第九十五幕
前回のあらすじ
主人公に知らされていなかった事実
犬遠理との再会を経て、心の整理がつかない伊邪那岐は孫呉の面々との会談を翌日へと延期して室内のベッドに背中を預けて腕で瞳を隠していた。心配して声をかけてくる部下たちに一人にしてくれるように願い出て、彼は今までの人生を振り返っていく。
物心ついた時には既に両親というものがおらず、共に孤児であった火具土とともに育ち、先代里長に自分の母親だと告白された。それから天照と触れ合い、彼女の弟である月読との交流もでき、布都と知り合った。性格の違う布都と伊邪那岐は何度もぶつかり、手合わせを繰り返すうちに友情を深めて親友と呼べる間柄になった。そして序列へと名を連ねるようになって鈿女と咲耶の二人に出会い、鈿女に惹かれて夫婦になった。そこから二年も経たずに鈿女が戦で帰らぬ人となり、そのことに対する怒りを里にいた人間全員に八つ当たり同然にぶつけた。
「俺が、一人ではなかっただと?」
犬遠理を焼け落ちる城で斬り、この世界へと飛ばされた。船で孫呉へ向かい、そこで夜刀と刃をぶつけ合い投獄。自分を解放することを条件に孫策と周瑜の二人を連れて曹操のもとへと移動。その最中に立ち寄った村で火具土と再会。曹操との駆け引きで孫策と周喩を助ける代わりに軍師として雇われることになった。そこで龍を使って万を超える軍勢へと四人で向かい、天照と月読の二人を部下へと引き入れる。調査ついでに立ち寄った村で袁紹に与していた凶星と戦った。曹魏を抜け、馬騰のもとへと向かう際に公孫賛の領地で咲耶の願いを聞いて袁紹軍と戦闘。
「あいつは、一体何を隠しているというのだ」
伊邪那岐は今まで何度も自分の命を危険に晒してきた。それは、自分がこの世界に必要のない存在であると思い、疑っていなかったから。血の繋がった人間がいるわけではない、認められようと努力しても、非難は受けても認められることはなかった。だったら自分は、傷ついてもいいのだ。他の誰かが傷つけば悲しむ人間が出てくる。それが自分にはいない。自分が死ねば誰かが涙する。そんなことを今まで一度たりとも考えたことはない。所詮、自分はこの世界に必要とされていない人間で、必要とされているのは自分の力と知識。ならば、いつこの命を捨て去ってもいい。そう彼は信じて疑っていなかった、今日までは。
「父と母の記憶は、いくら手繰り寄せてもない。あいつは、本当に俺の姉だというのか?」
馬鹿馬鹿しい。切って捨てることができればどれほど楽だろう。自分は今までどおり一人でいると認識して、誰かの傷を引き受けてこの世を去ればいい。そう考えることができればどれほど楽だろう。自分以外の心の傷に触れず、悲しみに触れることなく、作り上げた自分を演じきることができる。だというのに、彼の心は平静を保てない。
彼がいつだって膝を屈することなく前を向き続けられたのは、自分に向けられる愛情を手に入らないものと判断して遠ざけているから。妻に迎えた者たち、親友、かけがえのない部下たち、民。その全てを愛おしいと思う反面、彼は自分自身に向けられる感情を恐れている。悪意や敵意であればいつものように気にしない。だが、それが親愛からくるものであったり、彼を思って向けられたものであったなら彼は耐えられない。一度でもそれに心を許してしまえば、もう二度と自分は悪を背負うことができなくなってしまう。今まで一度たりとも揺れることなかった彼の心はこの時激しく揺れていた。
今まで何度も手を伸ばし、その手が掴むことのできなかったものが目の前に現れた。今なら手を伸ばせば掴むことができる。それなのに彼は手を伸ばすことを躊躇ってしまう。
「俺は、どうすればいい。助けてくれ」
虚空へと手を伸ばすが、誰もその手を掴んではくれない。それは慣れているはずなのに、この時だけはやけに切なく思えてくる。
彼が全てを受け入れてこれたのは、自分には何もないと空虚な存在だと自分を判断していたから。空っぽなのだから詰め込めるだけ詰め込んでやる。空っぽの器に痛みも傷も悲しみも言葉も受け入れ続け、今の彼が存在している。
彼には今まで拒絶するという選択が存在していなかった。自分には何もないと思っていたのだから、勝ち取ることはあっても与えられることはなかった。そんな彼に初めて与えられた姉という存在。そこに手を伸ばせば助けてくれるだろう。自分の傷を痛みを受け入れてくれることだろう。だが、そこに一度でも寄りかかってしまえば二度と自分の足で立てなくなる。与えられることを知らなかった彼は、無償の愛という存在を知らないし、信じていないのだ。
いつの間にか眠りに落ちていたのだろう。そのことを自分自身で認識できるのは彼にしてみれば珍しい体験。眠りの深い彼は自分で目覚めるということができない。強烈な外部からの刺激か殺気でも感じない限り。
「起こしてしまったかしら?」
「お前、なぜこんなところにいる?」
「冥淋から貴方がここに泊まっていることを聞いて、思春に連れてきてもらったのよ」
手に温もりを感じると思えば、彼の手を孫権が優しく握り、ベッドの近くにある椅子に腰掛けていた。
「随分と唸されていたみたいだったけれど、大丈夫?」
「別に。ただ夢見が悪かっただけだ」
「嘘よ。だったらどうして貴方は泣いているの?」
上体を起こして頬に手を伸ばしてみれば、そこにあるのは冷たい感触。彼がいくら心の奥に痛みや悲しみを沈めていても体は正直に反応してしまうらしい。
「泣いてなどいない。涙は弱さ、それを他人に見せてしまえばそこをつけ込まれる。俺はそう教わって今まで生きてきた」
「なら、その教えが間違っていたのね」
はっきりと口にした孫権の瞳に対して彼は怒りをぶつけてしまう。彼女は、今まで彼の心にあった支えに唾を吐いたのだから。
「弱さとは隠すものではなく、克服するもの。それに、敵国の人間ならいざ知らず、貴方の周りにそこまで心を許してはいけない人間がいるとは思えないわ」
「お前にはわからない。俺がどれほど苦しんで、それでもあがき続けてきたかをお前は知らない。俺が涙を流すことの意味を」
「ええ、私にはわからないわ。他人の痛みや悲しみに共感することはできても、本当の意味で理解することは私にはできないもの」
そこで言葉を区切り、彼女は彼の手を力強く握りしめてから続ける。
「でも、貴方が伸ばしてきた手を掴むことはできる。苦しい、悲しいって伸ばしてきた手を握り返して話を聞くことはできる。それだけで人は随分と楽になれるものよ?」
「まったく、どいつもこいつも口だけは達者だ」
そこにあったのは王としての顔ではない。年相応の少年が浮かべる笑顔。
「俺がかつて手を伸ばし、掴んでくれたのは布都と火具土の二人だけ。この大陸に来て手を伸ばして掴んだのは、お前と曹操の二人。どうしてここまで癖の強い人間ばかりしか俺の手を掴んでくれぬのだろうか」
「曹操も貴方の手を掴んだというの?」
「ああ。あいつは俺の恐怖に対して伸ばした手を掴んでくれた。お前が俺の寂寥に対して伸ばした手を掴んでくれたのと同じように」
実際に手を伸ばしたわけではない。それでも曹操は彼の恐怖に負けそうな心に手を伸ばし、孫権は彼の苦悩する心に対して手を伸ばしてきた。
「かつて俺は曹操の存在を太陽に例えたことがあるが、お前は海だな」
「海?」
「そこにあるだけで恵みを与え、共にいることが自然のように思えてくる。癇癪を起こせば津波となり、悲しみにくれれば波を引く。まさにお前だ」
その言葉を聞いた孫権は、笑顔を浮かべて言葉を紡ぐ。
「なら、貴方は樹海ね」
「なぜそう思う?」
「知らない人間が踏み込めば敵意を持って飲み込み、己を守ろうとする。されど、守るべき者たちにとっては恵みを与え、外敵から自分たちを守ってくれる強固な存在。貴方にはピッタリじゃない」
「まさか、自分が例えられるとはな」
不機嫌そうに口に出したものの、彼の表情は穏やかで彼女の言葉を否定していない。むしろ、喜んで受け入れているようにも見える。
「それで、お前がここに現れた用件を俺は聞いていないのだ、何用で現れた?」
「それは、その」
今まで握っていた伊邪那岐の手を離し、自分の太ももに挟んで彼女は言葉を濁す。
「曹操と婚姻を結ぶと冥淋から聞いたのだけれど、本当なの?」
「本当だ」
その言葉を受けて一気に肩を落とす孫権。その落ち込みようは半端なものではない。
「ただし条件付きだがな」
「条件付き?」
「ああ。あやつが孫呉を滅ぼし、この大陸に俺とあやつの国だけになったらという条件を満たしたらの話だ」
「そう、だったの」
先ほどの落ち込みようが嘘だったかのように彼女のテンションが上がってくる。
「それともう一つ。冥淋が出した選択肢で貴方は私の時になんて答えたの?」
「お前ら三姉妹と婚姻を結ぶという話か。その話であれば、姉への劣等感の塊なんぞいらんと答えた覚えがある」
「やっぱりね」
そこで大きくため息をついた彼女は、椅子から立ち上がって声を張り上げる。
「私は私。雪蓮姉さまと自分を比較することはもうやめたの。私は孫堅文台も孫策伯符も目指さず、孫権仲謀になる。そう決めたのよ」
「また随分と思い切ったな」
「貴方が言ったのよ? 自分と他人を比較してもなにも変えられない。自分を変えられるのは自分だけだって」
その言葉は孫権と二人で長江に投げ出された時に彼が口にした言葉。彼が曹操の言葉で変わったように、彼女も伊邪那岐の言葉を受けて変わったのだ。
「くっはっはっは」
「なによ、笑うことないじゃない」
「いや、お前のことを笑ったわけではない。俺はどうも難しく考えすぎて、自分の視野を自分で狭めていただけらしい。与えられたのが初めてだったからどう対処すればいいのか分からず悩んでいたが、なんのことはない。いつもどおり受け入れてしまえばいい。それが俺という人間だ」
答えが出せなくてもいい。答えが出せないということもまた答えの一つなのだから。そのことに気づくことができていなかった彼は、自分の馬鹿さ加減がおかしくて声を上げて笑ってしまう。自分ひとりで答えを出す必要などないのだ。今の彼は昔の彼ではない。孤独を感じるような場所にいるわけではない。
「ようやく貴方らしくなったわね、伊邪那岐」
「ふむ、これが俺らしさというやつか? いまいち実感がわかんな」
「自分のことが一番わからないのよ、人間ってものは。これも貴方が私に言った言葉だけれど」
互いに笑みを浮かべた瞬間、孫権の手は彼に引かれ、体ごと彼の上に倒れこむような形に。
「お前は凄いな、蓮華。俺なんかよりもお前の方がよっぽど王に向いている」
「なんかって自分を卑下する言葉を口にするのは感心しないわね。それは、貴方だけでなく貴方についてきた者たちも侮辱するものよ?」
「だから布都や碧は俺が口にするたびに怒っていたのか。ようやくその意味がわかった」
彼自身気づきもしなかった。自分が自分に対する評価が低いことを口にするたびに、自分の言葉で部下たちを侮辱していたということに。
「それで、用件はそれだけか?」
「はぁ。どうして貴方は人の頭の中で考えていることには鋭い癖に、心の中にある考えには極端に察しが悪いのかしら。冥淋が言ってた意味がよくわかったわ。この状態で私が貴方を拒絶していないことを理解できれば、結論にたどり着いてもおかしくないと思うのに」
「?」
ここまで口にしているというのに、彼の頭の上にはクエスチョンマークが浮かんでいる。鈍いという言葉が彼のために誕生したと言ってしまってもいいくらいに。
「貴方が私との婚姻を拒否した理由は取り除かれている。それはわかるわよね?」
「ああ。お前の言葉を信じるなら」
「だったら、私がここに来た理由がわかってもいいと思うのだけれど」
不機嫌そうに口にした彼女の言葉を未だに彼は理解していない。好意自体向けられるようになったのが最近である為、彼は好意を敏感に察することができないのである。
「私は、ずっと待ってたのよ。血筋でも、家柄でもなく私を私個人としてみてくれる人のことを。痛いくせに強がって、悲しいくせに無理して涙をこらえて。自分以外の誰かのために傷を負って戦えるくせに、自分のためには戦えない。そんな、誰よりも強くて優しくて、それに反するように臆病な貴方のことを」
「蓮華、お前」
「私は王じゃない。だから取引の価値としては低いのは知ってる。でも、そんな私だからこそ望んだ場所に歩いていける」
上体を起こして髪をかきあげ、彼の手を自分の胸に抱いて孫権は優しげに告げる。
「貴方が望むのなら、私はすぐにだって貴方の悲しみを一緒に背負ってあげられる。苦しみを和らげて、一緒に悩んであげられる。貴方が自分自身を信じられなくなったとしても、私が貴方のことを信じてあげる。力も知識も貴方に遠く及ばないかもしれない。それでも、隣にいたいという気持ちだけは誰にも負けたくない。だから、私を貴方の隣にいさせてよ、伊邪那岐」
「俺は、民のためであればいかなる手段も行使する悪に手を染めた男だ。このまま戦が進めば、お前の家族ですら葬る可能性がある男だ。そんな男のもとにお前は来るというのか?」
「貴方がそれをすれば、私は貴方を憎むことでしょう。でもこれ以上、貴方だけに悪を背負わせたりはしない。背負うのであれば、私も一緒に」
覚悟は言葉に出ると誰かが口にしていた。その言葉を思い出してしまったからこそ、彼は観念したかのようにため息をつく。
「お前が悪を背負う必要などない。それは俺の役目、誰であろうと譲るつもりはない」
「伊邪那岐っ」
「だからお前は、俺の弱さを受け入れてくれればそれでいい。俺の傍にいてくれさえすればそれでいい」
そこで瞳を閉じた彼はゆっくりと寝息を立てている。その頬に軽くくちづけをした孫権は抱きつくように彼に自分の体を預ける。
「ようやく、私の思いが届いてくれた」
主人公の妻はいったい何人まで増殖するのでしょうか?
そして、本日は頑張って四回の更新!!!




