第九十三幕
前回のあらすじ
酒は飲んでも飲まれるな
目の前で泣き声を上げる赤子を母親があやしている。それを笑顔で見つめ、歩み寄ってくる父親の姿。それに嫉妬するように近づいてくる小さな少女。
「父上も母上も、伊邪那岐にかかりきりでつまらないのです」
「ふふっ、伊佐那海は姉になったのだから、これからはこやつを守ってやらねばならんのだぞ?」
父親の膝に腰を下ろし満足そうに笑みを浮かべる少女は、ようやく泣き止んだ赤ん坊へと視線を向ける。
「あなた、伊佐那海にはまだ難しすぎるお話ですよ? この子もまだまだこれからゆっくりと大人になっていくのですから」
「だからこそだ。こやつも伊邪那岐も俺とお前の子。いつ何時戦火に巻き込まれたとしてもおかしくはない」
父親の表情は暗い。それを察したのか、少女は赤ん坊から視線を父親へと移動させてその左手を頬に向けて伸ばしてくる。
「すまぬな、伊佐那海。力の足りなかったこの父を恨んでくれて構わない。俺があの時躊躇わなければお前たち二人に呪われた結末を与えずに済んだ。全ては俺の責任だ」
「光秀様」
夫の苦悩を妻は知らない。そして、このあと起こりうる事態も当然のように。
「本当に恨んでも恨んでも足りないよ、父上、母上」
ゆっくりと瞳を開いた犬遠理の頬を涙が伝ってくる。これは何も知らなかった幼い記憶。何も知ろうとしなかった自分自身の過去の過ち。
「どうして、あの時あなたがこんな選択肢を選んだのか、今の僕にだったら理解できる。でも、理解できるからといって納得できるかと言われれば話は別。僕は、生涯あなたたちのことを許しはしない」
父親と母親の選んだ選択。それを彼女は間違いだとは思っていない。むしろ、正しい選択だったと思っている。それが、彼女一人にだけ与えられたのであれば。
「運命なんていらない、宿命なんて言葉遊び。そんなものに踊らされる人間は総じてくだらない。でも、それに巻き込まれてしまった人間は? あなたたちの失敗は自分たちの運命に伊邪那岐を組み込んだことだ。僕は決して認めない。あなたたちの罪を清算するためだけにあいつを利用し、傷つけ、闇を植えつけたあなたたちのことを許さない」
背中を預けていた木に自分の右拳を叩き込んで、ようやく彼女は理性を取り戻す。死人に口なし。どう文句を口にしたところで言い訳も謝罪も帰っては来ない。いくら罵ったところで気分が晴れることはない。
「僕はあなたたちの計画を利用しよう。でもそれは、あいつを殺すためじゃない、あいつに罪を清算させるためじゃない。あいつを、伊邪那岐をあなたたちのくだらない計画から離脱させ、与えられたものでもない、借り物でもない、あいつ自身の人生を歩ませてあげるため。そのためなら、僕は外道に堕ち、悪魔との取引にも応じよう。たった一人の弟を解き放つために」
そこにあるのは優しげな眼差し。自らを傷つけてでも大切なものを救う志は姉弟揃って同じように芽吹いている。
「愛しているよ、伊邪那岐。だからこそ、僕の命は君に捧げよう。僕の命も魂も君の手で殺し尽くしてくれ」
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太史慈を加えた一行は、孫策と周瑜二名と交わした約束通りに宮を訪れたのだが、中がやけに騒がしいので入ることを躊躇っていた
「どうするつもりだよ、お館様?」
「どうするもこうするも、出迎えてくれる人間が出てこないのであれば勝手に入るわけには行くまい。出直すとしよう」
車椅子を元きた方向へと反転させた伊邪那岐だったが、その視線が一点に対して釘付けになってしまう。同行している五人も一瞬何が起きたのか理解できずに目を点にしている。それもそのはず、いきなり目の前にブーメランパンツ一丁の筋骨隆々の男性が空から降ってくれば誰だって言葉を失ってしまうことだろう。
「あら~ん? そんなに熱っぽく見つめられちゃったら困っちゃ~う」
しなを作りながら辮髪の人物は言葉を発してくる。ただ、それを受けた麟の面々の表情は凍りつき、誰もが伊邪那岐の背中に隠れるように身を縮こませてしまっている。
「お主、寒くないのか?」
「あら~ん、優しいのねぇ? でも大丈夫♪ 心頭滅却すれば火もまた涼しって言うでしょぉ?」
「使い方が完全に間違っているが、寒くないのであれば別に構わん。それよりも、お主今どこから現れた?」
「うふふっ、漢女にそんなことを訪ねちゃダメじゃな~い」
「話が全く進まないな。まぁ、お互い面識があるわけでもないし、この先会うこともないだろうから深い詮索はなしだ。いつまでも怯えておらず帰るぞ、お前ら」
少しの時間だけだったにもかかわらず、目の前の人物の相手をすることに疲れてしまった彼は帰るために車椅子を進ませる。その時、彼の体が車椅子から強制的に放り出されて地面に体を打ち付けられる。原因は、目の前の人物の蹴り。しかし、その速度と威力はもはや人間の範疇に当てはまらない。蹴りの衝撃だけで彼が腰掛けていた車椅子が粉砕されてしまっているのだから。
「「ご主人様」」
「お館様」
関羽に黄忠、太史慈の武将三人は自分たちの主の心配をしながらそれぞれの獲物に手をかけて臨戦態勢へ移行。相手が誰であっても主に危害を加えた人間をただで帰すつもりはないと言わんばかりに敵意を解放している。
「これで終わりなんて、まさかそんなことを言うつもりはないわよねぇ?」
「恨みなら数え切れないほど買っているが、まさかいきなり蹴られるとは思ってもいなかった。華蛇に感謝しておかねばならんな。あやつに昨日会っていなければ今頃俺は仏になっていた頃だろう」
着物に付いた埃を手で払いながらゆっくりと立ち上がる伊邪那岐。久しぶりに自分の足で地面に立った彼はゆっくりと体をほぐしながら目の前の人物に視線を向ける。
「それで、俺に一体なんの用だ?」
「うふふ、いいわぁ~。ちょっとだけ味見するだけのつもりだったのに、本気になっちゃいそう。だから、往生しいやぁ~~~~」
繰り出される蹴り。それを跳躍して壁の上に退避することに成功した彼は、その蹴りの威力を見てため息をつく。蹴りの速度で真空の刃を作り出したのだろう。壁には一文字の傷が穿たれている。防御したのであれば、その威力で防御した腕ごと首をへし折られることが容易に想像できる。
「よくぞここまで磨き上げたと褒めるべきか。それにしても厄介だな、俺は他の奴らと違って金剛を習得していないというのに」
金剛。
それは剣の一族に伝わる防御技術の一つ。体内の気を操ることによって、自分の体を金剛石のように固くすることによって相手の攻撃を無力化、素手で刃をへし折ることを可能としている。
「うふふ、逃げても無駄よ? あなたたち剣の一族の弱点はとっくに把握済みなんだから♪」
「俺たちの弱点?」
「そう。あなたたちは、その戦闘能力を最大限に発揮するために短期決戦を主軸としている。だから、長期戦をするほどの体力を持っていない」
目の前の人物が口にしたことは事実。
一に速さ、二に力、三に技術という考え方が剣の一族。故に彼らは総じて短時間で体力のほとんどを消費してしまう。無類の強さを誇る布都であっても、一刻以上この大陸の人間と戦闘を繰り広げれば地べたに沈んでしまうことだろう。
「いつまで逃げられるかしら? あと十分、それとも五分?」
「どうだろうな? 俺も自分の体力の限界まで戦った覚えがないからわからん。ただ、訂正しておくことが一つ。俺は別に逃げていたわけではない」
言葉を発した瞬間、彼の周囲の空気が変わる。絶え間なく繰り出される蹴り。それはもはや壁と言い換えてもいいだろう。そこに彼はあろうことか足を踏み入れていく。様子を見守っている者たちも目の前の人物も同じ感想を抱いたことだろう、自殺行為と。だが、蹴りの壁が消失したとすれば話は別。蹴り足はだらしなく垂れ下がり、猛禽の嘴に似た鋭い蹴りが繰り出されることなく停止している。唖然とした周囲の目を気にする事無く、彼は一歩を踏み出す。すると、先程まで優勢だった人物がその場で腰を落としてしまう。ただ、それは本人の意思とは無関係のことだったらしく、必死に立ち上がろうとしている。
「人体の構造上、繋ぎ目が解かれればいくら動かそうとしても体はそれに反応できない。今、俺はお前の両足の関節を外し、孔をついた。孔の位置を知らず、関節の戻し方を知らぬお主は自分の足では立てぬ。知っていたとしても、それを治す時間を与えるほど俺は甘くない」
「まさか、さっきまでは」
「お前の筋肉の動きを見ていただけ。観察しながら戦うなと布都や凶星のやつは俺に怒るが、今まで培ってきた戦い方はすぐには変えられん」
その言葉を聞いて全員が全員言葉を失ってしまう。自分の命が危険に晒されている状況で相手を観察しながら戦う事の危険性を彼女たちは知っている。確かに彼の言うように相手を観察するためには相手の手の内を晒してもらわなければ意味がない。そのことにはかなりの時間を必要とする。その間、自分の命を危険に晒し続けることを誰が天秤にかけるというのか。
「悪いが俺にはお前らと違って武においても、智謀においても才能というやつが欠片もない。だからこういった手段を使わねば強者には勝てぬのだ」
「あなた、今までもそんな戦い方をしてきたっていうの?」
「ああ。弱い奴は色々と工夫をしなければ生き残れないからな」
はっきりと断言する伊邪那岐。それを見て笑い声をあげた人物は観念したように言葉を口にする。
「まさか、外史に招かれた人物がこれまた外史の人間だったなんてね。笑えるったりゃありゃしない。私の名前はね、貂蝉っていうの。この外史に現れた異物を排除するために遣わされたもの。それが逆に殺されそうになっちゃいみがないわね」
「何を言っているのか意味がわからん。そもそも外史とはなんぞ?」
「外史とは、本来あるべきはずの道標から外れた歴史。あってはならない世界を指す言葉。正しくもあり、間違いでもある歴史。それこそが外史」
「一つ問う。外史を貴様は消したことがあるのか?」
「ええ」
貂蝉の言葉を聞き、全員が首をひねっている最中、彼の足が貂蝉の顔のすぐ隣に対して振り下ろされる。その威力たるや彼女の蹴りと同等、もしくはそれ以上。一撃でその場に巨大なクレーターが誕生していた。
「巫山戯るなっ。貴様は神にでもなったつもりかっ。人の数だけ思いがあるように、その数に比例して世界もあっていいはずだ。それを貴様は消してきたというのか。傲慢になるのもいいかげんにしろっ」
「なら、私のような存在は神なのかもしれないわね」
「そうか」
そして、彼は踵を返して言葉を吐き出す。
「だったら、俺は神を殺す。貴様が無限の可能性を踏みにじるというのであれば、俺は無限の可能性を守るために貴様を殺す。理不尽なまでに命を搾取してきた貴様に命の重さというやつを叩き込んでくれる」
「強い男なのね」
「俺は強くなどない。立ち止まることが嫌いなだけだ」
人外VS規格外




