18話 現実を再現したゲーム
眩く輝くスマホ画面は、廃ビルの室内全体を照らしている。
青白い光を受けて、ガラス張りの窓の前で並んでいるコンクリート柱は割れ目まで煌めいていた。
50人のプレイヤーたちの戦いによって、コンクリートの床から舞い上がった埃がキラキラと光っている。
幻想的なイルミネーションを見ているような光景だった。
握りしめたスマートフォンの振動が止まると、犬小屋のアイコンがホーム画面に登場した。
「読み込み中」というアイコン下の文字が「インストール中」へ瞬く間に切り替わる。
円形のゲージが時計回りにぐるりと光って、「インストール中」の文字が「《小さな番犬》」に切り替わる。
そして、暗かったアイコンが明るくなり、三角屋根の犬小屋の扉が勢いよく開いた。
──ケルベロ! ケルベロ! ケルケルケルベロ!
銀色の毛並みの小犬が、犬小屋のアイコンからぴょんと飛び出てきた。
柴犬風にカットしたポメラニアンに似ていて、真ん丸の目はくりっとしていて可愛らしい。
長くボリュームのある尻尾を嬉しそうに振っている。
番犬らしさをアピールしているのか、小犬の首には青色のスパイク首輪がつけられていた。
『№25:《小さな番犬》』
『プレイヤーに危険が迫ったとき、犬の鳴き声とスマホの振動で注意を呼びかけるギアです』
『プレイヤーに迫る危険度の高さに応じて、鳴き声と振動は大きくなりますので、どうぞ様々な場面でご活用ください』
中性的な声のアナウンスが終わると、スマホ画面から放たれていた光は消えた。
青白く輝いていた廃ビルの部屋は、夢から現実に引き戻されたかのように薄暗くなる。
《小さな番犬》はホーム画面をトコトコと歩いて、犬小屋のアイコンへ戻った。
真ん丸の目を閉じて、鼻ちょうちんをぶら下げて眠り始める。
しかし、次の瞬間、大きな鼻ちょうちんが割れて、《小さな番犬》は激しく吠え始めた。
赤色のスマートフォンが振動して、「DANGER」のポップアップが画面に表示される。
慌ててスマホ画面から顔を上げると、教団ギルドのプレイヤーが間近に忍び寄っていた。
レキトは親指でホームボタンを長押しして、ライトグリーン色の光の刃でナイフを受け止めた。
すかさず紫藤が助太刀に駆けつけて、教団ギルドのプレイヤーを遠ざける。
そして、後ろから斬りかかろうとしたプレイヤーの方に目を向けず、近づくことを牽制するようにナイフを向ける。
《小さな番犬》 が吠え続ける中、50人のプレイヤーたちはレキトたちを囲み始めた。
「……やっぱり運が悪いね、レキトくん。逃走系のギアをもらえたら、この状況も切り抜けられたのに」
「いえ、もしかしたら当たりかもしれませんよ。このギアのおかげで、俺たちは逃げ切ることができるかもしれません」
「本気で言ってる!? そのギア、結局『吠えて震えること』しかできないんだよ!」
「吠えて、震える。その機能で十分なんですよ。戦闘中に作戦を共有するときにも、このギアは役立ちますし」
レキトは口元を手で隠して、声をひそめて紫藤に作戦を5秒で伝える。
《小さな番犬》の吠える声が被さり、敵プレイヤーたちに伝わらないようにかき消してくれていた。
一か八かの作戦を伝え終えた直後、紫藤から何の反応もなかったので、声が小さすぎたかと不安になって彼女を横目で見る。
紫藤は心配そうな表情を浮かべて、ちょうど横目でレキトを見ていた。
「どうしました、紫藤さん? 作戦に不備があるなら、遠慮なく言ってください」
「……べつに不備はないよ。悪くない作戦だと思う。けど、ほかに何か別の方法はないの? この作戦だと、成功したとしても、レキトくんが……」
「ああ、そういうことでしたか。あなたがいるから大丈夫ですよ。チャンスは必ず5分以内に訪れます。相手にバレないように、あのギアを──」
作戦の要点を伝え直そうとしたとき、《小さな番犬》が吠え声を強める。
レキトが視線を戻すと、意識が紫藤に傾きかけた隙を狙って、何人ものプレイヤーたちが光り輝くナイフで襲いかかってきた。
レキトは静かに息を吐いて、ライトグリーン色の光の刃を構える。
紫藤と死角を補い合いながら、次から次へとやってくるナイフを防ぎ続けた。
教団ギルドのプレイヤーたちの猛攻をしのぐ最中、レキトは心に余裕が生まれるのを感じた。
50人のプレイヤーたちが相手といえども、一度にナイフで斬りかかれる人数は5人くらいに限られている。
操作するアバターが馴染んできた今、ひたすら攻撃を食らわないことに専念すれば、迫りくるナイフを見切ることは不可能ではない。
──おそらく50人のプレイヤーたちが《対プレイヤー用レーザー》や他の攻撃系ギアを使わないのは、「味方の巻き添え」あるいは「廃ビルの崩壊」などのリスクがあるため。
──このまま一定時間が過ぎるまで粘れば、必ずギルドから逃げるチャンスはやってくる。
頭の中でQTEのボタン入力画面が立て続けにカットインしてきた。
瞬きすることも許されない緊迫感。
必死に避けつづけるアバターはだんだん軽くなり、集中力が研ぎ澄まされていくような気がする。
ふと凛子と一緒にゲームセンターで「弾幕系シューティングゲーム」をプレイした記憶が蘇り、お互いに無言でレバーをカチャカチャ鳴らして、画面を埋め尽くすような敵弾の嵐の隙間を縫うように避けたことを思い出した。
「皆さん、『ナイフ縛り』はやめましょう。この方々のコインの価値は、攻撃系のギアを2つ使っても問題ありません。──《対プレイヤー用レーザー》の使用を許可します」
緑色の瞳の女性プレイヤーはスマートフォンを掲げて、側面のサイレントスイッチを左にスライドする。
親指でホームボタンを長押しして、端末上部のイヤホンジャックの穴をレキトに向けた。
電気を溜めたイヤホンジャックは光り、真っ白なレーザーポイントが学ランの第二ボタンがあった場所に浮かんだ。
他のプレイヤーたちも《対プレイヤー用レーザー》を構えて、色とりどりのレーザーポイントが学ランを水玉模様に変えるように浮かぶ。
《小さな番犬》の吠え声の音量が跳ね上がった瞬間、レキトは両膝をコンクリートの床に叩きつける勢いでしゃがんだ。
電撃が迸るような音が駆け抜けて、複数のレーザー光線が瞬く間に通り過ぎた。
廃ビルの壁に小さな穴がいくつも開き、微かな光が外から差し込み、レキトたちをほのかに照らす。
全身から汗が噴き出すかのように、何種類ものレーザーポイントが学ランに浮かび上がる。
レキトは眼鏡を手で押さえて、コンクリートの床を転がった。
同時に放たれたレーザー光線を避けるのも束の間、逃げた先にいたプレイヤーが光り輝くナイフで切りつけてきた。
体勢を崩していたレキトは寸前でかわすも、学ランの胸ポケットが破ける。
すかさずカーキ色のレーザー光線が耳の上を通り過ぎ、側頭部の髪から焦げた臭いがした。
──ケルベロ! ケルベロ! ケルケルケルベロ!
《小さな番犬》が激しく吠えつづける。
端末のバイブレーションはますます強くなり、「DANGER」のポップアップはスマホ画面で点滅していた。
近くにいるプレイヤーたちはナイフで攻撃してくる。
離れたところにいるプレイヤーたちはレーザー光線を撃ってきた。
何発ものレーザー光線が飛び交う戦場で、対プレイヤー用ナイフを持ったプレイヤーたちが変わらず攻めてくる。
彼らは素早く動き回っているのに、誰一人レーザー光線にかすりもしていなかった。
味方のアタッカー全員の動きを完璧に予測しなければできない連携プレイ。
対プレイヤー用レーザーを撃つプレイヤーたちは、接近戦を仕掛けるアタッカーたちの隙間を通して、標的のレキトを狙い撃ちしている。
──大多数のプレイヤーたちによる、全距離からの集中攻撃。
──敵が本領を発揮するなら、こっちは120%の力で応じればいい。
だから、頭脳をフル稼働させて、目の前の状況を整理しろ。
対戦相手の思考を分析して、未来の行動を予測しろ。
全力を出し切って、限界を超えて、最善を尽くせ。
絶対に攻略できないゲームがないように、絶対に勝てないプレイヤーもいない。
視野を広げて、見方を変えて、攻略法を見つけるんだ!
「──学習しろ、学習しろ、学習しろ!」
レキトは目を見開き、スクエア型眼鏡を投げ捨てた。
急接近するアイボリー色の光の刃を見つめて、学ランの裾に触れた瞬間に回避する。
すかさず一斉に飛んでくるレーザー光線を見切って、ライトグリーン色の光の刃で斬った。
後ろを振り返り、光り輝くイヤホンジャックの向きからレーザー光線の軌道を把握する。
目の力の有効持続時間は60秒。
同時に放たれたレーザー光線をかい潜って、レキトは斬りかかってきたプレイヤーにカウンターで一太刀を浴びせた。
そのまま斬ったプレイヤーを踏み台に高くジャンプして、横から突撃してきたプレイヤーの背中にナイフを振り下ろす。
斬った2人のプレイヤーが倒れて、混雑していた視界がわずかに開ける。
だが、倒れた2人のプレイヤーはすぐ起き上がった。
味方が回復系のギアを使ったのか、レキトが斬った傷は綺麗さっぱりなくなっている。
光り輝くイヤホンジャックを紫藤に向けていたプレイヤーの5人がレキトに狙いを変えた。
そして、彼らは斜め上にレーザー光線を放ち、レキトの頭上の天井を破壊する。
天井から瓦礫の雨が降り注いだ。
大量の埃と粉塵が霧のように広がる。
廃ビルの薄暗さも相まって、教団ギルドのプレイヤーたちの姿が見えにくくなった。
急激に処理しなければいけない情報量が増えて、後頭部がズキズキと痛み始める。
急いで瓦礫の落下地点を見極めようとしたとき、横殴りのレーザーの雨が襲ってきた。
咄嗟に横へ身をかわして避けると、対プレイヤー用ナイフを持ったプレイヤーたちが走ってきた。
ランダムで落ちてくる瓦礫から、フルフェイス型のガスマスクが頭を守っている。
──「装備アイテム」で味方へのダメージを無効にした上でのステージギミック攻撃!
レキトは瞬きを堪えて、次から次へと迫ってくるナイフを連続で避けた。
すかさず後ろに跳んで、天井から降ってきた瓦礫を回避する。
空中でアバターをひねって、ブロンズ色のレーザー光線を紙一重でかわす。
しかし、直後に放たれたローズ色のレーザー光線は、間近に迫るのが見えていても、回避するのには間に合わなかった。
──ケルゥ⁉︎ ケルベロ! ケルケルケルベロ!
《小さな番犬》が悲鳴を上げるように吠える。
被ダメージにコントローラーが振動するように、赤色のスマートフォンが激しく震えた。
レキトは顔をしかめて、撃たれた肩を手で押さえる。
まだ敵のターンは終わっていないと思ったとき、前後から2本のレーザー光線がレキトの学ランを同時に貫いた。
痛みが全身を駆け抜ける。
叫びたい衝動を必死に抑え込んだ。
学ランに開いた穴から、シアン色の血が溢れてくる。
電源を切られたゲーム画面のように、頭の中が真っ白になっていく。
もしもゲームオーバーになったら、こんな風に記憶が消されるのだろうか?
レキトは歯を食いしばり、握った手からスマートフォンを落とさないように力を込めた。
凛子が対戦でピンチになったとき、楽しそうに目を輝かせてプレイしていたことを思い出す。
「──学習しろ! 学習しろ! 学習しろ!」
レキトは全力で叫んで、猛スピードで駆け抜けるレーザー光線をくぐり抜ける。
コンクリートの床に落ちた瓦礫を蹴飛ばして、対プレイヤー用レーザーを構えたプレイヤーの手にぶつけた。
急いで左右を見て、死角にナイフを持ったプレイヤーがいることを見抜く。
そして、振り向き様にライトグリーン色の光の刃を放って、背後から斬り込んできたプレイヤーを退けた。
目の力のタイムリミットまで、残り30秒。
壊れた天井から瓦礫はもう落ちてこない。
強引に攻める覚悟を決めて、レキトは後ろへ退けたプレイヤーとの間合いを詰めた。
次の瞬間にレーザー光線で撃ち抜かれた痛みを堪えて、目の前のプレイヤーの脇腹をすれ違いざまに斬る。
学ランに風穴が増えた痛みを耐えて、斬った先にいるプレイヤーにナイフを振るう。
死に物狂いで戦いながら、レキトは笑みがこぼれるのを感じた。
全身に力がみなぎってくる。
目に映るすべてのものがより鮮明に見えるようになった。
誰がどう攻撃してくるのか、全員の指の動きや顔の向きから、より先の未来が先読みできるようになる。
今なら50人のプレイヤーたちを倒せそうな気がした。
だが、そのときアバターの膝から力が、一瞬、抜けた。
コンマ1秒もの遅れを許されない状況で、予想外のタイムラグが生じる。
目では見えているのに、思いどおりに動かせない。
格闘ゲームでダメージを受けた操作キャラが仰け反っているとき、コマンド入力しても動かなかったときの映像が頭をかすめる。
レキトは踏ん張って、当たる直前の攻撃を捌くことに集中した。
ライトグリーン色の光の刃を振り回して、最小限のダメージで済むように防御する。
撃たれた腕が途中で動かなくなり、急所だけは守るように切り替えた。
わずかな希望に賭けて、生き延びることを最優先にする。
両目が充血していくのを感じた。
後頭部がズキズキと痛みはじめた。
切り傷が増えて、銃痕が刻まれて、アバターは徐々に損傷していく。
そして、目の力のタイムリミットの1分が過ぎた。
レキトは目を閉じて、血まみれになったコンクリートの床に倒れた。
「……最期に言い残すことはありますか?」
《小さな番犬》が必死に吠える中、凛とした女性の声が耳元で聞こえてきた。
冷たい指で頬を撫でられる感触が伝わる。
重たいまぶたを開けると、緑色の瞳の女性プレイヤーがレキトのそばで座っていた。
穏やかな笑みを浮かべて、慈しむような目でレキトを見ている。
「1つだけ、あります。あなたに、言いたいことが……1つだけ」
「なんでしょう? お仲間のプレイヤーのことですか? 安心してください。彼女もあなたと同じように、私たちギルドのギアとして、共に戦うことをお約束しますよ」
「違い……ますよ。……あなたたちは強すぎて、たぶん気づいてないから……教えてあげようと思ったんです。『ここまで作戦どおり』だってことを」
レキトは微笑み、痙攣している手を動かした。
傍に落ちていた眼鏡をつかんで、自分の顔にかけ直す。
「どうして、ボロボロになることが……作戦どおりなのか? あなたは、疑問に持ってるでしょう。……《小さな番犬》を、活用するためですよ。このギアは、プレイヤーが危険になるほど……鳴き声が大きくなるんです。……だから、鳴き声を大きくするために……俺はゲームオーバー寸前まで……やられる覚悟を決めました」
仰向けに倒れているレキトは顔を横に向けて、コンクリートの床に耳をくっつける。
緑色の瞳の女性プレイヤーと比べて、自分の影が薄くなっているのを確認した。
《小さな番犬》の吠える声の音量が下がる。
赤色のスマートフォンの振動も弱くなった。
「このゲームは、現実で起きることが……そのまま同じように起きます。たとえば、東京でテロを起こせば……消防車や救急車が動きます。……ここまで言えば、《小さな番犬》の鳴き声を、できるだけ大きくした理由は、わかりますよね?──聞こえなくするためですよ、『最強のステージギミック』が来る音を」
レキトは傷だらけのアバターを横向きにした。
風穴の開いた手を床について、激痛を我慢して立ち上がる。
緑色の瞳のプレイヤーはため息をつき、真っ白に光り輝くイヤホンジャックを向けた。
他のプレイヤーたちも対プレイヤー用レーザーを起動して、血塗れになった学ランを彩るように、何十種類ものレーザーポイントが浮かび上がる。
だが、光り輝くイヤホンジャックの銃口を向けられても、《小さな番犬》の鳴き声は大きくならない。
赤色のスマートフォンの振動は弱くなっていく。
この危険察知のギアは、「レキトたちの元へ駆けつけてくるアバターたち」を感知していた。
「動くな! スマホを捨てて、大人しく手を挙げろ!」
出口のドアを突き破り、武装した警察官たちが流れ込んでくる。
総勢30人以上の隊員が拳銃を持ち、教団ギルドのプレイヤーたちの背中に銃口を向けた。
教団ギルドのプレイヤーたちは出口の方を振り返る。
全員の目がレキトから逸れた。
きっと教団ギルドは警察のNPCを脅威だとは思っていないだろう。
死に物狂いで戦っても、レキトが到底及ばなかった実力者たち。
武装した警察官のNPCが相手といえども、3分で全滅させることができるはずだ。
けれども、3分の猶予があれば、レキトたちは教団ギルドから逃げ切ることができる。
レキトは紫藤に目配せして、出口と反対側の窓に向かって走った。
思いきり舌を噛んで、意識が遠のくのを堪えて、残された力を振り絞る。
何人かのプレイヤーたちがレキトを撃とうとすると、「動くなって言ってんだろ!」と警察のNPCは拳銃を撃った。
窓から逃げようとするレキトと紫藤に気づかず、警察のNPCは教団ギルドのプレイヤーたちの挙動だけを注視している。
No.116《我らは世界の端役なり》。
紫藤がチュートリアルを始める前にも使った、NPCから30分間注目されなくなるギア。
警察のNPCたちから逃走することにも応用できる。
意識が朦朧とするのを感じながら、走るレキトは落ちているエナメルバッグを拾った。
窓へ先に辿りついた紫藤は、バイオレット色の光の刃を十字に振って、曇りがかっているガラスを切り裂く。
切り裂かれた窓ガラスは音を立てて砕けて、冷たい外の空気が廃ビルの中へ入ってきた。
「……真に価値のある物は簡単に手に入らない。ここで逃してしまうのは残念ですが、過度な深追いは運気を下げてしまいます。今はまた巡り逢える奇跡を信じて、清く正しく善行を積むしかありませんね」
窓へ逃げるレキトを見つめたまま、緑色の瞳の女性プレイヤーは悲しそうにつぶやいた。
光り輝くイヤホンジャックを後ろに向けて、出口のドアの方へレーザー光線を放った。
残り49人のプレイヤーたちも後に続いて、警察のNPCたちに対プレイヤー用レーザーを撃つ。
警察のNPCたちも拳銃を発砲して、空中でレーザー光線と銃弾が交差する。
レキトは窓まで走り切り、星印のエナメルバッグを肩にかけた。
緑色の瞳の女性プレイヤーと目を合わせて、口元に微笑みを浮かべる。
そして、別れの挨拶代わりに手を挙げて、紫藤と手をつないで7階の高さから飛び降りた。
地球の重力に引きずられて、レキトたちは勢いよく落下していく。
アバターの髪は逆立って、拾ってかけ直したスクエア型眼鏡は顔から飛んでいった。
学ランがアバターに風圧で貼りつく。
傷口から漏れたシアン色の血が宙を舞っていく。
《小さな番犬》は大音量で吠えていた。
赤色のスマートフォンの振動とともに、「DANGER」のポップアップが画面で点滅する。
「……紫藤さん……何やってるんですか⁉︎ ……早く……対プレイヤー用ナイフを壁に突き刺して……落下のスピードを……殺してください!」
「静かにして、レキトくん! 今もっと着地にいいギアを起動するために集中してるから! もうすぐ『支払い画面』だし、操作ミスできないから黙ってて!」
「……支払い……画面? ……なんで時間がないときに……時間のかかることを……するんですか⁉︎」
「あ〜もう! 横からごちゃごちゃ言わない! 危うく手元が狂うとこだったでしょ! もうすぐ決済が終わるから待ってて!」
逆さまに落下しながら、紫藤は片手でスマホ画面を連打している。
暗めのブルージュに染めた髪は波打つように揺れていた。
連打していた指が止まり、切れ長の目を細める。
そして、手帳ケース付きのスマートフォンの画面を、雨で濡れたアスファルトに向けた。
「お願い! 急いで! ──《5秒で配達》!」
『お買い上げありがとうございます。衝撃吸収ウレタンマット10枚、ただいまお手元に転送いたします。またのご購入をお待ち申し上げます』
女性の音声アシスタントらしき声がお礼を言うと、手帳ケース付きのスマートフォンの画面が光り輝く。
次の瞬間、紫藤のスマホ画面から「10枚の巨大なマット」が溢れるように飛び出して、レキトたちの落下地点に積み上がった。
鋭い銃声とレーザーの発射音──教団ギルドとNPCの警察が撃ち合う音が上の方から響いている。
落下するレキトたちが地上へ向かうにつれて、派手な戦闘音は遠ざかっていく。
レキトがスマホ画面を見ると、《小さな番犬》は犬小屋のアイコンの前で大人しく座っていた。
赤色のスマートフォンが振動することはない。
「DANGER」のポップアップも消えている。
──《小さな番犬》はプレイヤーに危険が迫ったときに注意を呼びかけるギア。
──紫藤が救助マットを用意してくれたおかげで、この落下は「危険」と判断されていないらしい。
レキトは一息ついた瞬間、全身から力が抜けるのを感じた。
ギルドから逃げる作戦とはいえ、想定以上にダメージを負ったせいだろう。
傷だらけの学ランは血のシアン色に染まっている。
「……紫藤さん……後は、頼みましたよ。……《リカバリーQ》で、傷を、治してください」
レキトは紫藤に笑いかけて、目をゆっくりと閉じる。
赤色のスマートフォンが手から離れた。
「STAGE CLEAR!!」というテロップが脳裏をよぎる。
意識を失う直前、柔らかいマットがアバターを包んだ。