番外編 寄稿『人類とゲームの未来について』藤堂千秋
これは主人公・藤堂頼助の父親である千秋がある出版物に寄稿したコラムである。
プレイヤーに対して、「ゲームの世界がリアルだ」と思わせること。
これはゲーム業界の中では、「売れるゲームの要素の1つ」だという共通認識があった。
だからこそ当時のゲーム開発者たちは、ファンタジー世界を舞台にしたRPGを制作する場合でも、リアリティーを重んじていた。
彼らはゲームを楽しんでもらうために、プレイヤーに現実世界とゲームの世界を混同させる工夫を凝らしてきた。
たとえば「グラフィック」では、雪原のフィールドが太陽の光を反射して輝くようになった。
ドット絵だったキャラクターは、瞬きする目の睫毛が上向いているところまでデザインされるようになった。
「操作性」では、〈現実世界のプレイヤーの動き〉と〈ゲームのキャラクターの動き〉が連動する、モーションセンサーがコントローラーに導入された。
このほかストーリーの進捗度に関係なく、プレイヤーが行きたいときに好きな場所へ移動できる「オープンワールド」のゲームも増えてきた。
かつて流行した「ゲーム脳」という言葉も、こうした背景があったからこそ誕生したのだろう。
ゲームのリアリティーが増してきたからこそ、大人たちは「ゲームの暴力表現が子どもに悪影響を与える」と危険視するようになったに違いない。
しかし、2010年代から、ゲーム業界はあることをきっかけにして、このリアルを追求する傾向に変化が訪れる。
──それは「スマートフォン」の登場だ。
現在では利用者が全世界の人口の9割に達する、21世紀を代表する発明品がゲーム業界に参入したことで、大きなインパクトを与えたのである。
いったいスマートフォンは、従来のゲーム機と何が異なっていたのか。
簡潔に答えれば、「日常生活で欠かせないツール」として、大勢の人たちに利用されていたことだろう。
おそらく読者全員がご存知のとおり、スマートフォンは「家族・友達との連絡」、「インターネット検索」、「スケジュール管理」など、様々な機能が1台の端末にまとめられている。
さらにユーザーは必要に応じて、「テレビの録画予約」や「料理のレシピ検索」といった日常生活が便利になる、「アプリ」と呼ばれるソフトウェアをインストールすることができる。
それゆえにスマートフォンは各々のニーズを満たすようにカスタマイズされていく。
美容に興味のある人は、ダイエットやメイク関連のアプリを集めていく。
海外旅行が好きな人は、同時通訳や通貨の両替計算アプリでホーム画面を埋めていく。
そして、その人にとって便利なものを1台に集約したために、スマートフォンが常に身の回りになければ落ち着かなくなってしまう。
ゲーム業界は、その人間の心理をよく理解していた。
だから、スマホゲームは「日常の一部となること」を意識して作られた。
これまで『ドラゴンクエスト』を代表とする一般的なゲームには、基本的にゲームクリアとなるゴール地点が用意されていた。
もちろんエンディング後のやり込み要素はあっても、メインストーリーは完結するように作られている。
当時のプレイヤーたちはゲームをクリアした後、やり込み要素を楽しみながら続編を待つか、別のゲームで遊ぶことが一般的だった。
ところが、スマートフォンのゲームは、サービスが終了しないかぎり、基本的にはストーリーが完結しない。
「運営」と呼ばれる開発スタッフが、新たなシナリオを随時追加して、そのゲームを半永久的に楽しめるように引き延ばしつづけている。
また長時間のプレイを求める従来のゲームに対して、スマートフォンのゲームは学校の昼休みや電車の待ち時間などの「すきま時間」にプレイしてもらうように設計されている。
このほかにも「時間経過で回復するスタミナ制」や「ログインボーナス」など、プレイヤーに毎日少しだけ遊ばせるためのシステムが導入されているのだ。
これはゲーム会社が「現実世界(日常)とゲームの世界(非日常)を混同させる」という方針から、「現実世界(日常)の習慣にゲームの世界(非日常)を取り入れさせる」という方針にシフトしたのである。
『「ゲーム」を「リアル」に近づけよう』から、『「ゲーム」と「リアル」を一体化しよう』という発想へ。
つまり、【現実世界とゲームの世界の境界線は消えつつある】ということだ。
実際に、スマートフォンのゲームには「課金」という要素がある。
これはプレイヤーが「現実世界のお金をゲームに支払えば、そのゲームの強いキャラクターが手に入りやすくなる」というシステムだ。
プレイヤーの現実世界の資金力が「そのゲームの強さのパラメーター」の1つとなっている。
『Pokémon GO』を代表とする位置情報ゲームも、「ゲーム」と「リアル」が一体化している例に当てはまるだろう。
街を歩いて出会ったモンスターを捕まえるシステムは、ゲームの世界でしか体験できなかったことを現実世界でよく再現できている。
最後に、1つ、ある統計グラフを紹介したい。
これはあらゆる教育関係者、もしくは警察関係者が世の中にあまり知られたくないとされている、「自殺者数」(図1)と「ゲーム依存症の患者数」(図2)の数を記録したものだ。
図1と図2を比較してみれば、興味深いことに、2つのグラフは逆相関した形になっている。
とくに直近の2025年から2030年までの5年間で、「自殺者」は明らかに減少しつづけており、「ゲーム依存症の患者」は2倍近くにまで増加しつづけているのだ。
では、なぜ「自殺者」と「ゲーム依存症の患者」のグラフが逆相関しているのか。
私は、どちらの人も「現実ではない世界を選んだ」という共通点があるからだと考えている。
自殺者は死後の世界を選び、ゲーム依存症の患者はゲームの世界を選んでいる。
つまり、彼らは別の世界に価値を見出して、現実世界での人生を捨てた人たちだ。
だから、ゲーム依存症の患者が増えるほど、その一方で自殺者は減っていくのだろう。
これまで「自殺」しか選択肢のなかった人たちが、「ゲームの世界」という逃げ場ができたことで、新しい選択肢のほうを選べるようになったのだから。
当たり前の話だが、ゲームという別世界を選んだ人たちは、そのゲームをプレイしつづけるために、自分で命を絶つことはしない。
ゲーム依存症の患者は、自殺者と異なり、現実世界でまだ生きている。
この点について、人類がどのような判断をしていくのか。
今後の議論の焦点になると思われる。
この先ゲーム産業が発展しつづければ、いつか現実世界と変わらないリアリティーのあるゲームが誕生するだろう。
もしかしたら遠くない未来では、好きな国に移住できるように、ゲームの世界で暮らせる社会に変化するかもしれない。
そのときにまた、1つの大きな問題が、人類の前に出てくることになる。
人類全体が、自由に「ゲームの世界」に移住ができるようになったとき、人類は自らの生きる場所として、「現実世界」と「ゲーム」のどちらを選ぶのか。
もしも「ゲームの世界」に移住したとき、操作するアバターの容姿、年齢や性別、運動神経までも自由に決められるとしたら──。
私は、必ずしも「現実世界」を選ぶとは限らないと予想しておく。
『人類とゲームの未来について』藤堂千秋