序章 夜の街にて
瞬きの、永遠。
悠久の、刹那。
ちかくて、とおくて、たゆたうこころ。
水槽の中でゆらゆら揺れて。
たわむれ、まどろむ、あなたとここで。
◆
青白い月が揺れる。
ビルの隙間。すえた臭いの漂う路地裏。光はない。ゆったりと染み渡る夜色に、遠く離れた街の喧騒が響いている。
「はぁ…はぁ……」
女は路地裏に迷い込んだ。仕事帰り。普段なら来るわけもない場所に足を踏み入れてしまったのは追われていたから。逃げることに必死になって、行き先など選べなかった。
「なんだったの…あれ……」
呼吸が荒い。普段運動などしないのに今日は走り過ぎた。でも、何とか逃げることが出来た。安堵に息を吐き───しかし、背後で何かが音を立てた。
「ひっ!?」
振り返る。
そこには『見てはいけないもの』がいた。
異形。
辛うじて人の形を保ってはいるが、皮膚が無く緑色の金繊維がむき出しになっている。
腕は人と変わらないのに手の部分だけが妙に大きく、爪も刃物のように鋭い。
異常なまでに長い舌を動かして、女を舐めまわすように眺めていた。
「あ…ああ……」
もう逃げることは出来ない。逃げる体力は残っていないし、そもそも恐怖に竦んで足が動かない。
だから結末は揺らがない。
異形が駆ける。躍動する筋肉。一直線に襲い掛かる。
目の前に死が迫っている。抗う術はない。女は恐怖に目を瞑り、
「はいよっと」
聞こえたのは低い声。
きっとあの異形の爪に引き裂かれ死ぬのだろう。
女の予想した一秒先の未来は訪れない。
疑問に思いうっすらと目を開け驚愕する。
異形は両断され地面に転がっていた。
そして女をかばうように立つ男が一人。
黒のスーツに黒のネクタイ、典型的な喪服を纏った男。年の頃は三十半ばを過ぎたあたりか、肩幅や首の太さから見るに相当鍛え上げられている。
その手には炎を模った、西洋風の片刃剣が握られていた。
「生き物を斬るってのは、やっぱ慣れんもんだな」
女には目もくれず、男は何やら唸っている。いったいこの男は何者なのか。疑問に思い、しかし次の瞬間には再び恐怖に体を震わせる。
「オォォォォ」
「……ルゥ…イィィィ」
何処から現れたのか、異形が二匹。
男を敵と認識したらしい。気色の悪い咆哮と共に襲い掛かる。
「別に、お前らが悪いってこともなんだが」
尚も男は平然としている。
手にした剣は夜の暗がりの中でもいやに赤々と輝いていた。
「運が悪かったと諦めてくれ……行くぜ、『フレイムタン』」
夜の闇に紛れ、赤い刀身が振るわれる。
ごう、と焔が翻り異形を包む。
一瞬だった。
刀身から放たれた業火は一瞬で異形を薙ぎ払い、蒸発させてしまう。あとには欠片さえ残らなかった。
「おう、終わったぞ」
異形を打ち倒し、しかし勝ち誇るでもなく、顔色一つ変えずに女へ声を掛ける。
「……え?」
状況についていけないのか、女は訳が分からないといった顔をしていた。
それもそうだろう。助けてくれたのは事実だが、今し方現れた男も十二分に不審者だ。その上魔法使いよろしく炎を操り化け物を滅して見せたのだ、とてもではないが思考がついて行かなかった。
「あ、あの。貴方はいったい」
「俺? 俺か。あー……異世界の、元勇者様、ってところかね」
何処か疲れたような笑みを零す。
彼が何者なのかは分からない。けれど、助けてくれ……そこまで考えて、女は崩れ落ちた。
「遊んでいる場合じゃありませんよ、テッペイ」
女の背後から現れたのは、薄絹を纏った銀髪の少女。
幼げな容貌には似合わぬ鋭利な目。銀の髪も相まって、刃物のような印象を抱かせる。
「……殺してないよな、カルディア?」
「騒がれても面倒なので意識を刈り取っただけです。数分もすれば目を覚ますでしょう」
女が倒れた原因は彼女に在り、しかし特に感想はないのか一瞥をくれることさえしない。
「それよりも早く行きましょう」
「おう、分かってる」
「魔剣フィール……大魔導師アガベアスールの遺作。今はまだ、あれを失う訳にはいきませんから」
鋭利な目が冷徹と言っていい程に細められた。
「事務的だねぇ。『お父さんの遺したくれた大切な剣ですから~』とか『私にとってあの剣は姉妹のようなものです~』くらい言やぁ可愛いのに」
「事実仕事です。其処までの思い入れもありませんし」
「性格悪いね、どうにも」
肩を竦めて笑えば少女は半目で睨んでくる。慣れたものなのだろう、男はさして気にした様子もなく歩き始める。
かつん、と甲高い靴音を立てて、二つの影は再び夜に消えっていた。