10話 本物とフェイクの境界線
前回のあらすじ
「紫藤さん、あなたはプレイヤーですよね?」
無数の雨粒が垂直に落下していた。
地面に勢いよく叩きつけられる雨の音は、ありとあらゆる音をかき消していた。
出張帰りらしきサラリーマンがスーツケースを引く音も、濡れた道路を走るタクシーの音も、青信号の誘導音も、何もかも。
紫藤はきょとんとした顔をした後、口元に手を当てて笑いはじめた。
「ふふっ、急に変なこと言わないでよ。私がプレイヤーだなんて。色々と親切に教えてあげたのに、そんなわけないでしょ?」
「じゃあ、俺の名前を言ってもらっていいですか? チュートリアルの最中、あなたが一度も呼んでない名前を。本当に運営なら、担当するプレイヤーの名前は当然知ってますよね?」
「もちろん。知ってるに決まってるじゃない。──君の名前は『神崎ヨシフミ』でしょ?」
「全然違います。遊津暦斗です。……勘で当たる確率は低いのに、よく当てる気になりましたね」
水色の傘の下、レキトたちの頭上で、雨粒の弾かれる音が響きわたっていた。
濡れた路面が冷たくなったせいか、気温が少しずつ低くなっているのを感じる。
紫藤はため息をつき、スーツの襟に着けていた「赤い地球」のロゴバッジを外した。
「あ~あ、チュートリアルの演技、けっこう練習したんだけどな~。せっかくそれっぽいギアも持ってたのに。やっぱり君は察しがいいね、レキトくん」
赤い地球のロゴバッジを放り捨てたとき、紫藤の顔から笑みが消えた。
切れ長の目は据わっていた。
喉元に刃物を突き付けられるような殺気。
華奢な手は手帳型のスマートフォンを握っている。
「……すみません、紫藤さん。1つだけ質問してもいいですか?」
「えっ、自分でチュートリアルを終わらせといて、まだ質問するの? これから戦う相手に何を訊くつもり?」
「あなたがチュートリアルしてくれた理由です。正直言って、俺のコインを奪いたいなら、演技で騙すより、《対プレイヤー用ナイフ》で刺し殺したほうが早かったですよね?」
レキトは紫藤と出会ったときのことを思い出す。
NPCかプレイヤーかを見分けられない通行人たちに戸惑い、雨の中で傘も差さずに動けなかったゲームスタート直後。
後ろからナイフで襲いかかれば、レキトの不意を突くことはできたはずだった。
なぜ親切なチュートリアルを装って、標的であるレキトにギアの使い方などを教えてくれたのか?
紫藤の正体はすぐ見抜くことができても、彼女がチュートリアルを演じていた理由はわからなかった。
「なんだ、そういうことか。大した理由じゃないよ。戦わずにコインを奪えたらいいなって思っただけ。別に無理ってわけじゃないんだけど、普通に血とかあんまり見たくないでしょ?」
紫藤は軽い口調で答えて、スマートフォンの角でこめかみをトントンと叩いた。
レキトの質問に答えるときの態度は、チュートリアルの演技をしていた頃と変わらなかった。
絶えず降り続ける雨音のBGMを聞きながら、レキトはズボンのポケットの中で「ギンガムチェックのハンカチ」の冷たさを感じる。
チュートリアルが始まるとき、紫藤からもらったプレゼント。
これで髪や首についた水滴を拭ったおかげか、雨に濡れていたときの寒気を感じなかった。
── じゃあ、最後に、ゲーム開始から使えるギアの1つ、《対プレイヤー用ナイフ》を使ってみよっか。
──実はこのギアは初心者がより簡単に使えるように、『ホームボタンの長押し』で起動できるんだよ。
紫藤のチュートリアルは偽物だ。
その正体はプレイヤーで、レキトのコインを奪うことを目的としている。
レキトにとって、「敵」であることは間違いない。
しかし、プレイ前に詳細は明かされなかった『ギア』について、紫藤は簡潔にわかりやすく説明してくれた。
身振り手振りを交えたり、実際にスマートフォンの画面を見せたりして、初心者でも理解できるように説明の仕方を工夫していた。
そして、紫藤はギアを説明するとき、嘘をついたようには見えなかった。
おそらく彼女はレキトにチュートリアルだと信じ込ませるために、実際のギアの設定を偽りなく教えてくれたのだろう。
もし偽物のチュートリアルであったとしても、プレイヤーに説明したことが正しいのなら、その人は本物のチュートリアルと変わらないのではないだろうか?
何をもって「フェイク」と判断し、何をもって「本物」と判断するのか。
頭の中で浮かんだ疑問に、レキトは答えを出すことができなかった。
「ねえレキトくん、私のこと勘違いしてたでしょ? 私がチュートリアルをしたのは、『ゲームを始めたばかりの君を狙うことに罪悪感があったから』とかさ。だから、私の正体を見破ってても、君は演技中の私を攻撃できなかった。人生を賭けたゲームなのに、戦う相手に甘さを捨てることができなかった」
紫藤はくすっと笑う。
傘を持つ彼女の手は笑ったときの振動で震えて、水色の傘に貼りついていた雨粒がパラパラと落ちた。
雨水が数ミリほど溜まった地面に、一斉に落ちた雨粒の描いた波紋が重なり合う。
重なり合った波紋は一瞬で消える。
「……何を勘違いしてるんですか? 俺が先に仕掛けなかったのは、あなたと対等な条件で戦うためです。良心が痛んだとか、そんな理由じゃありませんよ」
「はあ、素晴らしいフェアプレイ精神ね。君がチュートリアル中に不意打ちしてれば、私を倒せたかもしれないのに」
「ええ、楽に倒せたでしょう。けど、あなたにそれで勝ったところで、プレイヤーとしては何も成長しません。明日生き残るためにも、このゲームを終わらせるためにも、俺は強くならなければいけないんです」
『Fake Earth』に参加している20万人以上のプレイヤーたち。
彼らの中には大所帯のギルドの頂点に立つ者もいれば、1人で何年もプレイしつづけている猛者もいるだろう。
そして、この世界の管理者である「ゲームマスター」。
全プレイヤーが倒せていないラスボスは、並大抵の強さでは絶対に勝てないはずだ。
「だから、俺は演技中のあなたを攻撃しませんでした。今ここで『戦いの経験値』を稼ぐために。万全の状態のあなたを倒してこそ勝つ意味があるんですよ、紫藤さん」
レキトは学ランの胸ポケットからスマートフォンを取りだす。
真っ赤なケースの付いたスマートフォンは、アバターの手によく馴染んだ。
雨の勢いが増していく。地面を叩く雨粒の音がうるさくなる。
紫藤は片方の眉を上げて、挑戦的な眼差しを向けていた。
「ふーん、私に勝つ気でいるんだ。この世界に来たばかりの初心者のくせに、ちょっと生意気じゃない」
「格上の相手であることは十分にわかってますよ。ただ、勝てる可能性はそんなに低くないとも思っています」
「へぇ、どうして?」
「本当に実力のあるプレイヤーなら、初心者狩りなんてしないからですよ。初心者は倒したところでコイン1枚。強いプレイヤーを倒せば、その人が集めてたコインをまとめてもらえるんですから、どちらが得かは明白です。──あなたが初心者のコインを狙うのは、初心者以外のプレイヤーに勝てないからでしょう?」
レキトは微笑み、星印のついたエナメルバッグを肩から下ろす。
紫藤も口元に笑みを浮かべて、ハイヒールの踵をコツンと鳴らした。
東京駅の前、水色の傘の下。
レキトと紫藤はお互いの目を見つめる。
半径1メートルにも満たない空間。どちらの攻撃も確実に当たる間合い。
激しく火花が散っているように、雨粒が傘を叩く音がバチバチと響いている。
紫藤が傘を真上へ軽やかに投げた瞬間、素早く浮かせた右足をレキトの足に向かって踏み下ろした。
尖った踵がVANSのスニーカーへ一気に迫る。
レキトは全速力で後ろに跳んで、紫藤のハイヒールを間一髪で避けた。
尖った踵は水たまりに衝突して、勢いよく水しぶきが飛び散る。
視線と視線がぶつかり合った。
紫藤は片手を上げて、宙に投げた傘をキャッチした。
雨を浴びているレキトは、肩にかけていたエナメルバッグを外す。
──目の前の女性型アバターは「紫藤ライ」。
──この世界で最初にエンカウントしたプレイヤーだ。
負ければ人生が終わる戦いに、レキトは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
緊張なのか、それとも高揚感なのかはわからない。
戦闘BGMともいえる雨音が激しくなっていく中、「RPGのコマンド画面」が頭の中で表示される。
▼たたかう
▼にげる
▼ぼうぎょ
▼どうぐ
レキトは「たたかう」を選び、紫藤に向かってエナメルバッグを振り上げた。