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主人に教わった住所を訪れた。立派なアパートの最上階、五階だった。建物は非常に日当たり良好な広い道路に面している。多分、私の事務所の家賃では、駐車場一つ借りるのがやっとだろう。
彼女の部屋のドアはメイヤ君がノックした。覗き窓からじとっとした視線が寄越されているのがわかる。例によってメイヤ君が「マオ探偵事務所の者でーす」と明るく名乗ったのだが、警戒心が薄れる様子はない。しかし私が、「お父上から連絡を受けたはずですが」と言うと、ドアを開けてもらうことができた。
玄関で靴を脱いで部屋に上がった。リビングの白い絨毯はふかふかである。シャンデリアも大きい。なんとも豪奢だ。キラキラとした装飾が施されている。アンティーク調の壁掛け時計も丁寧に時を刻んでいる感がある。
『フグ屋』の娘は静かにソファの上に座った。白いワンピース姿。髪は茶色がかっていて、小さな唇には気品を感じる。彼女は右手を前に差し出した。
「どうぞ、どこにでもお座りになってください」
「いえ」と私はその勧めを断った。「長居をするつもりはありませんので、立ったままで失礼します。いきなりの質問で申し訳ありませんが、警察は貴女を訪ねてきましたか?」
「いいえ」
「なるほど。やはりそうですか」」
「どういうことでしょう?」
「ハンさんは自らの過失だと謳っている。警察からすればそれでいいんですよ。この街の警察は基本的に怠惰な組織です。『真相』を突き止めるより先に、とにかく目の前の案件をさっさとクロージングしてしまいたいんです。まあ、警察官全員が不真面目だとまでは言いませんがね」
「私の父は、どうやらハンが過失を犯したとは考えていないようですね」
「その旨は、先刻、お父上自身の口から伺いました。板前としてのハンさんの腕を信頼している。そうおっしゃられていました。だからこそ、父上は真相を究明したがっておられる」
「父はどうして真相を知りたいと考えるのでしょうか?」
「お父上が優しいからだと考えます。違いますか?」
「……探偵様は、警察は過失で決め込むつもりだとおっしゃいましたね?」
「ええ。過失程度の事案であれば警察はまともに相手すらしないだろうとも言ったつもりです」
「仮に過失として処理されるのであれば、ハンの量刑はどのようなものになるのですか?」
「金さえ払えば釈放されます」
「そうなんですか?」
「ええ。とはいえ、お父上から真相の究明をご依頼いただいた以上、それを成し、また、その結果をクライアントに報告する義務がある」
「……お話ししたほうがよろしいですか?」
「お嫌ですか?」
「気が……進みません」
「それはなぜ? だなんて尋ねるのは野暮ですね」
「探偵様には『真相』が見えているんですか?」
「そこまでは言いません。ですが、推測を述べるだけなら簡単です」
私はあごに手をやり、部屋の中を練り歩く。
「貴女はお美しい。ひとたび街を歩けば誰もが貴女のほうを振り返ることでしょう。だから例えば、しょうもないヤクザにいつかどこかで目を付けられたのではありませんか? 生憎、その男は実にタチの人物だった。俺の女房になれ。執拗にそう迫られた。だが、貴女にはフィアンセがいる。何を隠そう、それはハンさんです。貴女はきちんとそうお答えになられた。だがその男は引き下がろうとはしなかった。それを受け、貴女はそのあたりの事情をハンさんにお話しになられた。そこでハンさんが思いつかれたのが、フグによる毒殺です。彼は男を店に連れてくるようにと貴女に話した。そして『こと』は実行に移された」
私は足を止め、『フグ屋』の娘を見た。うつむいていた彼女は顔を上げた。私の視線に視線を絡ませる。
「あまり恐い顔をなさらないでくださいと言いたいところですが、話を続けます。『こと』は首尾良く運んだ。だが、殺したあとには問題が生じることになる。実際に男は毒で死んだわけですから、フグを出したハンさんはどうあれ罪に問われることになる。結果、過失致死罪という格好で、ハンさんはしょっぴかれる運びとなった」
娘はふーっと深い吐息をついた。それから小さくかぶりを振った。彼女の左のほおには涙が伝った。
「『こと』は図らずともあっけなく露見するものなのですね」
「実際のところ、貴女とくだんの男性との関わりは、一体、どういうものだったんですか?」
「肉体関係にありました。俺が一声かければおまえの店なんて簡単に潰すことができる。男にそう脅迫されていたんです。はったりかそうではないのかはわかりませんけれど」
「はったりだと断定できない以上、貴女は従わざるを得なかった」
「その通りです」
「脅迫されている。その話は警察に持ち込まれたのですね?」
「はい。ですけど、まともには取り合ってもらえませんでした」
「繰り返しになりますが、真面目ではないのが、この街の警察官ですからね。加えてヤクザに付け狙われているようだと話せば、ますます相手にしてもらえない。警察とヤクザは癒着していますから」
「癒着……?」
「ええ。警察なんてアテになりませんよ」
「そうなんですか……」
「自分から貴女を奪った男性をハンさんは憎んだ。そして、当然、その男性にもハンさんから貴女を奪ったという自覚があった。その構図は非常にわかりやすい」
「ええ。阿呆にでも理解できるはずです」
「だったら、なんらかのかたちで、男はハンさんから復讐されてもおかしくはない」
「そこまで考えてはいなかっただろうということです」
「まさかフグの毒で殺されるとは思っていなかった?」
「そうなります。彼は調理場に立っているハンのことを馬鹿にしました。女を奪われた間抜けだと言って、はしゃいだ様子で馬鹿にしました」
「それは伺いました。カイという名の板前から」
「その瞬間、私の怒りは頂点に達しました。到底ゆるすことはできない。そう思ったんです。私はそれくらいハンのことを……」
「愛していらっしゃるんですね?」
「はい……」
「つまるところ、阿呆が一人死んだ。それだけの事案ですね」
「探偵様は、わたしとハンの気持ちを汲んでくださるのですか?」
「そういうことになりますね。それで、ハンさんとは事前にどのような打ち合わせを?」
「自分にすべて任せてくれ。ハンはそう言いました。それはもう、頼もしく映ったものです」
「やはり、ハンさんは潔癖であるようだ」
「そうです。だから」
「過失ではない。明確な殺意があった。近いうちに警察にそう告げるつもりだと彼は言い出した」
「はい。私はそれはやめてほしいと面会の席で言いました。刑期が伸びるような真似はやめてほしい。そう訴えました」
「であれば、私の考えをそのまま彼に伝えてもらいたい」
「なんと言えばいいんですか?」
「先に述べた通りです。過失で押し通すように言ってあげてください。そうすれば、警察に金さえ握らせば釈放されます。ハッピー・エンドというヤツですよ。それこそ阿呆が一人死んだというだけです。その阿呆の手によって、あなた方の幸せが阻害されるようなことがあってはならない。貴女にもハンさんにも健やかなる未来を歩んでいただきたい。私はそう考えます」
「……わかりません」
「何がです?」
「探偵様がどうしてそこまで優しい言葉をかけてくださるのか、その理由がまるでわかりません……」
「私はごく当たり前の一般論を申し上げているつもりですよ。他意などない」
「本当に、警察にお金さえお支払いすれば、ハンはすぐにでも帰ってくるんですね?」
「帰ってきますよ。釈放されないようであれば、また私に、一声、おかけください。知り合いの警察官も少なからずいますので。上手いこと、取り計らって見せますよ」
「……すみません。そして、ありがとうございます」
「礼など必要ありません。私は私の仕事をしただけですから」