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香夢異~夢見る紅茶専門店~  作者: 朝川 椛
第一章 日常の狭間
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「離せ! この人さらいめ!」

「わー! 危ないですってば!」


 背中に乗せた老紳士が黒光りするステッキを振りあげてくる。

立花朱雄たちばなしゅおは後ろ手にステッキを掴みながら、

老紳士が背中から落ちないようバランスをとった。


「おちついてください。病院にいくって言っただけじゃないですか!」

「そんなところへいってくれなどと誰が頼んだ! 儂を病人扱いするつもりか!」


 上質の黒いオーバーコートに身を包んだ老紳士は、

黒の革手袋をはめた手で、朱雄の一つにまとめた長い黒髪をぐいぐいとひっつかんでくる。


「いたたたっ! やめてください! 倒れてきたのはそっちでしょうが!」


 小銭束の入った換金袋がじゃらりと鳴った。


結衣ゆいさん、怒ってるかなあ)


 清々しい秋風の吹き抜ける商店街で、高く青い空を見あげる。

簡単なお使いのはずが、予定よりずっと遅くなってしまった。


(まいったなあ)


 朱雄はうめく。

アルバイト先の紅茶専門店、喫茶「香夢異かむい」にて、店主の永森結衣ながもりゆいから両替を頼まれ銀行へ向かったまではよかったのだが。

目的を終え外へでた矢先、ヘアサロンのキャッチに捕まってしまったのが

運の尽きだったような気がする。

無料でいいので新しいカットの練習台になってもらえないだろうか。

などとしつこく迫ってくる女性に対し、僕は男ですが、と正直に告げたら案の定相手は固まってしまった。これ幸いと脱兎のごとく逃げだしたのは、それでもいいです、と言われた経験が何度もあるからで。

けれど、あいにく今は髪を切りたい心境でない自分にとっては、そんなことよりも恩義ある雇い主の期待を裏切ることのほうが問題だった。だというのに……。


「こら! なんとか言え!」


 老紳士が背中で暴れている。

キャッチから逃れた直後、目の前に彼が倒れこんできたのだ。

慌てて救急車を呼ぼうとしたら手で制され、おぶってくれ、と頼んできたので、

朱雄は言われるままに老紳士を背負って走りだした。

だが、困ったことにこの老紳士、

向かう先が病院だと告げたとたん暴れだしてしまったのである。


「なんでそんなに病院が嫌なんですか?」


 朱雄が背中を振り返り尋ねると老紳士は鼻を鳴らす。


「儂は腹がすいとるだけじゃ! 病院なんぞに用はない!」

「それならとっととどこかの店に入ればよかったじゃないですか」


 黒い帽子から覗く眼光が怒りに燃えているのを見て朱雄は心底脱力した。

ここは東京とは名ばかりの片田舎だが、小さいながらも商店街には活気がある。

空腹ならばそこいらの店に入ればいい。

蕎麦や定食くらいにならいつでもありつけたはずだ。


「じゃあ、蕎麦屋にでも入りますか?」


 溜め息まじりに尋ねると、老紳士がいや、と答えてくる。


「儂はサンドウィッチが食べたい」

「は?」


 予想外の言葉に朱雄は目をしばたたいた。


「聞こえなかったのか?」


 しわがれた声にドスを利かせてくる老紳士へ戸惑いつつも、朱雄はええっと、

と返事をする。


「じゃあ、僕一つあてがあるんですけど。そこでもいいですか?」

「うまいんじゃろうな?」

「おいしさだけは保証します。でも、一つだけ問題が」

「なんじゃ」


 さりげなく喉元へ手を添えられて、朱雄は内心で冷や汗をかきながら説明した。


「そこ、一応喫茶店だけど紅茶専門店なんで。煙草は駄目だしコーヒーとか

その他のドリンクは置いてないんですよ」

「ほお」


 背中の温度が一段と低くなったような気がする。

殺気ってこういうのをいうのかな、などと思いつつ朱雄は老紳士を

再度振り返った。


「それでもいいですか?」


 尋ねると、老紳士はかまわん、と鷹揚に頷く。朱雄はほっと胸をなでおろした。


「じゃあ、つかまっててくださいね。ちょっと急ぎますから」


 短く宣言し、そのまま全速力で商店街を駆け抜ける。

クリーム色のエプロンが邪魔で走りにくいがしかたがない。

早くこの老紳士を店へつれていき、換金袋を店主にぶじ届けなくては。

必死になって足を進めていくと、やがて蔦の葉で覆われた黒い木造の壁が

見えてきた。朱雄はその前でようやく立ちどまる。


「つきましたよ」


 老紳士を背中からおろしつつ乱れた呼吸を整えた。

 店の前にある綺麗に手入れされた花壇では薄桃色のコスモスが揺れている。

入口の前には蔦の絡んだ黒く細い木の柱が二本立っていて、窓の奥は薄暗い。

内装さえ判然としないその店構えはどことなく近寄りがたい

「大人の隠れ家」という雰囲気を持っていて。朱雄は扉の前へ立つたび

子供時代へと逆戻りしたような気分になる。レトロといえば聞こえはいいが、

人によっては倦厭けんえんしてしまうだろう。

現にたった今も店内には常連のお客が一人いるのみだ。

まあこんな便の悪そうな山沿いの、しかも紅茶専門店と銘打った喫茶店では

お客がくるほうがめずらしいのかもしれないが。朱雄は店の外観を

ためつすがめつ見つめている老紳士を尻目に、小さく吐息する。

ふと、地面が黄色い絨毯に覆われていることに気がついた。

なにげなく前方を見ると店の横にある高い銀杏の黄色が目に入る。

近ごろ紅葉こうようの盛りを迎えたらしいこの巨木は、

自身はおろか店の前にまで黄色い絨毯を作りだすことに余念がないようだ。


「後で掃除しなくちゃな」


 掃除は嫌いじゃない。いや、どちらかといえば好きなほうだと思う。

とはいえ、この量を毎日となると話は別だった。

朱雄は今日も簡単には終わらなさそうな落ち葉集めを想像し嘆息する。

だがとにかく一刻も早く老紳士を店へつれていかなくては。

店の制服である濃紺のダブルジャケットの袖を整えていると背後から老紳士が

話しかけてきた。


「ここは『香夢異』というのかの?」

「そうですよ」

「本当に紅茶だけ、なんじゃな?」

「あ、はい」


 老紳士の声はどこか弾んでいる。すみません、と素直に謝ると

老紳士は先ほどとは打って変わって穏やかに微笑んできた。


「それは楽しみじゃな。紅茶には思い入れがあるんでの。

ときに、この喫茶店は創業何年かな?」


 ずいぶん唐突な問いだ、と思いつつ朱雄は首をかしげる。


「さあ、そんなに長くはないように思いますけど」


 まったく予備知識のないことを尋ねられたのでとりあえず

あたり障りのないよう答えると、老紳士は明らかに落胆の色を見せた。


「そうか。……いや、妙なことを訊いてすまなかったの」


 軽く首を横に振り詫びを入れてくる老紳士に朱雄はいえ、と口許を綻ばせる。


「さあ、どうぞ。お入りください」


 老紳士を促しながら扉を開けると心地よい鈴の音が響き渡り、

店内から紅茶の馨しい香りが漂ってきた。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

どうぞよろしくお願いいたします。

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