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壊れた世界  作者: 葛城獅朗
18/18

お姫様

どうしてもこっちの主人公の続きを書きたくなってしまい、一度完結済みにした作品に続けて投稿することにしました。

主人公の周りの人間視点から始まるので、前回までと違い一人称ではありません。

気長にお付き合いいただけると幸いです。

 美優は処理しきれない怒りに、体がカーッと熱くなるのを感じた。瞬間湯沸かし器のように高ぶる感情のまま、考えるより先に跳びはね、硬い床を蹴る。だん! だん! だん! と、人によっては耳障りな音が響いた。真新しくピカピカつるつるの床。その劣化を足裏で早めることにより、少し怒りが発散できた気がした。

「まぁーまぁーーーー!」

 幼い子ども特有の、キンと耳を刺す叫び声。子どもは無意識のうちに、こういう声が親の注意をひくことを知っている。案の定、もう一度ボリュームアップした声で叫ぶと、大好きな母がしかめた顔をのぞかせた。

「もう、なぁに、美優」

 台所で荷解きをしていたのだろう、手にお玉を持ったままだ。幼い美優には、それも気に食わない。自分よりも荷物のほうが大事と言われているようだ。

「お腹すいたぁ!」

 ヒートアップする怒りのまま、美優は要求をぶつける。


 美優が最優先でしょ、ママ。美優はお腹が空いてて、早くご飯が必要なんだよ。


 さっきの一言に、そんな思いが乗っているのを母は分かってくれるはず。そして甘く手厚い対応が返ってくるはず。そんなことを期待した叫びだった。

 だが母は美優の怒りや要求を正しく理解できず、きょとんとしてしまう。

「えぇ、だから、サンドイッチあるって言ったでしょー?」

 期待した答えが返ってこなかった美優は、ますます体が沸騰した。人間の言葉になる前の、拒絶の叫びが空間を切り裂いて、小さな足は再び廊下を痛めつける。

「あの、かわいいレストランで食べるって言ったぁ!」

 美優は大好きな母であろうと、不義理を許すつもりはない。わずか5歳の心にそんな余裕はないのだ。約束したのに、期待させたのに。いつでも食べられるコンビニのサンドイッチなんかで穴埋めできるはずがない。

 だが母は幼子の叫びに再び顔をしかめて、先ほど美優に絶望を味わわせた言葉を繰り返した。

「だから、この荷物を片付けないと行けないのよ。今日から生活できないと困るでしょう? 荷物をどかさないと、美優のりんごジュースを冷蔵庫に入れることもできないし、お布団しいて寝ることもできないのよ?」

 母の口調は優しいが、今の美優にはたった一言でも攻撃だ。

 生活できないなんて知らない、美優には関係ない。でも美優のりんごジュースがしまえなくなるのは嫌だし、寝られなくなるのも許せない。

 絶望の未来を提示された美優は再び叫んだ。怒りと悲しみと拒絶感で、頭も体もぐちゃぐちゃ。涙があふれてきて、美優の最大の敵となった母の姿もよく見えない。それでも嫌だと叫び続けて、母が再び味方になってくれるのを待った。ありったけの力を込めて、可能な限り耳障りになるように、言葉にならない言葉をキーキー叫び続ける。母が何かを言いかけるたび、さらに声を高くして遮り続けた。

 しかし、母はさらに絶望へ突き落とす言葉を放つ。

「じゃあ、もう何も食べなくていい!」

 美優は、自身の幼い叫びに勝る声量で言い渡された母の言葉を、一瞬理解できずピタリと黙った。目を凝らした先には般若のような母の顔。いつもニコニコ穏やかな母とは真逆の表情。

 美優は、やりすぎた、と本能で悟った。もうちょっと手前で止まっていれば、母も約束を破った罪悪感だけを持っていたはずなのに。でももうやり直せない。それに、美優も今さら引き下がる気はなかった。

 母はずんずんと美優のもとへと歩いてきて、先ほど渡したサンドイッチの袋を乱暴につかむ。そのまま美優には目もくれず去って行こうとするので、美優はまとわりつくように泣き叫んだ。先に裏切ったのはそっちでしょ、と抗議するかのように、できるだけ哀れに聞こえるように。それは母が完全に姿を消した後も、気が収まるまで続けた。

 そうして喉の痛みを覚え始めたとき、美優は母が戻ってこないことを悟って、徐々に声のボリュームを落とし始める。大声を出し続けたおかげで、怒りの衝動が収まってきた。もちろん、不義理を許したわけではないが。それでも少し冴えてきた頭で、次はどう行動すべきか考え始めた。


 もっと、ママをこらしめる方法を考えなくちゃ。


 幼い心は諦めることを知らない。あくまでも約束を破った母が悪いのだ。なのに美優の希望が打ち砕かれるなんて、絶対にあってはならない。

 そして、大人に理解できない回路で動く頭は、一つの答えをはじき出した。数分前に泣きながら投げ出した体をむくりと起こし、真新しい玄関でお気に入りの靴を履く。そのまま、昨日の夜に初めてくぐった新居のドアを押し開けた。新しいおうちにはお庭がつくよ、と母が話してくれた通り、短い玄関アプローチの左右にはオモチャのように青々とした芝生が広がる。美優は素直にそれをステキだと思った。

 でも、ここに留まってはいられない。

 美優は右も左もわからない新天地を、幼い足で駆けだした。




 美優の心は、早々に後悔に塗りつぶされていた。

「まぁーーーーーまぁーーーーーーーー!」

 先ほど母と喧嘩をしたときと同じ言葉を、先ほどよりも大粒の涙をこぼしながら叫ぶ。美優がいなくなれば母は焦る、そしたらちょっとはこらしめられると思ったのに、結局はその母に助けを求めてしまっていた。

 美優の四方は、深い木々のみ。下は整えられていない土と草。少し前まで広がっていた光景とあまりに違った。美優の新しい家は新興住宅地の中の一軒で、外に出た後もしばらくは同じような造りの家が続いている。美優は自分の家がわからなくなる不安を覚えつつも、両親に見つからないよう家々の間を走っていた。なのに。

 ふと気がつくと、ここにいた。家なんて何もない、深い森の中。

 美優は頭が真っ白になり、一瞬硬直したのち、パニックに陥った。とにかくここから逃れたくて、必死に母を呼びながら歩き続ける。同じ方向に歩き続けて、木々が途切れないと悟れば、別の方向へと歩みを進めた。それが遭難時の悪手だということも、少女にはわからない。


 それにどのみち、この森に迷い込んだ時点で、美優は自力で出られないことが確定していた。


「まぁ~まぁぁ~~~」

 美優の声に元気がなくなっていく。ぐんぐん成長する時期に昼食をとらず、歩き叫び続けたらエネルギー切れを起こすのは当然だろう。無視できない疲労が幼い体に回り、とうとう美優は歩みを止めた。たくましい木に手をついて、そのままズルズルと座り込んでしまう。


 疲れた、お腹すいた、眠りたい。

 怖い、帰りたい、ママに会いたい。


 負の感情にぐるぐると支配され、押しつぶされそうだった。心と体がバラバラにならないように、美優は膝を抱えてぎゅっと小さくなる。暗い森から逃避するために、両膝に顔を埋め目を閉じた。

 そうして殻に閉じこもって、どのくらい経っただろう。ふいに近くの茂みでガサッと音がして、驚いた美優は顔を上げた。音の方角に目をやると、風のいたずらとは思えない草の揺らめきが目に入る。ガサ、ガサ、と断続的に音を立てるそれを、美優は恐怖で硬直しながら見つめた。ここで何かに襲われても、きっと逃げ切れない。そんな絶望が重くのしかかる。そして、まばたきもせず見つめる先に白い何かが姿を現したとき、美優の心臓は短い人生の中で最大に跳ね上がった。

 しかし、白い物体が何なのかを認識したとたん、美優の心臓は別の意味で再度跳ね上がる。これは「きゅん」だ。

「………うさちゃん?」

 美優はふわふわの耳を持つそれを、ささやくように呼ぶ。実物を見るのは初めてだったが、可愛いものが大好きな美優はうさぎモチーフの小物やシールをたくさん持っていた。だからこの心を震わす可愛い生き物は、間違いなくうさぎだ。美優はすぐにそう判断し、今の状況も忘れてワクワクしながら近づいた。

 うさぎは小さな鼻をふんふんと動かしながら、地面の何かが気になるのか匂いを嗅いでいる。美優がそろりそろりと近くまで寄ると、真っ白な顔を上げ、つぶらな赤い目で美優を見つめた。

「うさちゃん、うさちゃん」

 暗い森の中に現れた真っ白なうさぎは、美優にとって希望の光のように思えた。可愛い存在に心がいくらか救われた美優は、そっとうさぎに手のひらを差し出す。うさぎは美優の指先をふんふんと嗅いで、きょとんとした顔で見つめ返した。美優はその可愛い仕草に、数時間ぶりの笑顔を作る。逃げない様子のうさぎに欲が出た美優は、さらに両手を伸ばし、白いふわふわを抱き上げようとその体をつかんだ。うさぎはまっすぐに美優を見つめ返して、ヒゲをぴこっと揺らす。そして、


「つーーかまーーーえたーーーーーー」


 少年のような声で喋った。抑揚も何もないのに、遊び歌のようにリズムをつけられた言葉。無駄に声量があるせいで、美優はその不気味な現象を体いっぱいに浴びてしまった。再び思考が止まった美優の顔から笑みが失せる。しかし、不気味な現象は硬直する美優を待ってはくれなかった。うさぎの胴体をつかんだ美優の両手が、急にふくらんだふわふわの毛によって包まれる。包まれるというと聞こえはいいが、密集した綿状のそれは縄のようにきつく少女の手に食い込んだ。縛られて動けなくなった美優の喉から、ひゅっと声にならない音がこぼれる。その間にもふわふわは膨張をし続け、美優の腕に、肩に、首にからみついた。

「ママ、」

 絞りだした声は、口まで及んだ毛によって封じられた。空気を取り込むことさえできなくなった小さな体全体に、絶望と恐怖が駆け巡る。今日は怖い思いを何回もしてきたけど、希望を失わないよう、子どもながらになんとか堪えてきた。でも、死に直面している今、もう希望なんて持つことはできない。美優は口を封じられながらも、生涯最後になるであろう叫び声をあげた。

 数秒で肺に残った空気をすべて使い果たし、力が出せなくなった小さな体。白い毛にぎゅうぎゅうと体中を締め上げられながらも、残った耳はまだ外界の音を拾っていた。そして、酸素の供給がなくなり、ぼんやりとした意識の中で、美優は異質な音を拾い上げる。強く凛として、まっすぐ響く獣の鳴き声。


 うぉぉ――ぉぉ―――ぉおん


 どこか遠い遠い場所から発せられたそれは、いつかアニメで聞いた狼の遠吠えにそっくりだった。

 直後、ふわりと体が軽くなったかと思ったら、白い拘束が急に美優の体を離れる。あまりの勢いに体を引き倒されながら、美優は流れ込んできた空気に苦しみむせた。地面に転がって必死に酸素を吸う。やがて呼吸が落ちついたタイミングで、おそるおそるうさぎがいた方向を見ると、最初からいなかったかのように消えていた。

 恐怖が去ったことを確信した美優は安堵と、いまだ全身に残る恐怖で涙腺が決壊する。叫びに近い泣き声を上げながら、めちゃくちゃな感情を吐き出すように涙をこぼした。もう何度も泣き、叫んだ喉はボロボロで、息を吸うたびヒリヒリ痛む。何粒も涙を流した目も同様で、腫れぼったくシクシク痛んだ。それでも干上がることを知らない泉のように、次から次へとあふれる涙を止められない。

 ママの言うとおりにしていればよかった、と美優は何度目かわからない後悔に苛まれた。おとなしくサンドイッチを食べていれば、きっと違う日にレストランに連れて行ってくれただろう。引越しのお手伝いをしたら、もしかして夜ごはんに連れて行ってくれたかもしれない。たとえ妥協できなかったとしても、黙って家を出るなんてことをしなければ。考えれば考えるほど、間違った選択をした自分を恨み、そしてこの先の運命に怯え、泣けて仕方なかった。

 そうして荒ぶった感情に任せて涙を流し続けていると、どうしようもない疲労感に襲われて、泣くことすらできなくなる。しゃくりあげるだけになった美優は、地面にうつぶせに倒れたまま、ぼんやりと顔だけ上げた。涙の膜で歪んだ視界には、相変わらず暗い森が広がる。そのはずだった。

 美優の目に映ったのは、鮮やかなオレンジ色。ぼやけた視界でも、その輪郭で動物であることがわかった。

「いやーーーーー!」

 美優は先ほどのうさぎを思い出して絶叫し、逃げようとするが足に力が入らなかった。それでも必死に距離を取ろうと、お尻を地面につけながらズリズリと後退する。いつもは絶対に汚さないよう気をつけるお気に入りのスカートが、土まみれになることも気にしていられなかった。

 今はとにかく生きたい。帰りたい。なのに立ち上がって逃げることすらできない。美優はどうしていいかわからず、オレンジの生き物が近づかないように、前方に向かって手をめちゃくちゃに振り回した。自分の死を再び直視するのはもう耐えられないため、目はぎゅうっと瞑ったまま、涙は頬に流れるままにする。

 しかし、しばらく泣いて暴れても、オレンジのからの攻撃はなかった。美優は前方に手を突き出したまま、おそるおそる目を開く。変わらず視界は歪んだままだが、オレンジが先ほどの位置から動いていないのはわかった。前に突き出した手もゆっくりと下ろし、美優は目をごしごし擦って、涙の膜を取り払う。

 クリアになった視界に映ったのは、ふさふさとしたオレンジの毛を持つ猫だった。伏せをしている状態のため、長い毛が地面についているが気にした様子はない。穏やかに目をつむった顔はご機嫌そうで、ふたまたに分かれた長い尻尾も、リズムをとるようにふらふらと揺れていた。

「………猫ちゃん、襲ってこないの?」

 暗い森に不釣り合いなほどリラックスしている猫に、美優は聞いてみる。猫はそれに応えるように、ゆっくりと目を開けた。キラキラと輝く黄金の瞳。オレンジの毛も相まって、太陽の精みたいな猫だった。

「にゃーん」

 猫は笑っているような顔で美優に返事をすると、のそりと立ち上がる。美優は一瞬身構えたが、猫は気にせず伸びをして、前足をぺろぺろと舐め始めた。そのまましばらく、マイペースに毛づくろいをし続ける。美優は襲い掛かってくる様子のない猫にすっかり毒気を抜かれて、可愛らしい動きをじっと見つめた。

 やがて唐突に毛づくろいを止めた猫は、再び美優に向かって「にゃーん」と鳴く。そして美優の反応を待たずに、くるりと踵を返して歩き始めた。

「あ、猫ちゃん」

 いまだ猫への警戒を完全に解けきれない美優だったが、どこかほっとする存在の猫が去ってしまうことに焦りを覚え、思わず呼び止める。猫は理解したようにピタリと止まって振り向き、可愛い顔でまた「にゃーん」と鳴いた。美優は直感で、猫が自分のことを呼んでいると理解したが、ためらう心が足をその場にとどめさせる。だって、うさぎとは違う手で、この猫も美優のことを襲うかもしれない。しかし、迷う心中を知ってか知らずか、猫は再びとことこと歩いていってしまった。

 せっかく出会えた、一筋の光を見失うほうが怖い。美優はまた一人ぼっちになる恐怖から逃れるため、猫に未来を賭けることにした。




 猫はときどき美優を振り返り、ついて来ているかを確認しながら進む。少し離れてしまった時は、ちょこんとお座りをして美優を待ってくれていた。散々な目にあってきた美優にとっては、優しさともとれるその行動が嬉しかった。この優しい猫なら、美優を家に帰してくれるかもしれない。一緒に歩くごとに期待が大きくなっていった。絶対に見失わないように、猫を視界の真ん中にとらえながら、疲労のたまる足を動かし続ける。

 そうして足元の猫に注目していたから、暗い森が突然途切れて真っ白な日差しに包まれたとき、美優は驚きに足を止めた。光に慣れない目をすがめながら、それでもオレンジの猫を見失わないように先を見据える。オレンジの影はどうやらお座りをして美優を待っているようだったので、ひとまず安堵し、わずかに慣れた目で周囲を見渡した。

 背後には先ほどまで迷っていた暗い森、そして目の前には高い塀。レンガが積まれてできたそれは、美優が首をめいっぱい上に動かして、やっと終わりが見えるくらいに高かった。まるで何かを閉じ込めるために高くしたかのようで、美優はぶるりと震える。怪物の牢屋のような不気味さ。美優は短時間に恐怖を感じすぎたせいで、すぐに悪いイメージをしてしまうようになった頭をぶんぶんと振った。それでも四方を木々に囲まれているよりは、人工物の中にいたほうがいいに決まっている。だってきっと、ここには人がいるんだろうから。

「にゃーん」

 美優が塀を観察している間に、オレンジの猫は塀に沿って左へと移動していた。美優は慌てて猫の後を追う。美優が動き出したのを見て、猫も二つの尻尾をゆらゆらとさせながら歩き始めた。

「まだ行くの、猫ちゃん」

 ここからさらに歩くとなると、足が限界に達するかもしれない。美優は足の痛みに顔をゆがませながら、猫の案内人に聞いた。猫はそれに応えるように再び「にゃーん」と鳴いたが、相変わらず、美優の苦痛は気にしていないようなご機嫌顔だ。美優は大人に愛され、それなりに甘やかされて育っているので、疲れたら母や父におんぶしてもらうのが当然だった。それを猫に求めても仕方ないが、ニコニコした顔で軽やかに歩いているオレンジを見ると、もっと気にかけてくれてもいいのに、という不満は感じる。幼女特有の丸い頬をさらに膨らませ、美優は「猫ちゃん待って」と声をかけながら足を動かした。

 しかし、猫の道案内は唐突に終わる。先ほどから猫がずっとお座りをして待っているな、と気になったと同時に、美優は猫のいる場所が塀ではなく門になっていることに気づいた。わずかに残っていた希望が一気に胸の中で満開になり、足の痛みも気にせず猫のもとへと駆け寄る。

 たどり着いた門は黒々とした鉄製の棒を組み合わせて作られた西洋風のもので、優美な装飾が施されていた。しかし、高さも幅も大人一人分ほどしかなく、立派な塀に比べては簡素に感じてしまう。正門というよりは裏門のようだ。棒と棒の間から、門の向こう側が見える。美優は棒をつかんで門に顔をぴったり付け、中をよく見ようと目を凝らした。こちら側と変わらず草や木が生えているが、キレイに整えられている感じがする。草は美優の新居の芝くらいに刈られているし、今まで迷っていた森ほど荒々しく茂った木も見当たらなかった。

 そうして向こう側の景色に集中していると、門が揺れて頭上で「カシャ」と金属音が鳴る。見上げるとオレンジの猫が地面から門の上に飛び乗ったようで、細い鉄の上でバランスよく立っていた。毛をなびかせながら、次の瞬間には門の向こう側へと軽やかに着地する。美優も猫に続こうと門を揺さぶったが、ガシャガシャと不快な音がするだけで開かなかった。押しても引いてもびくともしない。

「にゃーん」

 猫が門の向こう側から美優を呼ぶように鳴いた。美優は困り果てて「ここ開かないよ」と猫に助けを求めたが、猫はご機嫌な顔をしたまま再びにゃーん、と鳴く。そしてくるりと踵を返してしまった。そのまま、小さな足でとことこと奥へ進んでしまう。

「待って! 猫ちゃん!」

 美優はあわてて呼び止めたが、猫は立ち止まることなく、ずんずん遠ざかっていき、そのうち木の裏側へ回って視界から消えてしまった。

「猫ちゃん!!!」

 美優は唯一の希望がなくなってしまうことに焦り、絶叫した。痛む喉から発する声はすでに掠れていたが、遠くまで響くように力の限り叫ぶ。棒の隙間から短い腕を伸ばして、無理なのは分かっていても猫を捕らえようと空を掻いた。しかし、オレンジが戻る様子はない。やがて美優は叫べなくなり、涙声で「猫ちゃぁん………」と力なく呼んだ。再び誰もいなくなった現実から目を背けたくて、美優は唇をかみしめながら俯く。

 しかし直後、美優は地面に顔面を強打した。特に鼻へ強い衝撃を受け、「へぶっ」と可愛くない声が漏れる。美優は予想外の衝撃に驚いて動けなくなり、しばらくうつぶせに倒れたまま、痛みに涙をこぼした。だが痛みが治まってくると、なぜ派手に転んだのか疑問に思えてくる。目をこすりながらノロノロと体を起こすと、自分が手をついている地面が、低く刈られた草地であることに気がついた。門の内側に見えたその光景に、美優は弾かれたように顔を上げ、周囲を見渡す。

 美優はいつのまにか、門の内側に転がっていた。あれだけ揺さぶってもびくともしなかった鉄の門は、美優と同じく敷地の内側におとなしく開かれている。美優は門の棒をしっかり掴んでいたから、勢いよく開いた門にそのまま引っ張られたのだろう。

 だが、踏ん張ることもできず無様に転がった原因は、門のせいだけではなかったようだ。門の横には、恐ろしい勢いで門を開けたであろう張本人がたたずんでいる。美優は久方ぶりに見る人間に安堵と喜びが抑えられず、喜色満面でその人を見上げた。そしてそのまま、驚きが体を突き抜けて固まる。


 ――――――――お姫様だ。


 見上げた先にいたのは、美優と同じ年頃の少女。でも、今まで出会ったお友達の誰よりも、美しい顔をしていた。まるで、以前父の会社の人に見せてもらった、外国製のお人形のよう。腰まで伸ばした髪や、顔に影を落とす長い睫毛、その下にある瞳は柔らかな茶色をしている。こちらは、母がよく飲んでいるミルクティーのようだ。髪や瞳の色が黒くない子は、同じ幼稚園にもいた。だが、この少女がまとう色はどこか「異質」で、幼稚園のお友達とは違うものだと感じる。

 そしてこの少女が着ているものも、美優の目を引いた。春らしいピンクのレースとリボンがあしらわれたワンピース。可愛いもの、キレイなものが好きな女児なら大好きなアイテムだが、決してゴテゴテと飾られているわけではない。上品で洗練された、完璧な形と配置で主の美しさを引き立てていた。一目で普段着ではないとわかるそれを、美優は着たことがないし実際に見たこともない。いったいどこで売っているのかも見当がつかなかった。

 この少女が持つ色も顔も洋服も、美優の目には何もかもが特別に映る。どこか別の世界のような………そう、某アニメのプリンセスたちと同じだ。他の誰よりも美しく描かれる彼女たちは、うっとりするような素敵な服を着て、動物たちと楽しく暮らしている。先ほど消えたオレンジの猫が少女の後ろからひょっこり現れると、美優の中でその考えが確信に変わった。


 この子はお姫様なんだ!


 大人には理解できない思考回路は、突飛な考えも正解とする。本物のお姫様を目にした美優の目は輝き、じいっと目下ろす少女を興奮して見つめ返した。

 そのまま両者ともに動かない状態が続いたが、やがてお姫様のほうがこてん、と首をかしげる。可憐な仕草や容姿に反し、その顔はずっと無表情だった。

「……だれ」

 プリンセスにしては抑揚のない声。可愛げを補うように、オレンジの猫が「にゃーん」と鳴いた。

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