イタズラ
何故だ。何故こうなった。
俺は今、公園の汚いトイレの個室にいる。個室の中で汗をダラダラ垂らしながら、洋式便所の便器に腰掛けている。
要件はもう済んだ。本当ならこの後ティッシュで尻を拭いて水を流し、この狭く薄汚い部屋から出るつもりだった。が、そう出来ない、のっぴきならない事態が発生した。
尻が、離れない。
どういうわけか尻の肉が便器に張り付いて動けない。嵌まってしまったわけではなさそうだ。尻はしっかりと便器の上に乗っかっている。ではどうしてこうなったのだろう。
これは予想に過ぎないが、もしかしたらこの便器に接着剤が塗られていたのかもしれない。思い返せば、座ったときに何だか濡れていたような気がする。
便器に接着剤を使用しなければならない事態など早々起こりえない。となると、誰かが意図的に便器を改造したということになる。こういうしょうもないことを考えるのは大体子供だ。クソガキめ、何処の野郎だ。
ガキよりもまず、この状況をどうにかしなければ。どうやって脱出しよう。鍵は……駄目だ、手が届かない。ドアの方まで手が届かない。もう少し腰を上げれば届きそうだが、残念ながらそれは出来ない。何しろ俺の腰は磔にされているのだから。
この、少し暖かくなって虫が湧いてくる時期に、こんな幼稚な罠にかかってしまうとは。おまけに臭い。ああ、これは容疑者のせいではない。取り敢えず流そう。レバーには何とか手が届く。
流れる水の音が心地よい。目を瞑ると、滝の目の前に腰掛けているかの様な錯覚を覚える。
……いかんいかん、そんなことを考えている場合ではない。ここから出られれば好きなだけ本物の滝を見られる。まずは脱出だ。
接着剤といっても、上手くいけば剥がれるかもしれない。取り敢えず力尽くで立ってみることにした。すると、
「いっ、いててっ!」
駄目だ、結構強い。強引に引きはがせば、俺の尻が重傷を負うことになる。
それなら次はどうしよう。身の回りにある物でどうにか出来るだろうか。周囲にあるのはティッシュ、俺の服、誰かが置いていった卑猥な雑誌。何だ、これを読んで気を紛らわせろってことか。こんな物では何も出来やしない。
あぁ、どうしてこんな所のトイレなんか使ったんだろう。見るからに汚らしくて、普段なら絶対に入ることなんて無いのに。駅のトイレならまだ良かったのではないか? そこなら綺麗だろうし、こんなことになる可能性も少ない。たとえ同じ様な状況になったとしても、あそこには駅員がいる。助けを求めれば何とか逃げ出せる。
が、ここは違う。子供はよく遊びに来ているが、反対に大人はあまりいない。いても、毎日子供と一緒に大はしゃぎしている汚い格好の爺さんくらい。俺より小さいのだから扉をこじ開けるなんてことは出来ないだろう。声を張り上げてもその耳に届くかどうか。そもそも、俺の言葉が通じるかどうかもわからない。こんなこと言ったら失礼かもしれないが。
そんなことを考えていると、突然トイレに、パタッ、パタッという音が聞こえて来た。間違いない、誰かがやって来たんだ。この音の感じから察するに、相手は多分子供だろう。
音が止むと、今度はヘタクソな鼻歌が聞こえてきた。絶対に子供だ。小学校低学年くらいではないか。それくらい成長した子供なら、誰かを呼びにいくことくらいは出来るだろう。
「ボク?」
意を決して、俺は扉の向こうにいるであろう子供に声をかけた。
「ボク? ここだ、ここにいる」
俺は横の壁を拳で殴って相手に場所を知らせた。気づいてくれたようで、またパタパタという足音が聞こえて来た。音は部屋の目の前で止まった。
「誰かいるの?」
風邪でもひいているのだろうか。可哀想に、子供の声は少し枯れている。
「ああ、そうだ。お兄さん、出られなくなっちゃったんだ」
「えぇ? 出られなくなったの?」
「ああ」
「ポテチ食べる?」
「いらない。いらないから、誰か人を呼んで来てくれないかなぁ? 鍵もかかっちゃって、出られないんだ」
一応俺の言葉は届いた様だが、相手は扉の向こうで唸っている。知らない人の話は聞いてはいけない。親からそう教えられているのだろう。親の教えは守らなければならない。だが、目の前で苦しんでいる人がいる。正義を貫くか規則を守るか。心の中で2つの感情がぶつかり合っているのかもしれない。
だが少しすると、相手はパタパタとひと際大きな音を立ててトイレから出て行ってしまった。怖くなって逃げ出してしまったか。仕方無い、自分で方法を探るしか無いようだ。
そうだ、水で接着剤を流すというのはどうだろう。俺は今、腿がVの字型になるように座っていて、若干隙間がある。そして傍らにはティッシュ。そう、ティッシュを水で濡らして、尻と便座の隙間に水を送るのだ。我ながら良案だと思う。
早速ティッシュを取り、隙間に突っ込んで水に浸す。そしてそのティッシュを便座と尻の隙間にあてがい、強く押して水を絞り出す。まだ効果は無さそうだが、これを続けていれば接着剤も弱まってくる筈だ。
僅かな望みに賭けて水を送り込む俺。大体10分くらい同じ作業を繰り返していただろうか。徐々にティッシュの量も少なくなって来た。しかし接着剤は一向に隙を見せない。紙が無くなったら、もう素手で作業を続行するしかないか。
そんなことを考えていると、またあの足音が聞こえて来た。さっきの子供かもしれない。俺のことが心配になって戻って来てくれたんだ。
「誰かを呼んで来てくれたんだね? ありがとう!」
俺は扉の向こうにいる子供にそう言った。が、返事は返って来ない。
「ボク……?」
恐る恐る、もう1度声をかけるが、やはり返事は無い。何をしているのだろう。黙って様子を窺っていると、突然頭に何かがぶつかった。それは俺の頭の上で弾むと床に落ち、小さくバウンドした。
汚れたサッカーボール。ご丁寧にボールには大きく「バカ」と書かれてある。
ああ、相手を間違えた。俺はもっとまともな子供を選ぶべきだった。誰彼構わず声をかけるべきではなかった。期待は裏切られ、子供を慈しむ気持ちは瞬く間に怒りの感情へと変わっていった。
「ボク? こ、これは、どういうことかな?」
が、いきなり怒鳴るというのも大人げない。ここはまず冷静になろう。どうにか心を落ち着けてもう1度話しかける。すると、返事ではなく、クスクスという笑い声が返って来た。
「何がおかしいの? ねぇ、何がおかしいのかな?」
苛立つ俺を嘲笑うかの様に、相手は次の作戦に打って出た。
今度は外から何か音が聞こえて来た。次の瞬間、扉の隙間から何かが室内に入り込んで来た。先端から火花が飛び散る棒。花火だ。このガキ、さっきトイレから出て行ったときに買って来たのだ!
「あっ、熱っ!」
俺が火花の熱さに苦しんでいると、その声を聞いてガキがケタケタ笑い出した。もしや、接着剤を塗ったのもコイツなのではないか。どうにか抑えていたが、俺も我慢の限界だ。
「おい、クソガキ! てめぇ何笑ってんだよ! 笑ってねぇでとっととここから出せ! おい、聞いてんのか!」
怒鳴れば怒鳴るほど、ガキはケタケタと耳障りな笑い声を上げる。
だがこの直後、笑っては済まされない事態が発生した。火花が俺のズボンにも飛び散り、引火してしまったのだ。
「おっ、おい! おいおい! ガキ! 何してんだよバカ! おい! 火、火!」
「ひぃ?」
「火! 火だよバカ! うわっ、熱っ!」
炎は徐々に大きくなってゆく。相手も早く花火を引っ込めないものだから、ますます火が強くなってしまったのだ。どうにかズボンを脱ごうとしたが、尻が張り付いていて上手く脱ぐことが出来ない。必死に足を動かすが、それでも駄目だ。靴が邪魔しているのだ。
しかし、こうなれば子供もわかるだろう。俺は向こう側にいる子供に指示した。
「おい、水、水持って来い!」
「うん!」
なんて聞き分けの良い子供だろう。先程まであれほどふざけた態度をとっていたのに、今度はすんなり俺の言葉を聞き入れた。
と、少しすると、隣の個室からガチャリという音が聞こえた。続いてコンコンという、硬い床の上を歩く様な音。アイツ、まさか頭上から水を落とす気じゃなかろうな。
「おい、それは止めろ。いいか、落ち着け? な? もっとマシな方法が……」
もう遅かった。
頭上から、勢い良く液体が落ちてくる。液体が入っていたであろう容器と共に。液体が俺の身体を、そして地面を濡らすと、何故か火は更に勢いを増した。
落ちて来た容器を見てその理由を悟った。同時に、何故すんなりと俺の言葉を聞き入れたのかも理解出来た。あのバカ、初めから俺を助けるつもりなど無かったのだ。
サッカーボール、服、そしてガソリンの容器と共に、俺は燃え盛る炎に包まれた。熱さを越えた“痛み”が、俺の身体を襲った。
助けを求めたが、その声は誰にも届かない。隣で子供が大きな声をあげているからだ。最期に聞くのが狂ったガキの悲鳴だとは。
意識が薄れてゆく。が、その声だけは最期まではっきりと聞こえていた。
『続いてのニュースです。先日、都内の公園で火災が発生しました。火元はトイレで、中には20代男性と、70代後半と見られる男性の焼死体が……』