第八十六幕
前回のあらすじ
二人の王が見守る中袁術と衝突する主人公
「止まれ」
激情を押し殺した鉄の声が土煙を起こしながら進んでくる騎馬の足を強制的に停止させる。今は刀に手をかけていないものの、伊邪那岐の足元には一本の線が引かれており、それを踏み越えてくれば容赦なく彼は刃に手をかけることだろう。
「袁術殿とお見受けする。我が名は伊邪那岐。麟の国主たる者。此度、我が国の領土へとなにゆえ進行してきたのかお聞かせ願いたい」
いつものように相手の考えを聞いてから対応を決めようとした彼だったが、今回はそれが災いしてしまう。
「わははっ、蹂躙するのじゃ。孫策も曹操もこの国も滅ぼして妾がこの大陸を統べるのじゃ」
「美羽様、人の話聞かなすぎですぅ。そこが可愛いんですけど」
袁術は袁紹よりも子供。もとより彼女の頭に誰かと話し合って物事を解決するという選択肢は存在していない。彼の足元の線をやすやすと越えて進軍してくる袁術の軍勢。その時に何かが砕ける音が馬のひづめの音に掻き消えていく。音の発生源は伊邪那岐。あまりの怒りに噛み締めた奥歯を砕いてしまったらしく、血と共に吐き捨てて着物の上をはだけさせる。
露になった彼の上半身。背中以外の場所には裂傷であったり火傷であったり、傷のない部分が見当たらないほどに酷い状態。その状態で彼は刀をふた振りとも抜き放ち、静謐な声を上げる。
「返答が進軍というのなら是非もない。もはや問答の余地は無し。命乞いをしようが俺に背中を向けようが、お前らはなで斬りだ」
その言葉と共に彼を追い抜いていったはずの騎馬兵の首が宙を舞う。上から戦況を見守っていた者たちは揃って自分の目を疑う。視界が悪いだけではない。彼らの動体視力をもってしても伊邪那岐の動きをその目に移すことができていない。次々に飛んでいく兵士たちの首、地面へと叩きつけられる馬。一箇所で炎が上がるのと同時に血が大地にしみこみ、大砲の直撃を受けたかのように臓物が地面に色を加え、悲鳴や怒号が世界に響き渡っても殺戮という言葉を体現した暴風はとどまることを知らずに吹き荒れ続ける。
「これは、まさか」
「布都殿、知っておられるのですか?」
「知ってはいる。だが、俺も初見。説明することはできない」
「どういうことよ、それ?」
「この技はかつて、伊邪那岐が妻を失った際に剣の里にて使った技。その歩みは颶風にして、あらゆるものを吹き飛ばす。その刃は獄炎と風神にして逃れる術は無し。結果として、その時里にいた者たちはあいつを視認することも抵抗することもできずに全滅し、里自体も壊滅状態になっていた」
殺戮技巧総集、極みの疾風、兇刃乱櫻殺戮陣。
円界による知覚の拡張、奔流による感覚の鋭敏化、それらを合わせた俯瞰絵図による空間支配。それに彼の奥の手である歩法の肆、止脚による衝撃波を伴う視認不可能の移動を加えただけでは飽き足らず、殺戮技巧の極みにまで達した彼の技は大気との摩擦熱で焔を生じ、真空の刃だけでなく触れたもの全てを焼き払う。人知れず鍛錬を続け、己を鍛え続けたからこそ到達することができ、長い歴史を持つ剣の里においても誰ひとりとして触りを真似ることも模倣することすらできなかった秘伝中の秘伝。そしてこれこそが、彼を大蛇と称して恐れられるようになった所以の技。
戦場を上から見ていた人間の視界に伊邪那岐が映った時、戦闘が開始されてから五分と経っていないはずなのに既に戦闘は集結していた。雄々しく自らの足で大地を踏みしめているのは伊邪那岐ただ一人。兵士たちは全滅し、馬でさえ生きているものは一頭たりともいない。残っているのは彼がわざと残した恐怖で震える体を互いに抱きしめ合っている袁術と張勲の二人だけ。率いてきたはずの八千の軍勢は言葉通りに殲滅されてしまっている。
「「あわっ、わっ、わっ、わ」」
誰であろうと悪夢だと断ずることだろう。目の前で起きた阿鼻叫喚の事態。圧倒的優位を確信していた状態からの絶体絶命。自分を徹底的に律することのできる人物であっても、このような事態に直面してしまえば冷静さを保ち続けることはできないだろう。
そんな二人の前に一歩ずつ近づいてくる伊邪那岐だったが、彼の肉体は至るところで内出血を起こし、自分の移動によって飛んできた小石や木々によって出血の量も酷いもの。それでも殺気は収まるどころか勢いをさらに増している。
「何か言うことはあるか?」
「ごっ、ごめんなさいなのじゃ。悪気は決してなかったのじゃ」
「美羽様ってば嘘ばっかり。でも、命乞いのセリフとしては完璧ですぅ」
近づいてくる鋼の声に対し二人はどうやら命乞いをしているらしい。こうされてしまえば王は相手に手を出すことができない。降り首は恥と武人である彼らは徹底的に教え込まれているから。
「それで?」
だが、目の前の人物にはそんな行為は通じない。彼は武人ではない。王という肩書きはあるものの、その根源にあるのは人殺しのそれ。一度敵対した相手であれば命乞いをしてこようとも投降してこようともその首を刎ねる。
「なっ、なんでも言うことを聞くから許して欲しいのじゃ~」
「ほらほら、ここで相手を許すか許さないか、度量の見せ所ですよ?」
「ならば、この場で貴様ら二人殺しあえ。生き残った方は見逃してやる」
「うっ、嘘じゃろ?」
「またまた、冗談がお好きですねぇ」
「五つ数える間だけ待ってやる。二人共死ぬか、部下、もしくは主君を殺してひとり生き残るか選べ」
伊邪那岐は刀を大地に突き刺して二人から若干距離を取る。その言葉を受けた二人は互いに視線を交錯させ、
「なっ七乃、どうすればよいのじゃ?」
「みっ、美羽様、どうしましょう?」
自分たちが初めて逃げ場のない選択肢を突きつけられたのだとようやく理解する。しかし、目の前の人物に対して思考するにはその時間はあまりにも短すぎたと言えよう。
「五つ数え終えた」
その言葉と共に袁術の目の前で張勲の首が飛ぶ。あまりのショックに袁術は気を失いそうになるが、自分の顔にぶつかってくる血液と鼻と口に飛び込んでくる生臭い臭いが意識を手放すことを許しはしない。
「なっ七乃~。貴様っ、人の命を一体何だと思っているのじゃ」
「大切なものだと思っているよ。ただし、俺の国に存在する命だけだが」
「このっ、この悪党めっ」
「その言葉は喜んで受け取っておこう」
涙を瞳に浮かべて彼を睨みつける袁術だったが、彼女が出来たのはそこまで。次の瞬間には彼女の首も宙に舞い、二つ目の生臭い噴水に変わり果てていた。
「何を呆けているのだ貴様らは」
「「陛下」」
歩法で城壁に一瞬で移動した彼は早速悪態をつくが、その足取りは口ぶりと反比例して弱々しい。
「桔梗はすぐに部下とともに火矢を放ち、亡骸を全て焼き払え。その後火が消え次第死体の処理に入る。布都は城壁の損耗確認。碧は待機している者たちに指示を与えろ」
「はっ」
「わかった」
「ですが、それよりもまず陛下のお体を」
「俺の体は後回しだ、さっさと指示通りに動け。この程度の傷であればすぐには死なん」
「ですがっ」
「聞こえなかったか?」
「直ちに」
指示を飛ばし、その場に自分の陣営の人間がいなくなったことを確認してから彼は口を開く。
「袁術はお前たちの狙い通り片付けてやった。とっとと自分たちの国に帰り戦の準備をするといい。それとも、この場で俺の首を刎ねておくか? 今の俺であればお前らの腕でもお釣りがくるほど簡単に殺すことができるぞ?」
目の前にいる伊邪那岐は満身創痍の状態。そして、彼の口にしたとおり彼を討ち取る好機が目の前に転がっている。今ここで彼を殺しておけば後に相手にすることになる強大な国に大打撃を与えることができる。だと言うのに、彼女たちは動けない。王としての矜持、武人としての誇りが刃を握ろうとする手に鎖となって絡みついてくる。
「できぬようだな。それがお前らと俺の埋めようのない差だ。俺なら迷わずにこの場で首を落とす」
言葉は壁となって立ちはだかる。彼女たちには己を殺し、自らを悪とみなして手を汚すことができない。その行為をしてしまえば自分が築き上げてきたものを全て失ってしまうと思っているから。
「陛下、無事かいな?」
「陛下、大丈夫かよ?」
声を上げながら近寄ってくる張遼と姜維の二人を確認した彼は彼女たちに対して背中を向ける。
「足元がふらつく。済まぬが霞、肩を貸してくれ」
「無茶しすぎやで陛下。うちらはいつだって傷つく覚悟も戦う準備も出来とる。少しぐらい頼ってくれたってばちは当たらへんて」
「すぐに医療所に連れてく。手当てが終わったら説教確定だからな、覚悟しておけよ陛下」
二人の肩を借りながら去っていく伊邪那岐。その後ろ姿を睨みつけながら、孫策と曹操は二人同時に城壁に拳を叩きつける。言葉には出さなくても、彼女たちの腹心である周瑜と荀彧の二人には理解できていた。
自分たちの主が敗北を喫してしまったのだということを。
敗北は認めて受け止めてようやく敗北です




