第九十六幕
前回のあらすじ
犬遠理さんの口から告げられた現実
孫呉に伊邪那岐たちが到着してから五日後。
ようやく会談の席を設ける事ができた孫呉の面々は玉座の間で来訪するものを心待ちにしていた。本来であれば先日迎え入れる予定だったのだが、宝物庫に賊の侵入を許してしまうという失態を犯してしまったが故、急遽日程を変更させてもらったのである。
「孫策様、麟の方々がお見えになられました」
「そう、ありがとう。下がっていいわよ」
兵士からの報告を受け、玉座に腰掛けた孫策は楽しげに顎を手の甲に置く。
麟に来訪した際、伊邪那岐と出会うことができた。だが、それは彼女の予想していなかった再会であり、今回こそが望んだ再会。王として面と向かって出会うことができる機会。だからこそ彼女の心はとても楽しげに鼓動を速めていく。
右側に軍師の筆頭であり義姉妹の契を結んだ周瑜、諸葛亮の従姉妹でもある諸葛瑾、陸遜、呂蒙、魯粛の軍師五名。左側に母親の代から使えてくれている古参の将である黄蓋、妹である孫権、甘寧に周泰、夜刀の五名が並び、この場所に孫呉が誇る軍師と武将が全員集合したと言える。
玉座の間につながる大きな扉。その扉が開かれた瞬間、緊迫した空気が重たく変化し、まとわりつく様な粘り気を持つ。その感情を理解できたものがこの場に何名いたのか、それは定かではない。
最初に足を踏み入れてきたのは黒髪の女傑である関羽と、黄忠、太史慈の三名。それに追従するように軍師の郭嘉と程イクが続いて姿を見せる。そこから、空気が鉛のように重い質量を持ち始める。一歩ずつ歩を進めるたび、自分たちに近づいてくるたび、この場にいる人間全員が抗いようのない圧力に屈しないように歯を食いしばっていた。一瞬でも気を緩めてしまえば即座に膝を屈してしまいそうな重圧、呼吸がうまくできない感覚、ただその場に存在しているだけだというのに手のひらには脂汗が浮かんでくる。
「失礼。いささか気を張りすぎてしまったらしい」
純白の衣を纏い、何事もなかったように口にする隻眼の人物。初めて目にするもの、以前から知っていたもの、部下たちも揃って全員が全員生唾を飲み込む。
「我が名は伊邪那岐。不肖、麟の国主を務めさせて頂いている者。此度はこの地に招いて頂き感謝する」
両手を自身の目の前で合わせて頭を垂れる伊邪那岐。それだけの行為だと言うのに、誰もが言葉を発することができずにいる。生物的な本能が脳内で警笛を鳴らし続けている。目の前の人物に関わってしまってはいけないと。
「おかしいな、まさかこの程度の威圧で尻込みしてしまったわけではあるまい? もしそれが事実であるというのであれば、少なからず認識を俺も改める必要が出てくるな」
言葉を発するだけで飛んでくる膨大な重圧。それは表現するのであれば、壁を背中にした自分に壁が迫ってくるのと同じ。本人はそれを理解していないのだろう。事実として孫呉の面々だけでなく、彼の部下たちでさえ顔色を変化させてしまっているのだから。
「陛下、風ちゃんちょっと辛いのです」
「ああ、すまん。俺の柄にもないことをしてしまったな。普段は意図的に抑えているから、お前たちに対してもどのような結果が出るかわからんかった。今後は気をつけることにしよう」
程イクの苦しげな言葉に反応して放たれた言葉によって、空気が普段通りのものへと戻っていく。それに対して胸を撫で下ろす麟の面々に対し、孫呉の面々、とりわけ孫策の表情は厳しい。
敵意であれば備えることができる。殺意であれば抗うことができる。だが、そういった次元の問題ではない。目の前の人物は意図的に抑えていると口にした。つまり、存在しているだけで何もしていない。相手に姿を認識させるだけで屈服させる術を持っている相手に対してどう立ち向かえばいいのか、孫策の胸中は穏やかではない。
「それで、俺は名乗ったというのに孫呉の王はいつになったら名乗り返してくれるのだろうか? 怖気づいたのか、それとも、声を出すことすらできないのか。どちらにしろ、あまり期待できる結果にはなりそうにないな」
つまらなそうに吐き捨てる伊邪那岐。そんな彼に横合いから突きつけられる刃。ゆっくりと瞳を動かして確認してみれば、その刃の先には夜刀の姿がある。
「口の利き方に気をつけろよ、貴様」
刃だけでなく怒気までも叩きつけてくる夜刀。言葉に出さずとも行動で示すようにそれぞれ獲物に手を伸ばす孫呉の面々。それを見た彼はやはりつまらなそうにため息をつく。
「口の利き方に気をつけろ、か。夜刀、お前の主は里長ではなく、既に孫呉の王になったわけだ。随分とこの国に馴染んだものだな」
「俺のことなどどうでもいい」
伊邪那岐に刃を向けられたことに対し、麟の面々もそれぞれ獲物に手をかけようとするが、彼にそれを手で制されて動きを止める。
「そうか。なら、一つ俺の問いに答えてくれるか?」
「なんだ?」
「助けを求められて足を運んだ国で、王に名乗ったものの名乗りを得ることができず、その部下に刃を向けられている。俺はどう対応すればいい?」
放たれた言葉には感情が込められていない。そして、その言葉に込められた意味を理解していないからこそ、夜刀は言葉を紡ぐことができない。
「答えてくれないみたいだな」
ため息混じりに大きく肩を落とした彼の瞳には、刃を握っている夜刀の姿が映っていない。それどころか目の前で玉座に座っている孫策すら映っていない。
「こちら側がわざわざ足を運んでこのざま。見るに耐えんな。まぁ、収穫は多少なりあった。完全な無駄足とならなかっただけまだマシな方だな。お前ら帰るぞ、これ以上この場にいることに意味はない」
踵を返して背中を向ける伊邪那岐。そこにはなんの感情も温度も存在していない。本当に興味を失ったように、彼は歩みを止めることなく一歩ずつ出口へと向かって進んでいく。
「待たれよ、麟の王」
「俺は帰ると口にした。時間を無駄にするなよ、お前ら。帰ったら日を空けた分だけたまった仕事が待っているのだから」
彼の歩みを止めるように放たれた黄蓋の言葉。それを完全に聞き流し、事態を理解できていない部下へと声をかけた彼の歩みは止まらない。
「止まれ、伊邪那岐」
「止まってください」
それぞれの刃を携え、彼の歩みを止めるように回り込んだ夜刀と周泰。しかし、彼の歩みは止まらない。突きつけられた刃が肌に達し、血を流しても。逆に刃を突きつけた本人たちが刃を手放してしまう。
「情けないな。部下たちは立ち向かうということを自然にできているというのに。王である人間は立ち上がることができずにいる。恐怖に屈したまま、恐怖が過ぎ去ることを待つことしかできない」
静謐な声は玉座の間に響き渡り、孫策の心へと深々と突き刺さる。
孫策には自分が手も足も出ない相手と戦った経験がない。手の届く範囲の強者と戦ったことはあるが、生まれつき武の才能を持って生まれた彼女は決定的な敗北を経験したことがない。だから立ち上がれない。折れたことを経験しことがない人間は立ち上がり方を覚えることができない。絶望を経験しなければ希望の本当の意味がわからないように、敗北を経験しなければ勝利で得たものの価値を理解することは不可能。
「負けたことがない人間を皆は強いと口にするだろう。だが、俺の見解は違う。負けたことがない人間は弱い。それは、己の心に正面から向き合わなかったものを指す。己に負けたことがない人間に、本当の意味で強さを理解する術はない」
人間はいつだって楽な方へと逃げてしまう。自分の心と向き合って甘美な誘惑に負けてしまう。それでもその敗北は完全な敗北ではない。自分に何が足りないのか、どこが間違っていたのか。己の心に負けることで新しい道を切り拓いていくのが人間。そして、負けたことによって自分の心を奮い立たせることによって自分を理解し、一歩を踏み出せるようになる。負けることが敗北なのではない。己の心に向き合うことをしないことこそが敗北。凡人である伊邪那岐は何度も己の心に負け、その度に立ち上がって血の滲むような修練を時間の限り繰り返してきた。そんな彼でも本当の意味で強さを理解していないのだから、己の心と向き合ったことのない孫策が彼の言葉に込められた意味を理解できるはずもない。
「これは俺の妻の言葉なのだが、部下の力を束ねたものが王の力、だそうだ。俺個人の力は大したものではないが、俺の部下たちの力は俺の貧困な想像力を超えている。だからお前たちは屈した。俺にではなく、俺たちの力の前に」
王の存在は、守るべき民に部下の力に比例して巨大なものへと変わる。器というものが流し込んだものを許容量以上注いでしまえば溢れてしまうように、王もその器以上の力を纏う事はできない。そう考えれば、元異民族に元奴隷、洛陽からの移民、馬一族、劉備の国、袁紹の国。これらを全て飲み込んだ伊邪那岐の王としての器は、他の追従を許していない。孫策の器が小さいというわけではない。曹操が相手であっても引けを取らないだろうが、残念ながら相手が悪い。彼女の相手取った人物の器は、規格外の一言に尽きる。
「待って、伊邪那岐。我が名は孫策、この地孫呉の王。此度は我々の申し出を無理に引き受けていただき感謝致します」
玉座を降りて震える膝に鞭打ちながら立ち上がって孫策は言葉を紡ぐ。ここで屈したまま彼を返すことなど王としての立場が許さない。
「それで?」
「それでって?」
「口にしなければ分からぬとは呆れるな。お前の部下は俺に刃を向けた。先ほどお前自身が口にしたとおり、お前たちが無理にこちらへ連れてきた側に対してだ。そのことを有耶無耶にしたまま話を続けるつもりか? 俺と再び話をしたいというのであれば謝罪をしてからが筋だ」
「それは」
彼が口にしていることは正論。だが、素直に孫策は謝罪の言葉を口にすることができない。確かに彼女の部下たちは麟の王に対して暴挙を働いたと言える。しかしそれは王である孫策を思ってのこと。部下達の行動を咎めることはお門違い。そう考えれば彼女は謝罪の言葉を口にしなくてもいいことになる。
「謝罪する必要などないぞ、策殿」
「そうだ、元はといえばこやつの発言が悪いのであって、こちら側に非はない」
口々に孫策を擁護する言葉を口にする黄蓋と夜刀。その言葉を彼は背中を向けたまま鼻で笑う。
「やはりか。この国は変わらないな。自身の非を認めることができない者たちが集った国、孫呉。あまりこういった言葉を口にしたくないが、仕方ないか」
そこでようやく彼は振り返り、血が乾ききっていない頬に右手の指を這わせて、血に染まった指先を孫呉の面々に対して向ける。
「お前らが何を勘違いしているのかは知らんが、自惚れも大概にしろ。自分たちの現状を正しく理解していないのか? ならば教えてやる。お前らの国と俺の国を同列に扱うなど侮辱もいいところだ。お前たちの国は俺の国は愚か、曹魏にすら勝つ見込みが見いだせぬ弱小だ」
孫呉の面々に対して宣言する。その表情に変化はないものの、声には多少の変化がある。含まれていたものは揺らぐことのない自信。
「稟、答えよ。麟と孫呉が戦となった場合、勝つのはどちらだ?」
「はい。孫呉と我が国が戦うことを仮定した場合、十回戦えば十回、百回戦えば百回我々が勝利を収めることができます」
「風、答えよ。麟と曹魏が戦となった場合、勝つのはどちらだ?」
「えっとですねぇ、曹魏と麟が戦った場合、十回中八回、もしくは九回勝てます。敗北する要素があることが悩みの種ですねぇ」
「愛紗、お前は孫策と戦って勝利を収めることができるか?」
「陛下がお望みとあればこの関羽、必ずやご期待に応えてみせましょう」
淡々と述べられる現実。関羽の場合は意気込みだが、仮定として麟が他の国と一騎打ちになった場合、軍師二人の言葉通りの結果を得ることができるだろう。それほどまでに現在の麟の武将たちは強く、軍師たちも優秀。蓄えられている国の力が他国と比べて桁が違う。
「この世界に絶対というものは存在しない。だが、絶対に近づけることは可能。貴様らがそれを望むというのであればすぐにでも実現してやる。俺の国の力、俺たちの力を孫呉全体に見せつけてくれよう」
そして、彼は声高らかに告げる。
「今この場を借りて宣言しよう。麟は孫呉に対して宣戦布告する。貴様らの傲慢によって支えられた陳腐な誇り、曹魏が攻め込むよりも先にこの手で全てへし折ってやる」
うん、どうしてこうなったんだろうね?




