
俺は左手に目を向ける。
「赤い糸」が左手の小指に巻き付いていた。
結び目はハートの形をしており、小指の第一関節から第二関節まで何重にも巻かれている。
小指を曲げることができないほどの厚さ。
サイズの小さい指輪を嵌めているような窮屈さを感じた。
──身に覚えのない物が、いつの間にか身につけられている。
──赤い糸はピンと張っており、目の前の電車の車両内まで続いている。
俺は親指を動かして、スマホ画面のナイフのアイコンを叩いた。
対プレイヤー用ナイフを起動すると同時に、右手にスマートフォンを持ち替えて、左手の小指に巻き付いた赤い糸に振り下ろした。
電車内までピンと張っていた糸は切れて、ハートの形をした結び目が緩んでいく。
だが、斬られた糸の断面から、何本もの繊維が伸びていった。
双方向から伸びた繊維はぶつかって、お互いに絡み合うように縒り合されていく。
縒り合された繊維は糸になり、斬られる前の状態に戻る。
俺はもう一度ナイフで糸を3つに切断した。
断面から伸びて縒り合っていく繊維も断ち切った。
電車と俺の両方から切り離された糸をつかみ、先頭車両の方へ投げる。
しかし、元どおりに修復されていくのは変わらない。
対プレイヤー用ナイフで切り刻んでも、何百本もの繊維が瞬時につながっていく。
──このまま池袋駅から発車すれば、俺は電車内につながった赤い糸に引っ張られて、時速100キロを超える速度で引きずられることになる。
──もし電車の引きずりに耐えられたとしても、赤い糸のギアを解除されたら、線路に叩きつけられてイベント失格になる。
俺は対プレイヤー用ナイフを解除して、発車ベルが鳴っている電車の8両目へ走った。
敵プレイヤーの誘いであることはわかったが、「電車に乗る」以外にこのピンチを切り抜ける選択肢はなかった。
左手の小指をナイフで切り落としたところで、赤い糸がほかの指に結びつかない保証はどこにもない。
電車のドアが閉まりかける中、体勢を横向きに変えて、狭い隙間を滑り込む。
山の手線外回りの電車が動きだしたとき、大音量の警報音はピタッと鳴り止んだ。
プレイヤーの位置情報をコイン記号で示す、ロック画面の地図も消えた。
俺の小指に巻き付いた赤い糸も解ける。
車両をつなぐ扉の隙間を通り抜けて、先頭車両の方へ巻き取られていく。
俺は胸に手を当てて、息をゆっくりと吐いた。
ホーム画面の《小さな番犬》は駅員の帽子を被って、前脚で敬礼のポーズを取っている。
これから先頭車両にいるプレイヤーがどう攻めてくるのか。
フリスクを口へ放り込もうとしたとき、LINEの通知音が俺のスマートフォンから鳴る。
新着メッセージの文面がスマホ画面に表示された。
『はじめまして、遊津暦斗さん。
私はあなたを電車に招いたプレイヤーです』
『この度は対戦前のご挨拶として、初メッセージをお送りさせていただきました』
『さきほどはあなたの小指に赤い糸を結びましたが、とくに恋愛的な意味はありませんので、「知らないプレイヤーに好意を持たれている」とか勘違いしないでくださいね』
新着メッセージの送り主は「明智彩花」。
メッセージの上に記された名前には見覚えがある。
電車が到着したときにロック画面の地図で見た、先頭車両にいるプレイヤーと同じ名前だった。
──ギィィィィィィィ、ガタッン!
非常ブレーキがかかり、青虫色の電車は緊急停車した。
急激な減速に耐えられず、乗客たちは電車の進行方向になだれかかった。
網棚から落下したビジネスバッグから、A6サイズの手帳やガジェットポーチが足元に散らばる。
週刊誌の中吊り広告のポスターが前後にはためいた。
「にげる」の選択肢は用意されていないらしい。
赤色のスマートフォンの画面を見ると、ふたたび新着メッセージの通知が届く。
『さてさて、電車を停めさせていただきました。
これで私たちの戦いに邪魔は入りません』
『どちらが優勝賞品のギアを持つにふさわしいのか、勝負しましょう』
『……既読無視で揺さぶりをかけているようですが、そんな低レベルの駆け引きは私に通用しませんよ』
明智彩花はメッセージを送った後、「クマがウサギの顔面に膝蹴りを入れているスタンプ」を連投した。
彼女とのトーク画面には「友だちとして追加されていないユーザーです」と注意書きが記されている。
「赤い糸でプレイヤーを拘束するギア」とは別に、「個人情報を特定するギア」を持っているらしい。
俺はスクエア型眼鏡をかけ直す。
今まで強いプレイヤーと何度も戦ってきたが、なぜか今回の相手が一番厄介な相手に思えた。
彼女はLINEで積極的に話しかけてくるが、俺に姿を見せようとしない。
先頭車両へ乗り込みたくても、電車内はNPCの乗客で通路が塞がっている。
接近戦はもちろんのこと、対プレイヤー用レーザーを撃つこともできない。
戦いを仕掛けられているのに、攻撃するための手段が完全に潰されていた。
『では、そろそろ自己紹介をさせていただきます。
もっとも、あくまで礼儀としてやるだけなので、最低限に済ませます』
『私は池袋駅代表の明智彩花』
『運営のアーカイブ社のインターンの一環として、このゲームに参加させていただきました』
『好きな食べ物はオムライス。
趣味はお菓子作りと猫カフェ巡り。
このゲームに参加して嬉しかったことは、現実と違ってアバターが猫アレルギーじゃなかったこと。
最近の悩みは、一人暮らしの家で猫を飼うかを迷っています』
『以上です。それでは対戦よろしくお願いします』
明智彩花は自己紹介を締めくくり、「闘志で燃えているクマのスタンプ」を3連続で送った。