第七十四幕
前回のあらすじ
鈿女さんってすごい人だったんだね
その日の夜、許昌の宮では舞踏会が開かれ、曹操の部下は勿論のこと伊邪那岐の部下たちと劉備、関羽の二名も招かれていた。ただ一人、招かれたものの姿を現さない伊邪那岐を除いて。
「陛下はどちらに行かれたのでしょうか?」
「霞、何か聞いていないか?」
「うちも知らん。紅葉、あんたは?」
「あたいも知らないよ。そもそも、あたいが知ってたらあんたたちも知ってるはずだろ?」
それぞれドレスを身に纏い、めかしこんだ麟の面々だったが見せたい人間がその場にいないのでは意味がない。声をかけてくる男性たちを無視して彼女たちは会場内を手分けしてくまなく探してみたものの、彼の姿はどこにもない。
「あっ、みなさ~ん」
四人を見つけ、声をかけ近寄ってくる劉備。同行している関羽も彼女たち同様にドレスを身に纏い着飾っている。
「伊邪那岐殿、否、陛下がどちらにいらっしゃるかご存知ないでしょうか?」
「なんや関羽? 麟に来るんか?」
「ああ。先日、桃香様共々お仕えすることになった。それで、身柄を引き受けてくれたことに関してまだお礼を口にしていなくて」
「うっかりさんやなぁ」
「うっかりものだな」
「うるさいっ」
自分では理解しているものの、他人に言われてしまうと腹が立つもの。つい関羽は声を張り上げてしまう。
「ひょっとしてですが皆さん、陛下はこの場にこられていないのでは?」
「その通りですよ~。いやはや、おにいさんも罪作りな方ですねぇ。こんな綺麗どころを放っておくなんて」
「こらっ、風」
彼女たちの会話にいきなり口を挟むようにして姿を現したのは、曹魏の軍師である程イクと郭嘉の二人。彼女たちも会場の雰囲気を損ねないようにドレス姿。
「失礼。お二人は陛下がどちらにいるのかご存知で?」
「いえいえ、流石に風もおにいさんがどこにいるのかは見当もつきませんよ~」
「申し訳ありませんが、私も知りません。ですが、伊邪那岐殿はおそらくこの場所に来ていないでしょう」
「どうしてわかるんですか?」
華雄の質問に親切に答えた二人だったが、その言葉を聞いて劉備が早速疑問を口にする。
「伊邪那岐殿はこの国にいた間、短い期間でしたが一度たりともこういった行事に自分から顔を出したことはありません。一度だけ華琳様にせがまれて姿を見せたものの、半刻も経たない内に姿を消しました」
「陛下って、酒が嫌いなのか?」
「いや、めっちゃ強いで。あれは完全に底なしや」
「ではどうして?」
「おにいさんは嫌いなんだそうですよ、自分目当てで擦り寄ってくる人間が」
その言葉を聞いて、六人は揃って首をかしげてしまう。
「伊邪那岐殿のことですから、おそらく話していないのでしょう。あの方はこの国にいた時、軍師筆頭にして内政の重鎮と認識されていました」
「擦り寄ってくる人間が多かったですからねぇ~。あれはさすがに風も経験したくないです」
「失礼、陛下がこの国にいたのは一ヶ月だけと聞いていますが。一ヶ月で軍師筆頭にして内政の重鎮に?」
「そうですよ~」
「ええ。自分たちの力のなさを痛感するほどに」
これには質問した司馬懿が絶句してしまう。
現在の曹魏は多くの文官を抱えている。その数は大陸中で一二を争うほど。その中でも頭角をしめしているのが軍師筆頭の荀彧、内政の郭嘉、外交の程イクの三名。この三名の知識量や応用力、想像力を司馬懿はだいたい把握している。だからこそ信じられない。たとえ一時とはいえ、この三名をごぼう抜きにしたその実力を。
「あのままこの国にいたら、桂花ちゃんは泣いていたかもしれませんねぇ。憶測ですけど」
「現在の曹魏の治安、部隊の育成基盤を作られたのが伊邪那岐殿です。正直、先の乱で敵対した時には肝が冷えました」
「確かに関所の爆破は怖かったです」
「あれがなければ孫策が袁術から領地を奪還するのにあと一年、いや半年はかかっていただろうな」
各々彼が過去してきたことを口にしていく。それを聞いた司馬懿は絶句していたのも束の間、陶酔状態に入ったらしく瞳をキラキラと輝かせている。
「私の王様は、本当にすごい方なんですね」
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その頃、伊邪那岐は城壁に背中を預ける状態で腰を下ろし、一人で盃を傾けていた。
「どうもああいう場所は好かん。だが、あやつらには悪いことをしたかもしれん。後で一言詫びておくか」
彼の言葉に応じるように懐で鳴き声を上げる銀。それを微笑ましく見た彼は、視線を上空へと移動させる。視界に入ってくるのは満天の星空と、優しくそして朧げに輝く下弦の月。
「全くどうしてあなたはこんなところにいるのかしら? おかげで探しちゃったじゃない」
「華琳か。主賓が抜けてきて良いのか?」
「あなたも主賓のはずなのだけれど?」
彼に声をかけてきたのは舞踏会の会場にいるはずの曹操。彼女は真紅のドレスを身に纏い、腰に手を当てながら眉をヒクつかせていた。
「俺が堅苦しい形式だけの場所に何故行かねばならん?」
「王になったというのに、そういうところは相変わらずなのね。隣、失礼するわよ」
彼の隣に腰を下ろしてくる曹操だったが、その場所には小さな布が敷かれ、彼女が腰を下ろすのとほとんど同時に着物が肩にかけられる。
「あら、優しいのね」
「そんな薄着で風邪でも引かれたら、俺がお前の部下に殺されかねん」
「なら、ついでに一献いただけるかしら?」
「しょうもない奴だな、まったく」
口では文句を言いながら、使っていない盃を彼女へと手渡し酒を注いであげる。それを軽く傾け、
「美味しいわね。お酒がこんなに美味しいと思えたのは久しぶり。上等なお酒だったりするのかしら?」
「酒はそこいらで売っている程度の安酒だ」
「なら、どうしてかしら?」
「晴れやかな気持ちで春は華を、夏は星を、秋は虫の声を、冬は雪を肴に飲めば酒は大抵美味く感じるものだ。それを不味く感じていたというのなら、お前になにかしら悩み事があったのだろうよ」
そう口にして自分の盃を空にして、酒をまた注ぐ。
「ねぇ伊邪那岐、一つ聞いてもいいかしら?」
「なんぞ?」
「あなたは、どうしてそんなに遠くにいるの?」
「俺は俺のいる場所にしかいないが?」
「そういったことを私は言っているのではないわ。こうして体の距離は近いというのに、心の距離はそれに反比例するように遠い。昼間は感じなかったけれど、二人きりになった途端距離を感じる。あなたは何をそんなに恐れているの?」
曹操の言葉は正鵠を射ている。彼は誰であろうとも正面が受け止める。だが、それは周囲に自分の知人がいるとき、もしくは覚悟を決めてきたときだけ。一人でいる時の彼は敢えて他人を寄せ付けない。それが親友であっても必ず一定以上の心の距離を作ってしまう。彼は汚濁を全て飲み込む覚悟を持っている。しかし、それを全て見せられるかと言われれば否と答えることだろう。心を許したものであってもそうでなくても、見せたくない部分が彼にはある。だからこそ彼は一定以上の心の距離を保とうとする。自分の醜い部分を打ち明けるほどの強さを彼は持っていないから。
「お前はどうしてそこまで深く俺を見通せる? 布都や火具土でさえ気づいていないというのに」
「秘密が女を強く、綺麗にさせるのよ」
「答える気はないといったことか」
「ご名答♪」
楽しげに答える彼女に対し、観念したかのように彼は言葉を吐き出す。
「いつ頃からだったかは覚えていないが、俺はもう一人の自分を俺の中に認識するようになった」
「もう一人の自分?」
「ああ。そいつは常に俺に囁き続けてくるのだ。女は犯し、男は殺せ。欲望のままに生き、本能を解放しろと。俺は、俺自身に負けてしまうことが怖い。この闇を誰かに覗かれてしまうことが怖い。俺自身でさえ受け入れていないものを、誰かに認めてもらうことが怖くて仕方ないのだ」
悲しげな眼差しだけではなく、彼の表情が彼女を驚かせる。そこにあったのはいつもの彼のものではない。救いに手を伸ばすことができず、縋りつくことすら躊躇ってしまう弱々しい少年の横顔。
「なら、支えを見つけなさいよ。己自身で立てないというのなら、誰かに肩を貸してもらいなさい。弱さは恥ではない。かつてあなたが私に言った言葉よ?」
「支え、か。そんな奇特な奴がいつ現れることやら」
「ここにいるじゃない」
顔を真っ赤にしながら立ち上がる曹操。
「内容がよくわからないのだが?」
「だから、私があなたの支えとなってあげると言っているのよ。私にここまで言わせたのなんてあなたぐらいのものよ?」
「俺とお前は敵国の人間だぞ?」
「そんなことは関係ないわっ」
その言葉に対していつもの彼であれば茶々を入れるか、軽く流していたことだろう。だが、この状態でそれはできない。目の前の女性はそれが出来るものだと当然のように信じて疑っていないのだから。
「あなたが袁紹を滅ぼし、私が孫呉を滅す。そうすれば残るは私の国とあなたの国だけ。その状態で婚姻を私たちが結べば大陸はひとつになる。私の願いもあなたの願いも叶う」
「机上の空論だ。お前が孫呉に確実に勝てるとは言い切れない」
「勝つわ。私は欲しいと思ったものは必ず手に入れる。それは鬼を相手にしようが、仏を相手にしようが同じこと。あなたを手に入れる為に私は決して負けない」
言い切った彼女の言葉に偽りはない。だからこそ彼の心は過去、そして今も動かされるのだから。
「並大抵のものではないぞ? お前が孫呉を一度で滅ぼせなかった場合、奴らは同盟をこちらに申し込んでくるかもしれない」
「そうなったら、あなた相手でも勝ってみせるわ」
「まったく。どうしてお前の言葉はこうも俺の心を揺さぶるのか」
その言葉を口にして彼は呼吸を止める。理由は、彼の唇が曹操の唇によって塞がれてしまっていたから。そして彼女は、伊邪那岐の首に自分の腕を巻きつけ、抱きついたまま彼の耳元で囁く。
「あなたはあなたのままで生きなさい。そこに恥があろうと汚濁があろうと、別の女がいようと私が支えてあげるから。私が隣に来るまで、あなたが生きていてくれさえいればそれでいい。愛しているわ、伊邪那岐」
主人公、頼むからその立ち位置を変わってくれ




