27話 第二の人生
これは主人公の兄・優斗がゲームに参加した後の物語である。
【現実世界】
戸籍名=リー・ケンスイ(Lee Kensui)
【ゲーム世界 :『Fake Earth』】
プレイヤー名=遊津優斗(Asodu Yūto)
古びた街路灯の明かりは点滅していた。
経年劣化で不具合を起こしているのか、円形の照明は光っては消えることを繰り返していた。
生死の境を彷徨うかのように、光っては消えて、光っては消える。
暗転と明転の間隔は短くなっていく──。
──カチッ。
確かな音が鳴ったとき、街路灯の照らす範囲は一回り広がった。
明かりの外側にあったベンチの端から端まで照らされる。
夜の公園のベンチで寝転がっていた優斗は、眩しい光を上から受けていた。
「……始まった、のか?」
優斗は額に手を当てて、両目をぎゅっと閉じる。
起き上がるのが億劫なくらい頭痛がひどかった。
口の中にたまったツバを飲み込もうとしたとき、胸の奥から吐き気が込みあげてくる。
右手で口を押さえたが、5秒も堪えることはできなかった。
芝生に黄みがかった液体がかかった。
喉に溜まっていた物を出し切った途端、脳が溶けるような感覚が襲いかかった。
貧血を起こしたかのように、視界がグニャリと歪みはじめる。
──プレイ前のルール説明によれば、ここは『Fake Earth』のVR世界。
──地球上に存在するありとあらゆるものを再現した、現実世界と変わらない仮想空間。
優斗は息を切らしながら、「死ぬほど気持ち悪い」と思った。
もしかすると、これが俗にいう「VR酔い」?
そんなことが頭に浮かんだが、ゲームを始めた瞬間から「酔う」という話は聞いたことがなかった。
運営が転送に失敗して、アバターが馴染んでいないのかもしれない。
あるいは他プレイヤーから攻撃をすでに受けているのかもしれない。
このまま何もすることなく、ゲームオーバーになってしまうかもしれない。
嫌な考えを振り払うように、優斗は起き上がって、左右をきょろきょろと見回す。
いったい自分の身に何が起きているのか?
夜の公園に人影は見当たらず、塗装の剥げたすべり台や赤茶色に錆びた鎖のブランコなどの遊具しかなかった。
後ろを振り返っても、公園利用者への注意書きの立て看板しかない。
もしやと思って、寂れたベンチの下を足で探ると、軽い金属らしき物につま先がぶつかった。
そのまま足で形を確かめると、円柱の形をした物が3つ転がっているらしい。
とりあえず手で恐る恐る引き寄せてみると、それは「500mlサイズの空き缶」。
空き缶はまだ冷たさが残っており、飲み口には滴がついている。
ラベルの文字は英語よりも漢字と平仮名の数が多い。
おそらく初期転送位置は「日本」の公園。
そして、アバターの不具合は、これを飲んだことが原因なのだろう。
今までの人生で体験することのなかった、脳が一時的に麻痺する生理現象の1つ。
空き缶には「アルコール度数9%」と目立つフォントで記されていた。
「ほらほら、やっぱりここにいた。おーい、生きてるか~?」
悪酔いで意識が朦朧とする中、親しげに呼びかける男の声が聞こえてきた。
声の張りからして、現実世界の父と同じ40代後半くらい。街灯が照らす円に2人の男のシルエットが登場する。
偏頭痛で頭を抱えた優斗は近づいてきた2人組を渋々と見る。
部屋着にブルゾンを羽織ったサラリーマンと、髪をアッシュグレーに染めた眼鏡姿の男。
一見すると「顔」が似ているわけではない。ただ、口元だけはクローンのようにそっくりだった。
「……誰ら、あならたち?」
重たい頭を抱えながら、優斗はサラリーマンが話した日本語で問いかける。
現実世界の母が日本人だったおかげで、初等学校に入る前から日本語の基礎的な単語と文法は自然と使えるようになっていた。
ただ、酔っぱらっているせいで、ろれつがうまく回らない。
「た」と「だ」と言いたいところが、「ら」の発音になってしまった。
髪を染めた眼鏡の男は呆れたようにため息をついた。
ベンチの下に転がっている缶を見て、さらに深いため息をつく。
そして、新品の水のペットボトルの蓋を開けると、優斗の手の中にある缶と交換した。
「どんだけ酔っぱらってんだ、兄さん。家族の顔なんか普通忘れないだろう」
「まあまあ、暦斗。優斗は彼女に『頼りがいがない』って振られたばかりなんだ。SNSでも鬱っぽくなってたし、今日くらい許してやれ」
「……なんで自分の息子のアカウントを見てんだよ、父さん。まあ心配で覗いちゃうのはわかるんだけどさ、せめて本人に内緒で頼むよ」
暦斗と呼ばれた男は優斗の手首をつかみ、ペットボトルの水を飲ませようとする。
優斗が口を小さく開けると、傾いた飲み口から水が入ってきた。
現実世界を再現したゲームだけあって、飲み水は本物を味わっているようだった。
冷たい触感も滑らかな舌触りも完璧に再現されている。
しかし、喉を水が通った瞬間、アバターの胃が拒絶反応を起こすのを感じた。
「……がはっ、ぐっ……げほ!」
優斗は後ろを向いて、飲んだばかりの水とともに、胃液の混じった酒らしき物を吐き出した。
脳がアルコールに侵食されていく感覚が強くなる。
大きさの違う2人の手が優斗の背中を同時にさすってくれるのを感じた。
心地よく温かい感触に気が緩んでしまったせいか、急にまぶたが重たくなっていく。
意識が落ちそうになったとき、カーゴパンツのポケットの中にある物が振動した。
酔いが一瞬だけ醒めた優斗は、反射的にポケットの中にあったスマートフォンを取りだす。
けれども、指先から力が抜けて、青色のケースの付いたスマートフォンが手から滑り落ちた。
酔いがふたたび回り、心配して呼びかけている家族の声が次第に聞こえにくくなっていく。
重いまぶたが完全に落ちる直前、吐瀉物の中に落ちたスマートフォンの画面が目に入る。
『遊津優斗 プレイヤーID:5575/0423/1829』
眩しく光るスマートフォンの画面には、この世界での「プレイヤー名」と「プレイヤーID」が表示されていた。
◯
次に目が覚めたとき、優斗はベッドで仰向けになっていた。
知らない部屋で、誰の物かわからない寝間着を着ている。
二日酔いの頭痛をキリキリと感じながら、ゲーム開始時に泥酔していたことを思い出した。
初期転送位置が日本だったことも、NPCの家族らしき親子が迎えに来たことも、いきなり意識を失ってしまったことも、記憶が次々と蘇ってくる。
青色のスマートフォンは、ベッドの近くにあるコンセントで充電されていた。
ホーム画面には様々なアプリが並んでいた。
現実世界で見慣れた物が大半だったが、ゲーム専用のギアなのか、単に珍しいアプリなのか、名前の知らない物がいくつかある。
『Fake Earth』は戦闘がいつ始まるかわからない以上、できるだけ早く調べたほうがいい。
しかし、吐き気と胃もたれがあまりにもひどく、今すぐ確認する気にはなれなかった。
「あら、起きてるね。朝ごはんできたから、冷めないうちに食べに来なさい」
目鼻立ちがはっきりした女性が部屋のドアを開けて、安心したような笑みを浮かべる。
体調の悪い優斗を気遣っているのか、優しく話しかける声は抑え気味の声量だった。
この世界において、きっと優斗の母親に当たるNPCなのだろう。
食欲はあまり湧いていなかったが、今後もここで生活することを考えると、家族との仲はなるべく良好に保っておきたい。
優斗はスマートフォンを充電プラグから抜いた。
覚束ない足取りで部屋を出て行き、階段を下りていく母親の後をついていく。
リビングのダイニングテーブルには、暦斗と父親以外に妹らしき女の子が座っていた。
母親の面影のある顔立ちで、天使の羽のヘアピンがよく似合っている。
女の子が朝食をスマートフォンで撮影している間に、父親は自分の皿からトマトを母親にバレないように女の子の皿へと移す。
暦斗はコーヒーを啜って、彼女の皿からトマトを父親の皿へそっと戻した。
「あっ、優兄、やっと来た。ねえ、今日買い物に行かない? 新しい冬物の服を買いたくてさ。やることないなら付き合ってよ」
「行ってきたらどうだ、優斗。美桜はお前に元気になってもらうために、それっぽいことを口実にして、後で美味しいスイーツのお店にでも連れて行きたいんだと思うぞ」
「……父さん、察したことを全部言ったらダメだよ。ほら、美桜の耳、トマトよりも真っ赤になってるし」
「2人とも! その、恥ずかしいから、ちょっと黙ってて! とにかく、優兄! 今日は、絶対、買い物、いいね?」
赤面した美桜は、優斗に言い聞かせるように何度も指をさした。
優斗はギアなどの確認をしたかったが、有無を言わせない態度に頷かざるを得なかった。
母親はくすくすと笑って、ミルク出しコーヒーを淹れた。
そして、朝食の皿と一緒に持ってきて、優斗が座った席の前に置く。
切り分けたトマト、しじみの豆乳スープ、柿のジャムを塗ったオープンサンド。
優斗は朝食を無理やり食べきると、二日酔いの症状はなぜか良くなったような気がした。
ログイン1日目は予想していたよりも呆気なく終わった。
チュートリアルの正体に驚かされたくらいで、それ以外に変わったことは何も起きなかった。
街中でプレイヤーに襲われないかと緊張したが、優斗がNPCとプレイヤーを見分けられないように、他プレイヤーもNPCの中から優斗を見つけられないらしい。
きっと現実世界を再現しているがゆえに、非日常みたいな戦いはそう簡単には起きないのだろう。
人生を賭けたゲームをプレイしている感覚はなく、日本でホームステイを体験しているような気分だった。
だが、2日目の夜、このゲームの恐ろしさを痛感した。
これから暮らすことになる場所のことをよく知るために、渋谷の繁華街を人波に押されながら散策していたとき、大音量の警報音が鳴ったのだった。
迷惑そうな視線を一斉に向けられると思いきや、繁華街にいる人たちは何の反応も示さない。
この騒々しいアラート音は、NPCには聞こえないようだった。
悪い予感がした優斗がスマートフォンを手に取ると、渋谷エリアの地図がロック画面に映し出されている。
複数のコインが地図に点在していて、渋谷エリア内にいるプレイヤーの現在位置を示していた。
どうやら運営がプレイ前に説明した「バトルアラート」が鳴ったらしい。
優斗の現在位置を表示したコインの左側には、別のコインが10メートル離れた場所に表示されている。
優斗がスマホ画面から顔を上げた瞬間、目の下にクマのあるサラリーマンのアバターと視線が合った。
生まれて初めて体感する死の恐怖。
アバターの産毛が逆立つような感覚。
素知らぬ顔をするどころか、視線を逸らすこともできない。
心臓がきゅっと縮み上がり、冷や汗が頬を伝っていくのを感じる。
目の下にクマのあるサラリーマンは欠伸を噛み殺して、人混みを分けながら優斗に近づいてきた。
名刺ケースを手に取るように、ネイビー色のスーツからスマートフォンをつかんだ。
優斗が人目を気にせず駆けだすと、サラリーマンも走って追いかけてくる。
その骨ばった親指でスマホ画面を叩くと、目の下にクマのあるアバターは半透明になり、人混みのNPCたちをすり抜けてくる。
逃げながら優斗は目を閉じて、即座にまぶたを上げる。
目の前の人混みに全神経を集中させて、最短で走り抜けるルートを見極めた。
殺されたくない一心で、振り返るタイムロスを惜しんで、一心不乱に走りつづける。
なんとか追いかけてきたプレイヤーを撒くことはできたが、その日は街ゆく人たちがみんなプレイヤーに見えて、誰にも自宅までつけられないように遠回りして帰った。
「おかえり、優斗。……あれ? 今日なんか『いいこと』あった?」
「いや、とくに何も。むしろひどい目にあったくらい」
「ふーん、そっか。なんか生き生きした顔に見えたんだけどね。まあ、とりあえず座りなさい。今日の晩御飯、ちょうどできたところだから」
母親はコンロの火を止めて、料理をフライパンから皿に盛りつけた。
夕食のメニューは「干しエビと混ぜ合わせたご飯がピンク色のエビチャーハン」。
優斗はレンゲですくって、丸まったエビとチャーハンを一緒に食べる。
ゲーム内の食事は本当に食べているわけではないのに、炊き立てのご飯にエビの旨味が染み込んでいて美味しかった。
それから3日間は何事もなく過ぎたが、NPCの家族は優斗の変化に気づきはじめた。
「なんか機嫌良さそうだね」と美桜は優斗の顔をじっと見つめた。
「もしかして彼女とよりを戻したか?」と嬉しそうな顔をした父親は勘違いしていた。
暦斗は何も言わなかったが、何か言いたげな顔をしていた。
もし優斗が戦闘で怪我をしたら、この家族たちはすぐに気づくだろう。
間違いなく心配するだろうし、怪我がひどいときには病院へ連れて行くこともあるはずだ。
さすがにNPCに自分がプレイヤーであることはバレるとは思わない。
だが、彼らが友人に家族の悩みを相談したときに、その友人がプレイヤーの可能性はありえる。
病院へ連れて行かれれば、そこに医者や患者のふりをしたプレイヤーが待ち構えているかもしれない。
──ここは誰がプレイヤーなのかわからない世界だ。
──違和感をこれ以上持たれないように、NPCだった頃の「遊津優斗」になりきる必要がある。
優斗は自分の部屋の持ち物を調べて、改めてスマートフォンの検索履歴を見返した。
コミュニケーションアプリを起動すると、家族全員と日常的に他愛のないメッセージを送り合っていた。
彼らのそれぞれの趣味に精通しているあたり、このアバターは家族思いのNPCだったらしい。
3兄妹のグループチャットでは、父親と母親の結婚記念日のプレゼントをどうするか、自ら進んで話を持ちかけていた。
母親が好きな作家の本を読む。
父親が課金しているスマホゲームを極める。
美桜好みのSNS映えしそうな風景を写真に撮る。
暦斗が推しそうなインディーズバンドの曲を聴きつづける。
NPCの遊津優斗のルーティンを真似するのは大変だった。
本もゲームも、初めて見る漢字を解読するのは苦労した。
今までの暮らしと文化が異なったため、SNSへの日本特有の肌感覚がなかなか理解できない。
海外のインディーズバンドにいたっては、何がいいのかがさっぱりわからなかった。
ただ、それぞれの趣味の話を家族に持ちかけると、みんな食いつくように乗ってくれた。
美桜は顔を輝かせて、母さんはいつもよりよく笑った。
意外にもクールそうな暦斗の反応が一番良く、好きそうなバンドについて話題を振ると、講演会のように1人で延々としゃべり続けていた。
色んなスマホゲームをやりこんでいる父さんと話を合わせるのは大変そうだと思っていたが、自称ゲーム博士の父さんは割と抜けていて、遊び始めたばかりの優斗の方が詳しいことが多かった。
「ははは、さすが優斗は詳しいな。じゃあ、あの話は知ってるか? 来週のメンテが終わってから、捕まえたモンスターを配合できる機能が追加されるやつ」
「……父さん、残念だけど、それはデマ。公式サイトを調べたけど、そんな発表はなかったよ」
「そっか。また騙されちゃったな~。でも、とっておきの情報はもう1個あるんだ。知ってるか? いよいよカジノが実装されるんだって」
「……いや、それもデマなんだよ、父さん。たぶん公式を真似た偽アカウントに引っかかってるから、後でフォローを外しておいたほうがいいよ」
自分を理解してくれる人が身近にいる。
多様な価値観がある時代だからこそ、同じ価値観を共有してくれる人は特別になれる。
優斗はNPCの家族と普段の会話も弾むようになった。
彼らの顔を見るだけで、どんな気分なのかもわかるようになった。ゲーム攻略を進められる環境が万全に整った。
しかし、優斗はミステリー小説を読むことも、RPGのスマホゲームのイベントを周回することも続けた。
フォトジェニックなカフェ巡りをすることも、次世代のバンドを発掘することも止めなかった。
気づいたら同じ趣味に自分もハマっていた。
好きなことを心行くまで語り合うのは楽しかった。
毎日NPCと過ごす日々は居心地よく、現実世界にいた頃よりも幸せだった。
ゲームに没頭すれば、時間を忘れてしまう。
紅葉した葉は枯れて、落ち葉に雪は積もり、新たに芽吹いた葉は青々と生い茂っていく。
そして、『Fake Earth』をプレイし始めてから1年経った頃、優斗は初めてプレイヤーを倒した。
お馴染みのバトルアラートが鳴ったとき、たまたま敵プレイヤーと渋谷のタワーレコードのエレベーターに2人で乗り合わせていたので、襲ってきた相手と無我夢中で戦ったら、意外とあっさりと倒すことができた。
優斗は胸をなで下ろして、倒したプレイヤーのコインを拾う。
ゲームオーバーになったプレイヤーはNPCに生まれ変わり、エレベーターが1階に到着すると、操作盤の開ボタンを押して優斗が先に降りるのを待ってくれた。
──他プレイヤーのコインを3枚集めれば、プレイヤーは『Fake Earth』をギブアップすることができ、現実世界へ戻ることができる。
──他プレイヤーのコインを7枚集めれば、『Fake Earth』から現実世界へ戻ることができ、さらに賞金10億円をクリア報酬として手に入れることができる。
だが、優斗は《ガチャストア》を起動して、手に入れたコインをギアと交換した。
来月は家族旅行に行く予定だし、再来月は暦斗の学校で文化祭がある。
現実世界に戻るべき理由より、『Fake Earth』の世界にいつづけたい理由の方が多かった。
優斗はスクランブル交差点を渡って、渋谷駅から井の頭線の電車に乗った。
黄色いタワーレコードのレジ袋の中を見て、暦斗が好きなグループのアルバムに傷がついていないことを確認する。
日が暮れる車窓を見ながら、アバターの腹が空いてきたのを感じる。
今日の晩御飯はトマト煮のロールキャベツだったな、と優斗はぼんやりと思い出し……。
思い出した。
「思う」ではなく、「思い出した」。
今日の晩御飯がトマト煮のロールキャベツであることを、優斗は知っている。
来月の家族旅行の行き先が仙台になることも、実は暦斗が同じアルバムを買っていたことも、自宅に帰る前からわかっている。
これは今、優斗が体験していることではない。
電車で揺れる足元の感覚がリアルでも、たったいま本当に起きていることではない。
10歳の誕生日からゲームに参加してから1年となるこの日まで、昔の記憶を長回しで振り返っている。
優斗は立ち向かわなければいけない現実を忘れて、かけがえのなかった日常のまやかしに浸っていたことに気づいた。
夢から現実へ引き戻すかのように、大音量の銃声がリビングで3回響きわたる。
薬莢がフローリングの床に落ちて、カラカラと転がる音がした。
泣き腫らした顔の美桜は、言葉にならない叫び声をあげる。
プレイヤーの暦斗は目を瞬いて、呆気に取られたような顔をしていた。
撃たれた母親は暦斗に手を伸ばそうとしたが、届く前にフローリングの床に倒れた。
シアン色の血が静かに広がっていく。
うつ伏せに倒れた優斗は、目の前に落ちたスマートフォンに触れる。
対プレイヤー用レーザーで貫かれた傷口から、シアン色の血はドクドクと溢れていた。
周りの音がだんだん聞こえなくなっていく。
口の中で血の味が広がっていく。
全神経を集中させても、重いまぶたはなかなか上がりきらない。
フローリングの床の溝を流れてきた血が、横を向いたアバターの頬を汚した。
──俺は今日ここでゲームオーバーになる。
視界がかすんでいく中、優斗は遠くない自分の未来を悟る。
今さっき見ていた思い出は、走馬燈であることは間違いなかった。
不意打ちで食らったレーザー光線は胸を貫いている。
頭はびっくりするほど冷静で、そして「死ぬ」ということを確信していた。
『Fake Earth』を始めたての頃、他プレイヤーに殺されたくなくて、必死に逃げたことを思い出す。
将来医者になる道を捨てて、やりたいことなんてなかったのに、あのときは生きたい気持ちでいっぱいだった。
けれども、この瞬間、優斗は死ぬことが怖くなかった。
プレイヤーはゲームオーバーになれば、「今までの人生の記憶を奪われて、寿命が尽きるまでNPCとして生きるルール」なのに、心から死を受け入れていた。
ただし、避けられない死に諦めがついて、心が安らかになったのではない。
「人生の終わりは悔いが残らない」なんて、自分は前向きなことを考えられる人間ではない。
──美桜を操り人形にして、父親を包丁で刺して、母親を殺した奴を仕留める。
──家族を傷つけたプレイヤー、淀川を道連れにする。
優斗は目を閉じて、まぶたをすうっと上げた。
急激に視野が狭くなった代わりに、かすんでいた視界はピントが合ったように、はっきりと見えるようになった。
対プレイヤー用レーザーに撃たれた痛みはもう感じない。
指で触れているスマートフォンを引き寄せる。
握りしめたスマートフォンがミシッと音を立てる。
怒りが恐怖を呑み込んだ今、死ぬことなんてどうでもよかった。