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夜半からふり続く雨が、街を灰色に染めている。
老紳士が「香夢異」を訪れてから数日後の正午。
朱雄はいつものように自宅である安普請のアパートをでて、
アルバイト先へと向かっていた。
単線の電車に乗りこみ窓の外を眺めていると、ふと昔のことが頭をよぎる。
そういえば、「香夢異」で働くことになったのも、ちょうどこんな日だった
かもしれない。朱雄はゆっくりと瞳を閉じた。
きっかけはよくある話で、家庭教師をしてくれていた兄の恋人を
好きになってしまったことにあった。兄と彼女は結婚し、
居づらくなって家をでたはいいものの、細々と貯めていた預貯金も
あっという間になくなって、所持金が二百三十四円になってしまったのである。
大量に買ったカップラーメンもいつの間にか残り一つきりとなり、
それさえもその朝にたいらげてしまっていた。明日も見えない中、
けれど実家の世話になることだけはどうしても避けたくて
途方に暮れていた時、「香夢異」の店主、結衣と出会ったのだ。
彼女はなにも言わず傘を譲ってくれ、ついてきなさい、と促してきた。
つれていかれた場所はその街には少し不似合いな「香夢異」という名の喫茶店で。
朱雄はそこで暖かい紅茶とサンドウィッチを御馳走になり、
自分の身の上を少しばかり話した。
聞いてくれた結衣は、なるほど、としきりに頷いてくれ、
『失うのって、どんなことでも悲しいものよね』
と呟いた。その横顔はひどく悲しげで。
どうにも返答しようがなく黙りこんでいると、こちらへ向き直った結衣が、
柔らかな微笑みとともに「香夢異」で働くよう勧めてくれたのである。
(でも、あの人たちって謎が多いからなあ)
働きはじめてわかったことは、けっして自分が歓迎されて
雇われたわけではないということだった。特に結衣の妹である沙希と弟の裕彦は、
こちらに対して最初はかなり懐疑的な様子だった。
嫌われているものはしかたがない。
朱雄は彼らに好かれようとすることは早々にあきらめ、
自分に与えられた仕事を淡々とこなすことのみに神経を集中した。
結局は、それが功を奏したのだろうか。
気がつけば、いつの間にやら三姉妹弟の信頼を得ることに成功していたのである。
だが、親しくなってからも、恩人の結衣たち姉妹弟には不思議な面が
多々あった。
そもそもが常人とはどことなく違う雰囲気を纏っている人たちでは
あったのだが。ほとんど客のこない喫茶店なのに生活が困窮している様子は
微塵もなかったし、様々な方面に変わった知り合いが
いるようでもある。
朱雄はそれがなぜなのかと問おうとして、そのたびに口をつぐんだ。
せっかく親しくなったのだから長いつき合いをしていきたい。
そのためにはなによりも深入りしないこと。
それが自分と彼らのベストな距離感なのだ。
朱雄は駅の改札をでて街を歩きながら、どんよりとした空を見あげた。
傘をさすまでもないか、と肩をすくめる。
畳んだ傘を片手に道を歩き、やがて見えてきた「香夢異」の扉を
ゆっくりと開けた。