26話 最初の人生
どうして今リビングで倒れているんだ?
意識が朦朧とする中、うつ伏せに倒れた優斗は全身から力が抜けていくのを感じる。
倒れたときに頭を強く打ったのか、記憶がすっぽり抜け落ちているようで、現在に至るまでの経緯が思い出せなかった。
ザーッという耳鳴りがひどくて、周りの音もまったく聞こえない。
徐々にぼやけて狭くなっていく視界の中、色鮮やかな花のペーパーボールがテーブルの脚の前で転がっているのが見えた。
誰かの誕生日の飾り付けに使うのだろうか?
優斗は何か大切なことを忘れている気がした。
けれども、頭がうまく働かなくて、それが何かを思い出せそうにない。
背中と腹から溢れ出る血は止まらず、重くなったまぶたが落ちていく。
目の前が真っ暗になったとき、「遊津優斗」ではなく、「リー・ケンスイ」として生きていた頃に見た誕生日ケーキのろうそくの炎がまぶたの裏に蘇った。
「ケンスイ、あなたはお医者さんになりなさい。私たちが全力でサポートするから」
俺が10歳の誕生日を迎えた日、母はケーキを飾るキャンドルの炎を見つめながら、艶やかな手を俺の手に重ねた。
「それがお前にとって、一番堅実で幸せになれる道なんだよ」と父は優しい声で続けた。
燃えている5本のキャンドルはアルファベットの形をしていて、左からH、A、P、P、Yの順番で並んでいる。
黄色い蝋が溶け始めて、真っ白な生クリームに垂れそうになっていた。
「わかった。じゃあ、医者になるよ」
俺は両親が喜ぶだろう返事をする。
そのとき「将来の夢」なんて持っていなかった。
同級生は、「プロの陸上選手になりたい」だとか「ドラマの脚本を書く人になりたい」だとか、色々な夢を持っていたけれど、俺には「どうしてもこれをやりたい」というものはなかった。
──親がそう言うなら、医者もいいかなと思った。
──やるべきことを決めてくれたことは、逆にありがたかった。
満天の星が間近に見えるタワーマンションの最上階の部屋で、俺はキャンドルの炎に息を吹きかける。
ほのかな灯りが消えると、父と母は静かに拍手した。
翌日から俺は「毎日2時間」家で勉強するように言いつけられた。
「毎日2時間以上」ではなく、「毎日2時間ぴったり」。
算数の問題を解くのが楽しくて、図形の応用問題に時間を忘れて挑んでいると、「今日はここまでにしなさい」と母にすぐ止められた。
子どもが1日にゲームで遊んでもいい時間を決めた家庭のように、我が家では勉強を2時間以上することが許されなかった。
俺が住んでいた国は、アジアの中でトップレベルの教育先進国。
政府は『ストリーミング制』を導入して、子どもの進学先は卒業試験の成績で決められていた。
もし初等学校の成績が良くなければ、その時点で大学を受けられなくなり、将来は専門学校に行くことを定められる。
子どもの人生を左右する試験として、どの家も勉強には口うるさくなっていた。
それなのに、父と母は砂時計をひっくり返して、家での勉強時間は2時間ぴったりにこだわった。
各教科の参考書は書店で一番薄い物を買い、俺がつまずいた問題は自分たちで教えた。
人より裕福な暮らしを送っているのに、家庭教師を雇うことをしない。
学校でも授業を受ける以外に勉強することは禁止された。
「86点を目指す気でやりなさい。本番のテストでそれだけ取れれば、満点を取った人と同じ学校に行けるから。勉強で一番になる価値はみんなが思ってるほどないのよ。一番になりたい人は自分に自信がないから、一番になって安心したいだけ」
「時間をかければ、何でもうまくいくわけじゃないんだよ、ケンスイ。むしろ必要以上に時間をかけてしまったことで、うまくいかなくなることもあるんだ。だから、短時間で、効率良くやって、ほどほどの成果を出す。これが本当に頭のいいやり方なんだ」
学校の先生が言いそうにないことを、父と母は口癖のように繰り返す。
そして、俺が家で2時間の勉強を済ませると、「好きにしなさい。もし私たちにしてほしいことがあるなら、遠慮しないで言いなさい」と穏やかに言われた。
1人でテレビをぼうっと見ていても、2人はそばにいるだけで何も言わなかった。
「テニスをしたい」と言ったら、母は潮風の吹くコートでラリーの相手になってくれた。
「ドライブに行きたい」と言ったら、父は市街地のサーキット場をフェラーリで爆走してくれた。
「なんとなく変わった体験をしたい」と言ったら、15階建てのビルがスーパーカーの自動販売機になっている建物に連れて行かれて、飲み物感覚でポルシェを買うところを見せてくれた。
──塾に通って猛勉強している友達と比べて、こんな勉強の仕方でいいのだろうか?
毎日2時間勉強することは、「ラク」とは言えなかったが、これで友達たちと同じ学校に行けるのか、俺は正直疑問だった。
それなりの点数を取ることが難しいからこそ、みんな勉強を頑張っている。
それでも父と母は今日やるカリキュラムを指定して、2時間を計る砂時計を引っくり返すだけだった。
卒業試験まで1ヶ月を切っても、勉強する時間は変わらなかった。
家で1日2時間だけしか勉強していないのだから、卒業試験の結果が良くなくても仕方がない。
しかし、半ば諦めかけていた気持ちと裏腹に、俺は初等学校の卒業試験で全教科86点前後を取ることができた。
日常で見慣れた点数が変わらず返ってきた。
学年1位の優等生が本番で失敗する悲劇もなければ、落ちこぼれが高得点を獲得する逆転劇もない。
夜遅くまで自習室で友達と勉強したドラマも、試験前に長い間教わった先生から激励のコメントをもらうこともなく、塾に通い詰めていたクラスメイトより少し悪い成績で、俺は同じ成績上位の学校に進学することが決まった。
「おめでとう、ケンスイ。この調子で頑張りなさい」
「おめでとう。これで医者に一歩近づいたな」
父と母はお祝いのケーキを買って、成績上位の学校へ進学できたことを喜んでくれた。
けれども、両親の喜ぶ様子は、俺が模試で狙いどおりの点を取れたときと同じテンションだった。
きっと最難関の国立大学の医学部に入学するためには、中高の卒業試験でも上位の成績を取らなければいけないからだろう。
塾で猛勉強していた同級生たちは、志望校に進学した後も一層勉強に励むようになっていた。
だが、俺は相変わらず2時間だけ勉強することを求められた。
家で2時間勉強さえすれば、部活も恋愛も禁止されなかった。
父と母は学校で困ったことや欲しいものがないかを聞くだけで、それ以上のことは何も干渉してこない。
俺は当たり前になった習慣を苦に思うことなく、家に帰ったら手を洗うような感覚で、毎日2時間だけ勉強することを続けた。
──普通よりも恵まれた学校生活を送っている。
真夏の太陽の陽射しが差し込む教室で、冷房の風を浴びながら、俺はふとそんなことを思った。
中等学校へ1月に進学してから、勉強は上の下くらいの成績をキープしていた。
陸上部では将来伸びそうな棒高跳びの選手として期待されて、学年で3番目に可愛いと言われている女の子と付き合っている。
「お前みたいに何でもそつなくこなせたらな」と部活仲間に自虐気味に言われたこともあった。
しかし、俺は学校があまり楽しくなかった。
人生は間違いなく順調で、同級生が欲しがりそうなモノは持っているのに、毎日がなんとなく退屈だった。
いったい何を不満に思っているのか、自分でもよくわからない。
学年19位の成績で卒業試験をパスして、トップレベルの高等学校に環境が変わっても、心がどこか物足りない感じは消えなかった。
代わり映えのない毎日が繰り返されていく。
陸上競技場のタータントラックを延々と周回しているような気分だった。
毎日2時間の勉強が終わった後、俺は自宅のベッドに寝転がって、コミュニケーションアプリで友達や恋人と他愛のないやり取りをした。
常に何かをやっておかないと、暇に押し潰されそうで怖かった。
──眠たくなるまで、気を紛らわせるなら何でもいい。
俺がスマホゲームを始めたのは、学校のみんなと話を合わせるためだった。
同じキャラをなぞって消して、時間切れになるまで高得点を目指す、定番のパズル系のアプリ。
連続でキャラを消せば、制限時間は延びて、一度に稼げる得点も多くなるシステムらしい。
総ダウンロード数が1億を超えており、自己ベストのスコアが世界で何番目なのかをランキング形式で表示していた。
最初にプレイした感想は「ハマりそうにない感じがちょうどいい」だった。
学校の授業や2時間の自宅学習に支障が出る中毒性はまったく感じなかった。
止めたいときにいつでも止められる。
ゲームをやり始めてから1週間経っても、引きずることなく終わることができた。
ところが、俺は1年経っても、毎日同じゲームをプレイしていた。
家で2時間勉強するように、自分の部屋にこもって1日2回だけプレイした。
クラスメイトは1か月もしないうちに遊ばなくなり、今はYoutubeの好きな動画の話で盛り上がっていた。
スマホゲームは手軽に遊べる分、やり込みすぎるあまり飽きるのが早い。
陰でこっそり遊んでいる人がいることを期待したが、みんなアンインストールしたのか、クラスメイトの名前はランキングから消えていた。
──どうして未だに1人で何の変哲もないスマホゲームを続けているのだろうか?
毎日変わらない疑問を抱きながら、俺は両手でスマートフォンを持って、左右の親指を速く動かす。
水兵帽子を被ったアヒルのキャラは、一度になぞり終えた瞬間に輝きながら弾けた。
ピンク色の痩せた豚のキャラが降ってきて、色んなキャラが集まっている山の上に積もる。
この1年余りで連続でキャラを消すスピードが速くなり、1分間の制限時間がボーナスで延びつづけて、1プレイが終わるまで30分以上かかるようになっていた。
驚くべきことに、プレイ時間が長くなるにつれて、集中力は途切れるどころか、より一層深まっていく感覚があった。
やがて2時間プレイしても終わらず、一時中断して翌日に続きを再開すると、セーブデータを読み込んだかのように、俺の集中力も昨日と同じ深さまで一気に入り込めるようになった。
そうやって瞬時に深く集中することを繰り返すうちに、脳の集中力を司る部位が鍛えられたらしく、いつしか俺は目を閉じて開けるだけで深く集中できるようになった。
集中力が深まっていくほど、ゲームの操作に必要のないものは削ぎ落とされていく。
視覚情報はスマホ画面しか見えなくなり、何の音も聞こえなくなり、人差し指の爪先以外の触覚は感じなくなった。
代わりに、50体近くのキャラの配置が瞬きするだけで把握できた。
左右のどちらからなぞって消すのがコンボにつながりやすいのか、一目で判断できるようになった。
べつに俺にとって、パズル系のスマホゲームは生きがいではない。
今の自分を10年後に振り返ったら、なぜあんなものにハマっていたのか、きっと不思議に思うだろう。
俺は一息ついて、世界ランキングを上にスクロールした。
パズル系のスマホゲームを始めてから1年と4か月と22日、ランキングの1位の座には俺のハンドルネームが表示されていた。
──毎日家で2時間勉強している合間に、世界で一番になったことを教えたら、父と母はどんな反応をするのだろう?
俺は自分の部屋を出て、両親の寝室へ向かう。
一分一秒を争う話ではないのに、つい早足になっていた。無駄にドアの前で深呼吸して、必要もなくドアをノックする。
2人の顔を見たとき、何から話せばいいのか、頭の中を色んな言葉がぐるぐると回りはじめた。
「よかったね、ケンスイ。あなたにそんな才能があったなんて」
「ああ、凄いことだと思うよ。何かで世界一になるなんて、そう簡単にできることじゃない」
初めて見るだろうゲームのことでも、父と母は俺の記録を褒めてくれた。
ゲーム名を調べて、プレイ人口の多さや頭の体操になるアプリであることを知ってくれた。
「ゲームの1位が何の役に立つのか」なんて否定的なことは言わなかった。
しかし、2人の反応は、俺が模試で狙った点を取ったときと変わらなかった。
親子の会話のキャッチボールは5分も経たないうちに終わった。
表面上は喜んでいても、心の奥底では関心をあまり示さない。
父と母はスマホゲームをプレイすることも、俺がプレイするところを見たいとせがむこともなかった。
俺は両親の寝室を出て行き、自分の部屋の学習椅子に座る。
今日はまだ30分しかプレイしていなかったが、あらためてプレイする気にはならなかった。
親指でパズル系のゲームアプリのアイコンを長押しする。
ホーム画面中のアイコンがカタカタと震えはじめた。
ただのプログラムなのに、生命を感じさせる震え方。
アイコンの左上の×印を触り、「削除」と書かれた文字を選択すると、パズル系のゲームアプリは一瞬で消えてなくなる。
世界で一番になった5分後に、俺はそのゲームから引退した。
アプリを再インストールすることは二度となかった。
毎日変わらず続いたのは、親に課された2時間の勉強だけだった。
削除したゲームアプリを開発した企業の社員がやってきたのは、1週間後の休日の昼下がりだった。
毎日の2時間の勉強が終わったときにインターホンが鳴り、室内のドアホンモニターを見てみると、優秀な銀行員みたいな見た目の欧米人男性が映っていた。
仕立てのいいストライプ柄のスーツの襟には、「地球のロゴバッジ」がつけられている。
1階のエントランスから部屋の様子を覗くことはできないのに、来訪客の男はドアホンモニター前にいる俺に目をピタッと合わせて、爽やかな営業スマイルを浮かべた。
「はじめまして、リー・ケンスイさん。僕はアーカイブ社ゲーム事業部スカウト係のオッド・ストーン。──『Fake Earth』のプレイヤーとして、優秀な頭脳を持つ君をスカウトしにきました」
俺が応答ボタンを押した瞬間、オッドは流暢なマレー語で自己紹介する。
誰が応答するのかは見えないはずなのに、ドアホンモニターの前にいるのは俺であることを確信しているような口調だった。
オッドはスーツの内ポケットに手を入れて、シアン色のスマートフォンを取り出す。
彼のスマートフォンの画面には、「俺がゲームで5分だけ世界一だったスコアのランキング」が表示されていた。
全世界の経済に影響を与える企業が、メイン事業ではないゲームアプリの1ユーザーの元へ会いに来る。
俺がゲームで好成績を収めたことを考慮しても、怪しい話であることは間違いない。
しかし、俺はエントランスのロックを解除して、この初対面の男を自宅のラウンジに案内した。
いつもと違う出来事に惹かれるものを感じた。
どんな話なのかを聞いてから断っても遅くない。
運がいいのか悪いのか、それともオッドがタイミングを見計らったのか、父と母はショッピングで家を不在にしていた。
「では、あなたに参加していただきたいゲーム、『Fake Earth』について説明させていただきます。とは言っても、情報漏洩対策のため、現時点でお伝えできることは少ないのですが」
ラウンジチェアに座ったオッドは、箔押し印刷された名刺を渡す。
彼が前置きしたとおり、俺が生まれて初めて聞くゲームについての情報は、たったの3つしか教えてくれなかった。
──ゲームの世界に入り込むフルダイブ型のVRゲームであること。
──「高額な賞金」や「アーカイブ社のブラックカード」がクリア報酬であること。
──そしてゲームオーバーになれば、死よりも重いペナルティーがあること。
どれくらいのプレイヤーが参加しているのか、ゲームのジャンルは何なのか、それ以外の情報はプレイ前のルール説明で明らかになるとのことだった。
「この話は断ってくれても構いません。あなたにとって、このゲームに参加するメリットはほとんどないですから。このまま医者になれば、クリア報酬の賞金くらい楽に稼げます。ブラックカードを手にしたところで、より裕福な暮らしが送れるだけでしょう。『選ばれた人しかできないゲームをプレイできる』、ただそれを魅力的に思うかどうかです」
穏やかな口調で語りかけたオッドは、優しい目で俺を見つめる。
そして、主人公の選択を待つNPCのように、微笑んだ表情のまま口を閉ざした。
きっと訪問する前に俺のことをリサーチしたのだろう。
静まり返った空気の中、俺はオッドの目を見つめ返す。
今年は高等学校の卒業試験がある。国立大学医学部への進学がかかった最終試験。
医者になるために、父と母の期待を背負って、毎日勉強を8年以上欠かすことなく続けてきた。
将来が約束された人生。先行きが見えない時代で、安定した道を選ぶのは正しい選択だ。
敷かれたレールを歩きつづけることは、一握りの人しかできない。
ここまで積み上げてきたものを台無しにしてはいけない。
「──『Fake Earth』に参加します」
だが、俺は一言一句はっきりした声でそう言ったとき、胸の奥がスカッとするのを感じた。
「承知しました。それでは弊社が送りましたメールをご確認ください」
オッドは事務的な口調で返事する。
俺がスマートフォンを確認すると、『Fake Earth』へ参加を表明する30分前に、「アーカイブ社ゲーム事業部」からメールが届いていた。
次回、遊津優斗の過去編(後編)です。