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輔は朝から一人、仕事場へ向かっていた。
今日の仕事はファッション誌用の写真選定である。
仕事先の出版社はかなりの大手で、自分にとってはバイト時代から
世話になっている大事なお得意様だ。
政界誌から文芸、ファッション誌・コミック・週刊誌に至るまで多種多様な
出版物を生みだし、昨今低迷する一方の出版業界の中でも意欲的な作品が
多いことから、長きにわたりトップを走り続けている。
輔は通い慣れた街並みを早足で歩みながら、
この間「香夢異」へ訪ねてきたやたらと身なりのいい老人のことを考えていた。
(あれは、絶対になにかある)
老人とあの姉妹弟にはなにか重大な接点があるのだ。
それがなんなのかは不明だし、
尋ねたところで教えてくれる可能性は皆無なのだが。
それでも気になるものは気になる。
だいたい、あそこの喫茶店には謎が多い。通いはじめて二年経つが、
店主の永森結衣がいつもきれいで若々しいだけならともかく、
次女の沙希も高校二年生にしてはあまりにも大人びた表情を見せる時がある。
当時小学校四年生だったはずの裕彦の背だって少しも伸びた様子はないばかりか、
今にいたるも声変わりの気配すらないことが不思議でならない。
それに加え、この間のことである。
知り合いではないはずの老人に、裕彦が声をかけた。入口が違うんです、と。
紅茶を飲むふりをしながらそっと結衣の表情を窺うと、
彼女は謎めいた笑みを浮かべていた。
(『モナ・リザの微笑み』って、ああいうのを言うんだろうな)
輔はこの間結衣が見せた表情を思いだし、溜め息をつく。
店主と客。近づきたいのに、近づけない距離がどうにも切ない。
(しかも、俺、嫌われてるもんな)
冬晴れの日に結衣が見せたあの表情が、胸を締めつける。
いい表情だと思い、カメラマンとしての純粋な気持ちからシャッターを押した。
そのとたん、写真を撮られたことに気づいた結衣が、今まで見たことのないような
怒りと軽蔑のまなざしをこちらへ向けてきたのである。
その壮絶な形相に、輔はハンマーで殴られたかのような衝撃を受けた。
師匠に言われていた、自分の作品に「いま一歩足りないなにか」が、
わかったような気がしたのである。
もともと自分が器用貧乏な人間であることは自覚していた。
それは写真に関しても同じことで、
なにが対象であってもきっちりと構図を取ることができてしまう。
このところのデジタル化もあいまって、
依頼があればなんでもそこそこの物が撮れてしまうのである。
それなのに、肝心なところであと一歩なにかが足りない。
長く言われ続けてきた理由を、あの瞬間に悟った。
自分が撮るべきものは、あの「静謐さ」なのだ、と。
以来、ずっと結衣を口説き続けている。
人物を本気で撮りたいと思ったのはこれが初めてのことだし、
できれば最後であってほしい。
自分にとって結衣は、すでになくてはならない存在だった。
まあ、今のところ、まったくの片思いではあるのだが。
「嫌われた瞬間に本気で惚れるなんて、我ながらマゾだよな」
ぼやいて自嘲し、おもむろに時計を見る。
約束の時間が迫っていることに気づき、緩みがちになっていた足を早めた。




