第九十二幕
前回のあらすじ
隠居したら気も抜けていた孫堅さん
「おい孫堅、こいつをどうにかしてくれ」
「どうにかしてくれって言われてもなぁ」
「あ~によ~、わたしゃの酒が飲めないって言うのぉ~。もっともっともっと飲みなさいよ~。若いのに年上の酒を断るなんて生意気よ~」
一刻後、孫堅の屋敷で部屋をあてがわれた一行は食事という名の酒宴に招かれていた。もっとも、伊邪那岐以外の麟の人間は早々に酔いつぶれて現在は床の上で意識を手放してしまっている。
「酒癖が悪いな、絡み酒は勘弁して欲しいのだが」
「そうは言うけど、そいつがそんな風に悪酔いしてるのは間違いなくお前のせいだぞ?」
「俺のせい?」
「だって、そいつ曹操の母親だし。娘命だし」
「これがあの二人の母親?」
酒の入った盃片手に自分に絡んでくる金髪の女性。衣服は自分で脱いだのか、かなり乱れており下着が顔を覗かせている。彼がこの屋敷に到着した時には既に泥酔状態であった為、通常の彼女を彼は知らない。それでも自分にしなだれかかってきている女性が曹操に曹仁二人の母親だと言われてすぐには信じられない。
「だってさ、華琳ちゃんってばさ、最近会うたび伊邪那岐がどうのこうのうって。あんたのことばっかり話しちゃってさ。しかも嬉しそうに話すもんだから聞いてあげないと悪いしさ。娘に好きな人ができたのは喜ばしいことなんだけどさ。でもでも、もっともっとママに構って欲しいのぉ~」
「絡んだあとは泣き上戸か。本当に酒癖が悪いな」
「うう~、全部全部あんたが悪いのよぉ~。私が寂しさを紛らわせるためにお酒に逃げるのも、ママ、ママっていっつも私から離れようとしなかった華琳ちゃんが独り立ちしちゃったのも、私と一緒にくらさなくなったのも、全部あんたが悪いんだからぁ~」
「全て俺には関係ないことのように思えて仕方ないのだが?」
「まあまあ、そう言わずに聞いてやれよ。こいつもこいつでいろいろあるんだって」
孫堅に言われて彼は実に複雑そうな表情を浮かべ、
「お前も娘が嫁に行くときにはこのように乱れたりするのか?」
「うんにゃ、全然」
聞いたことの答えが返ってきてため息をついてしまう。
「だがお主、どうしてそのようなことを聞く?」
「周瑜が和平交渉のために俺にお前の娘と婚姻を結べと持ちかけてきた」
「ほぉう。それはまぁ確かにあやつなら言いそうなことではあるな。あやつは国のことを王以上に心配しているからなぁ、もう少し肩の力を抜けば見えなかったものも見えるようになるだろうに」
「とっとと隠居して娘共に試練を与えたお前が言うべきことではないだろうが」
「ははっ、違いない」
彼の言葉を受けて豪快に笑った孫堅は、空になった自分の盃だけでなく彼の盃にも酒を注いで問いかける。
「それでお主はどう答えた? 他ならぬお主であるならば儂は娘を嫁に出してもいいと考えておる。嘘偽りなく答えてみい」
「娶る気はないと答えた」
「雪蓮は?」
「あんなじゃじゃ馬いらん」
「蓮華は?」
「姉への劣等感の塊なんぞいらん」
「小蓮も?」
「顔も知らんやつなどいらん」
「貴様っ、儂の娘のどこが気に入らんというのじゃっ。料理や裁縫ができないことを除けばどこに出しても恥ずかしくない娘たちだぞっ」
伊邪那岐に素直な意見を求めたはいいものの、口から出された言葉を聞くなり孫堅は立ち上がって剣に手をかけて大声を張り上げてきた。
「お前、先ほどと言っていることと行動が違っていないか?」
「違ってはおらぬわっ。それとも何か、お主は儂の娘だから娶るつもりはないとでも言うつもりかっ」
「誰と血縁関係にあろうが関係ない。相手が敵国の人間だろうが、仇の娘であろうが惚れていれば娶る。逆に同盟国の人間だろうが、親友の家族であっても俺にその気がなければ縁談を受けるようなことはしない」
酒が入って歯止めが効かなくなってきている孫堅に対し、いつもの様子で彼は答えるが酔っ払いに道理は通じない。
「じゃあじゃあ、華琳ちゃんのどこを好きになったのよぉ~。私は華琳ちゃんのいいところをいっぱい、それこそあんたなんかに負けないぐらい知ってるけどぉ。あんたの口から直接聞きたいなぁ~」
「そうだぞ伊邪那岐。曹嵩の娘と儂の娘に一体どれほどの違いがあるというのだっ」
「違いしかないだろうが、阿呆ども。人はそもそも違う生き物、誰かと比べることに意味などない。思い出があるからこそ他人と比べてしまうことはあるだろうが」
「「そんな正論は聞いてないっ」」
さすがの彼も酔っぱらい二人を相手に論破することは難しい。そもそも、彼女たち二人は既に話を聞くつもりなどなく、自分の考えを彼に押し付けたいだけの状態になってしまっている。
「まぁまぁ、落ち着きなさいよ虎連。あんたのところの娘が私の可愛い可愛い華琳ちゃんにかなうわけがないんだから。ね~、伊邪那岐~」
「なんじゃとっ? そいつは聞き捨てならんぞ真琳。儂の娘の方がお前の娘と違って出るとこ出ておって女子らしいわっ」
「なんですって? 華琳ちゃんはあの愛くるしい外見があってこそよ? 確かに双子の理琳ちゃんよりも若干成長が遅れてるかもしれないけど、あれはあれでアリなのよっ」
「アレは成長が遅いのではなく止まっておるのじゃ。それと比べれば小蓮の方がまだ成長する見込みがあるわっ」
互いに自分の娘ということもあって一歩たりとも譲るつもりはない。そのせいか、いつの間にか自分たちの額を何度かぶつけ合いながらにらみ合っている。
「伊邪那岐~、あんたの口から言ってやんなさいよぉ~。華琳ちゃんの方が虎連の娘たちよりも可愛いって」
「伊邪那岐、お主の口から直接言ってやれ。見目麗しいのは真琳の娘よりも儂の娘たちの方だと」
そして互いに彼へ対して飛び火する言葉を口にして視線を移動させたのだが、話を振られたはずの本人は既にその場所にいない。
「「逃げた~~~~」」
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「虎連のやつもあまり酒癖がいいとは言えぬな。まったく、酔っぱらいの相手をするためにこの地まで来たわけではないというのに」
愚痴りながら車椅子で抜け出した伊邪那岐は、一本だけ酒瓶を持ったまま二人からなるべく離れられるような場所を探していた。そんな時、彼の耳に届いてきたのは矢が飛来し、的へと突き刺さる音。
音の聞こえた方へ移動してみれば、そこにいたのは長い青髪を後ろで一つに束ね、一心不乱に矢を射続けている太史慈の姿。放った矢のどれもが的に命中しているというのに、彼女の表情に喜悦はなく、むしろどこか苦しんでいるようにも見える。
「夜分まで精が出るな。確か、太史慈と呼ばれていたな? それほどの腕を持っているのだから、多少休んだところでバチは当たらぬと思うが」
「貴様、いつからそこに?」
「つい先程だ。悪酔いした二人の相手をしたくはないので、どこか静かな場所を探している最中に矢を射る音が聞こえたから足を運んだ。邪魔というのであればすぐさま退散しよう」
「いや、別に」
彼に対してさして興味はないらしく、問いかけただけですぐさま自分の修練へと彼女は意識を集中させる。
「一寸」
「なに?」
「いや、お前の癖なのかもしれんが、矢を射る時にお前の右肩が一寸ほど下へと動いている。それでは中心に当てることは難しいぞ?」
「右肩が下がるだと?」
「無意識なのだろうよ、癖とはそういうものだ。右肩を下げぬように意識して矢を放ってみろ。違いは己の目で見たほうが早い」
十本程度の矢を放った際、太史慈へと投げかけられた言葉。疑りながらも彼の言葉通り右肩を意識して矢を放ってみれば、見事的の真ん中に的中。そこから意識しながら放てば彼女の狙った場所通りの一に矢が突き刺さる。
「貴様、弓の心得でもあるのか?」
「いや。俺は刀と槍はまだしも投擲系統はからきしで、狙ったところに飛ぶことなどまずない」
「では何故?」
「今まで自分が見てきた奴らとの違いを口にしただけだ。自分に出来ぬことでも他人に教えることで役に立つことは多々あるからな」
たった十本の矢を射ただけで彼女の癖を見抜いてしまった彼の洞察力には目を見張るものがある。だが、彼女には理解できない。自分の知識をおしげもなく与える彼の存在が。これが同じ国の人間であればわからなくもない。しかし彼は別の国の人間で、先ほど顔を合わせるまでは名前すら知らなかった人間なのだ。
「俺の推測だが、お前は誰かに教えを乞いたわけではなく我流で腕を磨いてきたのではないか?」
「どうしてそれを」
「なに、俺も同じようなものだからな。誰かに指摘されるまで癖には気づかなかった。我流は得るものも大きいが、それと同時に得られぬものも多い。俺も勘違いしていたが、先人の知識や技術を学んでから実践したほうが上達は早いらしい」
酒瓶を彼女に対して放り投げて彼は言葉を口にする。
「だが、どうしてそれを私に教える?」
「なんだ、教えて欲しくなかったのか? それは余計なことをしてしまったな」
「そうではない。教えてくれたことに感謝はしている。だが私は、貴様とほとんど面識もなく、別の国の人間だ。そんな相手にどうして」
彼女の疑問は最も。これが出会った当初であれば、今は面識のある甘寧も孫堅も同じことを口にしていたことだろう。
「知識とは広めてこそ進歩する。独占しているだけでは意味がないと俺は捉えている。だからだろうな」
「だからと言って」
「付け加えるのであれば、お前に興味を持ったからだろうな。他の兵士達は俺の名を聞いて尻込みしていたというのに、お前だけは恐怖に屈することを良しとせず自分の心に抗い続けた。そういう人間は仲間だろうが敵だろうが好ましい」
目の前の人間の言葉を受け、太史慈は声を上げて笑ってしまう。笑ったことがいつだったか覚えていないこともあって、彼女の笑いは止まらない。目の前の人間は彼女が思うに馬鹿だ。自分の生きている時間を楽しんでいる大馬鹿。だからこそ今までの自分が馬鹿らしくて笑ってしまう。こんな人間に彼女は今まで出会ったことがなかったから。
「笑われるようなことを口にした覚えはないのだが?」
「いや、済まん。貴様のことを笑ったわけではないのだ。それにしても久しぶりに笑った」
「笑うことを忘れるほど修練に励んでいたのだろうよ、お前は。ただ、それでは短い人生つまらんものにしかならん。俺の部下にも言ったのだが、俺たちは将や軍師である前に人だ。生きている短い時間の内に楽しまなければ損でしかない」
「貴様は、私の知る王とは違うように思えるな」
「半人前の王だからな。自分一人では国を収めることができず、部下たちの力を借りてようやく一人前といったところ。まぁ、死ぬまでに一人前になれればいいと俺は思っているしな」
彼の隣に腰を下ろし、いつの間に用意したのか自分と彼の盃に彼女は酒を注いでいく。
「ますますおかしな奴だ。だがまぁ、貴様のような奴のそばにいれば私の人生も多少変わったかもしれんな」
「はぁ、似ているとは思ったがここまで似ていると悪夢だな。お前は馬鹿か?」
「なんだと?」
盃を傾けた太史慈に対し、ため息をついたあと彼は言い放つ。
「人生が変わったなどという言葉は死ぬ直前に口にする後悔の言葉だ。生きている人間が口にする言葉ではない。死者と違って生きている人間はいつだろうと己の意思で人生を変えることができる。先ほどお前が俺の言葉で自らの癖を直したように、この先何度だって変えることができる」
彼の言葉を彼女は笑わないし、聞き流しもしない。自分とは完全に物事の捉え方が違うからこそ、妙な親近感が湧いてきてしまっただけでなく、彼女の心の中に目の前の人物が見ている世界を見てみたいという願いが生まれて芽生えていく。
「そうだな、お前さえよければ俺の国にくるか? お前が自分の生きる道を変えたいと願うのであれば、俺が手を貸してやる。無論、断ることはお前の自由だ」
「貴様、正気か? いや、貴様のことだから正気なのだろうな」
誰かから伸ばされた手を見るのはいつぶりだろうか。それすら忘れてしまっていた彼女は迷いながらその手を握り返す。自分よりも大馬鹿な人間がどのような世界を夢見ているのか、一緒に見たいと思うから。
「後悔するなよ?」
「はっ、後悔なんぞいつだってしている。あの時こうすればよかった、別の方法があったのではないか? そんなことはいつだって考えればキリがない。だが、その後悔さえも楽しむことが人生だと俺は思っている」
「つくづく変わっている」
そして彼女は盃を空にしてから彼に対して臣下の礼を取る。
「我が名は太史慈、真名は瑪瑙。これより隻竜王陛下の旗下に入らせていただく。貴様の思い描いた世界を、私の瞳にも魅せてくれ」
「言葉が違うぞ?」
「?」
彼の言葉を受け、頭上に疑問符を浮かべた彼女だったがその次の言葉を受け、深々と頭を下げる。
「俺が思い描く世界ではない。俺たちが思い描き、ともに実現させていく世界の間違いだ。一人で見る世界なんぞたかが知れている。己を知り、世界を知り、肩を並べてともに世界を見るのだ」
「ふふっ、貴様にはかなわないな」
酔っぱらいの相手は本当に疲れるんだって




