第八十七幕
前回のあらすじ
さよなら袁術
袁術を殲滅してから一週間後。
未だに一人で動き回ることのできない伊邪那岐はベッドに腰を下ろしながら将棋を指していた。一人で行う詰将棋ではない。対面に相手がいての二人での将棋。
「相変わらず嫌な手を打ってくるな。まったく、多少は加減というものを覚えよ、俺は病人だぞ?」
「お兄さん相手に加減できるほど、風は慢心してませんからねぇ。その時その時に最善と思える手を指しているだけですよぉ?」
相手をしているのは曹操の共として麟へと来た程イク。その表情は相変わらず眠たげで彼同様に相手に心理を読ませないことに長けている。
「あら、意外と元気そうね?」
「お前、いい加減自分の国に帰れよ。折角血判状の約定以上のことをこちらがしているのだから」
「それはそれ、これはこれよ」
室内に足を踏み入れてきたのは曹操と荀彧、郭嘉の三人。
「それにしてもこの国、凄いわね。素直に賛辞を送るわ、こんな国がたった一年程度で出来たなんて信じられないもの」
「別に俺の力ではない。俺のもとに集ってくれた部下たちが優秀だっただけのこと。ふむ、ならばこれだな」
「おにいさん、他人には嫌な手を指すとか言っておいてえげつない手を指しますねぇ。う~む、少し時間が欲しいのです」
珍しく頭を抱えてしまう程イクをよそに、曹操は拳を震わせている。
「桂花、稟、風、帰って早速軍議を行うわよ」
そう口にして背中を向ける彼女だったが、ついてきたのは荀彧一人だけ。廊下まで歩いてからそのことに気づいた彼女は慌てて引き返してくる。
「稟、風、聞こえなかったのかしら? 私は帰ると行ったのよ」
「ええ、どうぞ風のことなどお気になさらずお帰りください曹操殿。風ちゃんは、この局面を打破する一手を探すのに忙しいのです」
「我々にはこの国でやることがありますので、お帰りになられるのであればお二人でお願いします、曹操殿」
二人の言葉を聞いて彼女は自分の顔から血の気が引いていく音を聞いてしまう。真名ではなく呼ばれたという事実が嫌な方向へと彼女の思考を引き込んでいく。
「華琳様に対してその口の利き方。二人共理由があるのなら説明しなさいっ」
「まだ気づいていなかったのか、お前ら。仕方ないな」
声を荒立てる荀彧に対してため息をひとつついて伊邪那岐は言葉を続ける。
「少しヒントを与えてやろう。一年と少し前、どうしてお前らは袁紹が劉備たちを攻めることを知ることができたのか。王朝に戦いを仕掛けた際、虎狼関にて俺の狙いを見抜くことができたのか。その二つにどうして稟と風の二人が関わっているのか」
袁紹が軍を動かすから進軍の好機だと進言してきたのは程イク。関所において彼の策を見抜いたのは郭嘉と程イクの二人。曹操は二人の能力が高いからだとタカをくくっていた。だが、そこに別の意味が含まれているとすれば。
「まさかっ」
「ようやく合点がいったようだな。その通り、こやつら二人は最初から俺の部下だ。当初の予定であればお前が孫策と雌雄を決したあとに口にするつもりだったが、お前に預けておくには勿体なさすぎる」
「嘘よ。それならどうしてあの時に連れて行かなかったのよっ」
「「あの時?」」
「おそらく、俺が曹魏を出た時のことを言っているのだろうよ」
彼の言葉を聞いて納得が言ったように郭嘉と程イクの二人は手を叩く。
「あの時よりも前に指示が我々二人にはくだされていましたからね。それに、その後も何度か文を頂いておりました」
「正直にいえば、敵対した時や姿を消したり現したりした時には肝が冷えましたねぇ。でも、そのことについてもあらかじめ連絡を受けていましたから。それを悟られないように演技をするのが大変だったのです」
「どこからどこまでが偽りだったというのよ」
その場で膝をついてしまう曹操に対して彼が投げかけた言葉は優しさではなく、刃をかたどったもの。
「さぁな。そんなことは自分で考えろ。ただお前に教えてやれることがあるとすれば、恐るべきは目の前の敵ではなく姿の見えぬ敵。それぐらいだろうな」
「伊邪那岐、あなただけは絶対に許さないからっ」
捨て台詞を残し、曹操を起こして一緒に室内を去っていく荀彧。
「それでひとつ聞きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「なんぞ?」
去っていく二人には視線すら移動させず伊邪那岐は問いかけてきた郭嘉へと視線を移動させる。
「なぜこのタイミングだったのですか?」
「それは風ちゃんも聞きたいですねぇ。お兄さんの考え方からして曹魏が孫呉を滅ぼして曹操殿と添い遂げるのが、大陸をひとつにまとめるには一番手っ取り早くて確実だったはず。それなのに、曹魏の陣営をこのタイミングで削る意図が不明なのです」
「ああ、簡単なことだ」
将棋の駒を移動させてから彼は言葉を紡ぐ。
「曹操は這い上がった経験がない。相手取る孫策は這い上がってきたもの。その経験は戦力差以上に決定的なものになる。その経験がないものはいつか必ず足元を掬われる。だからこそいま叩き落としておく。同じ舞台に二人を並ばせるために。ちょっとした親切というやつだ」
「お兄さんはドエスですねぇ」
「ちょっとした親切で施した相手を凹ませすぎだと思いますが」
改めて自分たちの主のもとへ戻ってきたことを実感した二人は同時にため息をついてしまう。
「なかなか面白い話をしてるみたいねぇ~。私も混ぜてよ、伊邪那岐?」
「盗み聞きしておいていけしゃあしゃあと」
「孫策殿に周瑜殿」
姿を現した二人に対して郭嘉は緊張感を体全体で示すものの、将棋盤を挟んでいるふたりは自然体を崩してはいない。
「ちなみに伊邪那岐、お前の予想では我々孫呉と曹魏が戦った場合、どちらが勝つと見ているのだ?」
「勿論私たちよね?」
「七対三だな」
程イクが差してきた一手に対する次の一手を思考しながら、彼は二人の問いかけに対して短く答える。
「風は六対四ぐらいだと思うんですけどねぇ?」
「なら、それぐらいなのかもしれんな」
一手を指し、そこで程イクが長考状態に入ったことを確認してから彼は言葉を紡いでいく。
「袁術を滅ぼしたとはいえ、孫呉は未だ一つの意志の下に統一されたわけではない。加えて軍師が二名抜けたことを考えても数の利は曹魏にある。戦う場所を指定し、地の利を得たところでとてもではないが覆せるほど簡単なものではない。だから七対三でお前ら孫呉側が不利だと俺はいったのだ」
「「なっ」」
「第一に袁術が煽動したとはいえ反乱が起きる数が多すぎる。これは単純にお前たちに対しての不満が各地で溜まっていることを意味している。二つ目に、お前らは孫呉を奪い返しただけで曹魏は他の諸侯の国を飲み込んでいる。最初から立っている土俵が違う。最後に、お前ら俺に対してしたことを忘れたか?」
その言葉を受けて二人の口が閉ざされる。
「俺は気にしていないが、俺の部下たちはお前たちが俺にしてきた行いに対してひどい憤りを感じている。曹魏を一度でも退けることができれば次に相手取るのはこの国。疲弊していようが容赦なく俺は攻め滅ぼすぞ」
そう、彼と曹操が交わした血判状で互いに黙認するのは一度だけ。その後麟が孫呉を攻めたとしても、誰に文句を言われるいわれもない。しかも、半年の間をあける休戦協定が適用されるのは曹魏にのみ。曹魏が一度の侵攻で孫呉を滅ぼせなかった場合、追い討ちをかけるように麟が孫呉に攻め入ることはできるのである。
「曹魏に対しても同じこと。血判状に綴ったとおり、俺が関わっていない状況であれば約定を破ることは叶わぬが、既に俺は巻き込まれた。どちらを先に滅ぼすか、それとも同時に滅ぼすか。全ては俺の決定次第ということだ」
そこで初めて二人は敵として強大な人物を回してしまったことに気づく。王朝での戦い然り、先日の袁術との戦い然り、目の前の人物は今まで敵対してきた人間の誰とも違う。自分の存在を最前線にあえて投入することによって、誰もが言い訳を口にできないほど渦中に己の存在を置く。先日の袁術の戦いにしたって、兵を使って戦をすれば曹操や周瑜が漬け込む隙はまだあった。それを自分一人で戦うことによって彼女たちの逃げ道を殺したのである。
「ねぇ冥淋、私ちょっと面白いことを思いついたんだけど」
「雪蓮、どうせロクでもないことでしょう? あとにしなさい」
「そう言わずにちょっと耳を貸してよ」
二人して内緒話をし始めるが、結論に至るまでにはかなりの時間がかかったらしく、結論が出た時には伊邪那岐と程イクの打っていた将棋が程イクの勝利で終了したあとだった。
「ねぇ伊邪那岐、あなたが孫呉に兵を向ける理由は私たちが武力を持っていて、あなたの家族でも同志でもないからよね?」
「珍しく的を射た意見だな。何か悪いものでも食べたのか?」
「失礼ねっ。私だってちゃんと頭使うことぐらいできるわよ」
「雪蓮っ」
「ううっ」
彼の手管によって逆上させられそうになった孫策を諌め、周瑜が代わりに言葉を紡ぐ。
「雪蓮が口にしたことが理由であるなら、それを回避する方法も我々にも残っていると思うのだが、違うか?」
「大方予想がつくな」
その言葉を口にして彼は両耳を塞ぎ、瞳を閉じる。
「おにいさん、どうしたんですかぁ?」
「聞きたくないのだ。周瑜が次に口にする言葉が俺の予想通りだとすれば、なおさら聞きたくないし唇の動きも見たくないのだ」
「お前が雪蓮を娶る、もしくは孫家の三姉妹のうち誰かと婚姻を結べばこの事態を回避することができる」
「そうよ、だって家族を殺そうとするバカなんているはずないもの」
周瑜の言葉に便乗するように孫策が追い討ちをかけてくる。
「お前のようなじゃじゃ馬はいらん」
「なんですってぇ」
「ならば蓮華様はどうだ?」
「姉に対する劣等感の塊などいらん」
「ならば小蓮様は?」
「顔も見たことない人物などいらん」
腕組みして周瑜の言葉に首を振り続ける伊邪那岐。いくら和平のためとはいえ既に四人の妻がいる身。これ以上妻が増えてしまっては彼の体が持たない。現状でも常にレッドゾーンなのだから。
「なら、私ならどうだ?」
思ってもみなかった周瑜の言葉に彼は即答することができない。それを好機と見た彼女は一気にまくし立てる。
「ふふっ、即答しないところを見ると一考の余地ありといったところだな。なら話は早い。早速お前を孫呉へと招待しよう」
「お前なぁ、俺には立場というものがある。そうひょいひょいと国を開けられるわけがないだろうに」
「なぁに、そのあたりは任せておけ。話術と思考の誘導は軍師の専売特許。伊邪那岐、お前は孫呉へと向かう準備だけしておけばいい。あとは私が何とかしておく」
「はぁ、数秒前の俺を恨みたい。もう勝手にしてくれ」
「ふふっ、勝手にさせてもらうさ。それと伊邪那岐、呼び方としてはどうすればいい? 私としては旦那様が最有力候補なのだが、他に好む呼び方があるというのであれば候補に加えよう」
「俺が知るかっ」
周瑜さんが壊れました




