21話 知らない家
【ルール】
プレイヤーがゲーム内で操作するアバターは、運営によって名前から年齢・性別・運動神経などをランダムに決められる。
一晩ぐっすり寝たら、アバターは筋肉痛に襲われていた。
全身はひどく重たく感じる。
昨日の紫藤やギルドとの連戦で、アバターを無理に動かしすぎたらしい。
硬くなった太ももの裏側は、じわじわとした痛みを1秒ごとに訴えている。
自分のターンが終わるたびにダメージを食らう、状態異常に陥ったような感覚だった。
──『Fake Earth』は現実世界を完璧に再現したゲーム。
──ドラクエみたいに、寝れば体力が『全回復』というわけにはいかない。
レキトは目を閉じて、ドラッグストアで買ったアイマスクを外す。
枕元のヘッドボードに手を伸ばして、新調した眼鏡のブリッジを指先でつまんだ。
滑り止めのグリップを付けたつるを触り、「コバルトブルー色のスクエア型の眼鏡」を装備する。
両目をゆっくりと開けて、仰向けに寝転がったまま、赤色のスマートフォンのホームボタンを押した。
《小さな番犬》はスマホ画面に張りついており、ツヤツヤな鼻が画面いっぱいに映っている。
休止状態だった画面を明るくした瞬間、レキトに甘えるように鼻をぐりぐりと押しつけてきた。
特徴のある鳴き声で吠えそうな素振りはない。
今のところ「危険」は迫っていないようだった。
「……9時過ぎか。さすがに起きるか」
レキトはベッドから身を起こして、薄暗い部屋をゆっくり歩く。
出入り口のドア近くの壁に手を伸ばして、部屋の明かりのスイッチを押した。
ゲーム画面がロードされるように、明るく照らされた部屋のインテリアが見えるようになる。
真っ黒で屏風絵のような花柄のスケートボードが、縦向きに壁掛けで飾られていた。
美しい木目の本棚には洋書が並んでいて、空いたスペースには観葉植物のテラコッタ鉢が置かれている。
12畳近くある部屋の隅には、サンバースト塗装のエレキギターが三脚スタンドに立てかけられていた。
姿見鏡の付いたハンガーラックには、ヴィンテージ感のあるテーラードジャケットが吊るされている。
ゲーム攻略の拠点となる「遊津暦斗の部屋」。
下北沢駅から徒歩10分の自宅には、財布の中にあった学生証に記載された住所から辿りついた。
操作するアバターは見た目どおり「サブカル好きな高校生」らしく、部屋にあるアイテムすべてにこだわりがあることが伝わってくる。
レキトは壁面クローゼットに歩み寄り、左右の折れ戸を同時に開けた。
色ごとにハンガーパイプにかけられた服の中から、「ベージュ色のカーディガン」「長袖のカットソー」「細身の黒いチノパン」をクローゼットの中から手に取る。
格子柄のルームウェアを脱ぎ、下着以外の装備アイテムを交換した。
部屋の電気を消した後にドアを開けて、折り返し階段を2階から1段ずつ下りていく。
『Fake Earth』はシナリオやイベントが用意されているゲームではない。
ゲームマスターの手がかりを集めたり、プレイヤーと戦ったりしなければ、何も起きない「日常」というプレイ時間だけが過ぎていく。
そして、この世界のアバターとして存在する以上、一部のNPCとの人間関係が最初からできあがっている。
レキトはリビングの扉の前に立った。
ボス戦を前にしたときに似た緊張を感じた。
静かに深呼吸して、スクエア型眼鏡をかけ直す。
左手を伸ばして、真鍮のドアノブをひねった。
開けた扉の先から温かな光が差し込んだとき、深みのあるコーヒーの香りが漂ってきた。
暖房が快適な温度に調節した空気が流れてきて、優しく肌に染み込んでいくような感覚を覚える。
30畳くらいの広さのリビングでは、円型のロボット掃除機が稼働していた。
室内飼いしている小型犬のように、レキトの足元へちょろちょろと近づいてくる。
薄型の液晶テレビの画面には、週末の朝の情報番組が映っていた。「昨日に東京駅周辺で起きたテロ事件」が話題に取り上げられていて、報道ヘリで空撮した高層ビルが炎上している映像が流れている。
男性アナウンサーによると、今回のテロは世界中を騒がせている組織による犯行で、警察の特殊部隊が出動したものの、全員に逃げられてしまったらしい。
円型のロボット掃除機は向きを変えて、レキトを案内するウェイターのように、セラミック天板のダイニングテーブルのほうへ進んでいく。
レキトの朝食として、レーズン入りの食パンとアボカドサラダがテーブルの上に用意されていた。
ダイニングテーブル周りにある椅子の数は5脚。
流し台の食器洗い機には「空になった4人分の食器」がセットされている。
レキトは自然体を心がけながら、朝食の用意されたダイニングテーブルに向かった。
『Fake Earth』で気をつけるべき存在は、プレイヤーだけじゃない。
相手に悟られないように、横目でソファやラグマットの方を見る。
朝食を食べ終わった4体のアバターがリビングでくつろいでいた。
「暦斗、冷蔵庫にヨーグルトがあるから、食べたかったら食べて」
向かいの席に座っている女性アバターが片手にコーヒーを持ち、テーブルに広げた文庫本を読みながらレキトに話しかける。
肌に張りのある見た目は30代後半くらいで、目鼻立ちがはっきりとした顔立ちは宝塚出身の役者を彷彿とさせた。
中学生らしき女性アバターは真っ白な壁にもたれかかり、ウサギの耳をしたケース付きのスマートフォンで自撮りの動画を撮っている。
歌っているように口をパクパクと動かしながら、可愛く笑ったりおどけた顔をしたりと表情を次々と変えていた。
5人掛けのソファ前のラグマットには、背の高い大学生らしき男性アバターがうつ伏せに寝転がっている。
スケルトン筐体のワイヤレスイヤホンを耳に着けて、緩んだ表情でゴリラが喧嘩している動画をスマートフォンで観ていた。
ソファに座った40代半ばらしき男性アバターは眉間に皺を寄せて、同じ絵柄をなぞって消す系のスマホゲームをプレイしている。
父親の司、母親の紀子、兄の優斗、妹の美桜。
ゲーム攻略の拠点となる自宅は、4人の家族のNPCとの共同生活だった。
「そうだ、優斗、美桜、明日は7時には帰ってきて。せっかく作った御馳走、冷めたらもったいないし」
「え~マジ? 明日、私、ミキちゃんと遊ぶんだけど。そんな急に言われても困るよ」
「大丈夫だよ、母さん。美桜、『この日は用事があるから早く帰るね』ってミキちゃんとの電話で話したから。年頃だし反抗期っぽく振舞ってるだけ」
「……あっ、美桜。そういえば、昨日アップしてたダンスの動画は良かったぞ。お父さん、いいねとコメントしといたから」
「ちょっとお兄ちゃん! 人の電話を盗み聞きするのは、プライバシーの侵害なんですけど! あとお父さん! 私の動画を観るのはいいけど、コメントは友達に見られたら恥ずかしいって言ったでしょう! ……まあ、その、気持ちは嬉しいんだけどさ」
美桜は照れ臭そうに頬を掻くと、ウサギの耳をしたケース付きのスマートフォンに視線を戻す。
兄の優斗は片耳のイヤホンを着け直して、ゴリラが喧嘩している動画の続きを再生した。
母の紀子はコーヒーを啜って、文庫本のページをめくる。
遊んでいたゲームのスコアが良かったのか、誇らしげな顔をした父の司は無言でガッツポーズを取った。
同じ屋根の下に暮らす家族たちは、各々がやりたいことを自由にやっている。
お互いの会話も少なく、共通の話題となりそうなテレビも誰ひとり観ていなかった。
レキトがリビングに入ったときも、視線を寄越すだけで、「おはよう」の挨拶の1つもない。
全員が相手から一定の距離を置いた場所にいる。
しかし、このリビングには和やかな空気が流れていた。
4体のアバターたちはリラックスした雰囲気で休日を過ごしている。
みんな好き勝手にやっていることが「家族」として調和しているように見えた。
この家族はアーカイブ社が作った「偽物」であるはずなのに、「本物」の家族を目の当たりにしているかのようなリアリティーを感じさせる。
もしもレキトが「家出」を選択したら、きっと彼らは警察に捜索願を出したり、SNSで情報提供を求めたりするだろう。
行方不明者として目立てば、敵プレイヤーにレキトがプレイヤーだと疑われる可能性が高くなるはずだ。
かといって、家族の前で不自然な行動を続ければ、心配されて病院に連れて行かれるなどのリスクもある。
──この世界で生きるためには、「遊津暦斗」を完璧に演じなければいけない。
レキトは冷蔵庫を開けて、バニラ味のヨーグルトを取り出す。
無言で手を合わせて、アボカドサラダの皿のラップを剥がした。
銀色のフォークでアボカドを刺して、口の中に入れる前に手を止める。
何気ない感じを装うことを意識しながら、まずは知らなければいけないことを質問した。
「あれ? そういえば明日って何があるんだっけ?」
レキトが母親の紀子に尋ねたとき、家族がくつろいでいたリビングに不穏な空気が漂った。
司は片眉をピクッと上げて、紀子は文庫本のページをめくる途中で固まっていた。
全員の視線が一斉にレキトに向く。
優斗は目を瞬かせて、両耳からワイヤレスイヤホンを外した。
美桜は真顔になって、知らない人を見るような目でレキトを見つめている。
「何を言ってるんだ、暦斗? 明日はお前の誕生日じゃないか」
冗談っぽく肩をすくめた父は朗らかに微笑みかける。
穏やかな口調で話していても、目は心配する気持ちを隠せていなかった。
母は自分の額に手を当てて、反対の手をレキトの額に当てる。
細い首を傾げて、レキトの目を覗き込んでいる。
「……あはは、そんな真に受けないでよ。ジョークに決まってるじゃん。滑ったけど」
「そうね、熱はないみたいね。けど、本当に大丈夫? 昨日も帰ったらすぐ寝てたし、どこか体の調子がおかしいのかも」
「心配いらないよ、母さん。全然大丈夫だから。ありがとう」
レキトは母を手で制して、アボカドサラダを食べた。
動揺してフォークを持つ手が震えないように、指先に力をぐっと込める。
家族のみんなは何も言わず、何でもなかったようにレキトから視線を逸らした。
それぞれが中断していたことを再開する。
けれども、全員がレキトの様子を窺っており、ときおり目配せを交わしていた。
レキトは朝食を食べ終わった後、自分の部屋に戻ることにした。
明らかに不自然な態度だが、家族の前でこれ以上ボロを出すことのほうが怖かった。
「遊津暦斗」のパーソナリティーを急いで把握しなければいけない。
ベッドの縁に腰かけて、赤色のスマートフォンを手に取る。
昨日は疲れて放置していたLINEを起動すると、知らないNPCの名前がトークリストに並んでいた。
「おっ、通知がいっぱいじゃん。俺と違ってリア充だな、暦斗は」
1人きりのはずの部屋で、聞き覚えのある声がする。
慌ててレキトはスマホ画面から顔を上げると、兄の優斗が近くに立っていた。
家族の前で失言して動転したあまり、部屋の扉を開けっぱなしにして、2階に人が上がってくるのも気づけなかったらしい。
レキトは背中にスマートフォンを隠して、いきなり兄が部屋に入ってきたときに言いそうなことを考えた。
「……あのさ、ノックくらいしてよ。心臓が止まるかと思った」
「あ~悪い、悪い。母さんに『ちょっと探ってこい』ってお願いされたからさ、黙って入ってみたんだよ」
「はあ、母さんも心配性だな。まあいいけど。で、何? こっちは普通に元気なんだけど」
「そりゃ、俺がお前に訊くことなんて、アレしかないだろう? ここまで言えばわかるだろう?」
ドアを閉めた優斗はデスクチェアに座って、マーモットが喧嘩している動画をスマホで観はじめた。
10秒ほど再生すると、一時停止ボタンを押して、まだ回答しないレキトの顔を不思議そうに見つめる。
レキトは腰に手を当てて、呆れたようにため息をつく演技をした。
「アレ」がいったい何なのか、まったく見当もつかなかった。
おそらく母の紀子が優斗を派遣した理由は、親が子どもに直接訊きにくいこと。
レキトの様子がおかしくなった原因だと結び付けられているものだろう。
──通知の溜まったコミュニケーションアプリ。
──「俺と違ってリア充だな」という兄の言葉。
レキトは直感を信じて、頭に浮かんだ答えに賭けることを決意した。
「ああ、『彼女』のことか。別れてないよ。まあ、昨日の帰り道で喧嘩したけど」
レキトは強がっている弟を演じた。
教団ギルドに完敗したことを思い出し、不機嫌そうな表情を作る。
両手をポケットに突っ込み、優斗の目を見返した。
「そう、真紀ちゃんのこと。あ~やっぱり喧嘩したのか。誕生日前に険悪になるのはショックだもんな」
「べつにショックじゃないよ。悪いのは、俺じゃなくて、あいつだし」
「まあまあ、そこはお前が大人になってやれよ。何があったかは知らんけどさ」
優斗は腕を組んで、穏やかな口調でなだめるように言った。
母親譲りの均整の取れた顔立ちで、朗らかに笑った顔は父親に似ている。
爽やかなショートの黒髪で、少しオーバーサイズのTシャツを着こなしている姿は大人っぽい。
真面目な好青年を絵に描いたような見た目なのに、左耳に開けたスタッドピアスが様になっていた。
「とりあえず良かったよ。暦斗の調子がおかしいのは、真紀ちゃんと喧嘩したことが原因で。あんまり様子が変だから、てっきり勘違いしちゃったよ。──『お前はプレイヤーじゃないか』って」
優斗は声をひそめて、青色のスマートフォンをレキトに向ける。
父譲りの朗らかな笑みは消えていた。別人のような目つきに変わっている。
レキトは息を呑み、頭の中の思考が吹っ飛ぶのを感じた。
咄嗟にベッドから腰を浮かせて、部屋の奥に向かって飛び退く。
だが、赤色のスマートフォンを構えたとき、決定的なミスを犯したことに気づいた。
騙そうと思っていた相手の言葉に引っかかって、「弟」の演技を止めてしまったことに。
部屋に置いた姿見鏡を見ると、そこにはプレイヤーとしての自分が映っていた。
──ケルベロ! ケルベロ! ケルベロ!!
《小さな番犬》が激しく吠え出した。
赤色のスマートフォンが振動した。
「DANGER」のポップアップがスマホ画面で点滅する。
優斗は背もたれに寄りかかり、深くため息をついた。
「正直に言って、驚いたよ。まさかプレイヤー同士が家族になるなんてさ。でも良かった。俺もみんなも心配してたからさ。後はお前をゲームオーバーにして、元の暦斗に戻せば解決だ」
晴れやかな顔になった優斗は目を閉じて、座っているデスクチェアをレキトの方へ回転させる。
口元にスマートフォンのマイクを近づけたとき、《小さな番犬》の吠える声が一気に大きくなった。
このまま敵プレイヤーにギアを起動されたらまずい。
レキトは前へ飛び出して、優斗からスマートフォンを奪おうと手を伸ばす。
だが、優斗は目を開けた瞬間、奪うために開かれたレキトの手に向かって、素早く左手を伸ばして指をレキトの指に絡ませた。
そして、恋人同士が手をつなぐように、固く手を握りしめてレキトが逃げられないようにした。
操作しているアバターがバグを起こしたかのように、青い瞳が左右に揺れている。
「──《秘密の部屋へようこそ》」
遊津優斗はレキトの手を握ったまま、低い声でギアを起動するように呼びかけた。