第七十三幕
前回のあらすじ
純情な女の子には気をつけましょう
一夜明け、曹操に用意された寝室で銀を腕枕しながら伊邪那岐は瞳を閉じていた。いつもであれば近衛である華雄か天照のどちらかが彼を起こしに来るのだが、片方は伝令、片方には暇を与えているので彼を起こしに来る人物は誰もいない。そのはずだった。
「いつまで眠っているのだ、貴様はっ」
勢いよく扉が壊され、室内へと足を踏み入れてくる人物。そんな人物、彼が生きてきた中で一人しか出会っていない。
「客人の部屋の扉まで壊すとは、一度礼儀を勉強したほうがいいのではないか、春蘭?」
「ぬっ? 貴様にそう呼ばれるのも久しぶりだな。だがな、貴様が華琳様に向けた暴言の数々、私は許した覚えはないぞ」
「まったく、相変わらずの猪武者め」
「だから私と決闘しろっ」
「話の関係性がみえんな。すまぬが、通訳してくれ秋蘭」
「姉者はこう言っているのだよ、無事でなによりだと」
「うむっ」
「どこをどう翻訳すればそう言う言葉になるのか。起こしてくれたことに関して礼は言っておくが悪いな、俺は今日一日華琳に付き合うことになっている」
体を起こし、二人が室内にいるというのに着替えをし始める伊邪那岐。そこで、彼の部下であれば室内からすぐに出ていくのだが、二人は出て行かない。それどころか、彼の体を観察するように見ている。
「俺の着替えなど見て楽しいものではあるまい」
「いや、そのなんだ?」
「伊邪那岐、お前、また傷が増えたのではないか?」
「傷が増えたのは俺が未熟な証明だ。まだまだ精進が足りないらしい」
着替えを終え、懐に銀を入れた伊邪那岐は二人の横をすり抜けて室内を出ていく。夏侯惇はともかく、夏侯淵は彼の言葉を聞いて思うところがあるらしく、彼の背中に向けて言葉を投げかけていた。
「あれほどの腕がありながら、まだ満足できないとは。どれほど高みを目指しているというのだ、あの男は」
◆◆◆◆◆◆◆◆
「それで、俺はなぜこのような場所にいるのだ?」
「あら、今日一日私に付き合うことを条件に関羽をあなたにあげたはず? きちんと前払いで関羽は渡したはずよ?」
「あれか、要するに荷物持ちを俺にしろというのか?」
「さぁ、それはどうかしらね?」
伊邪那岐が疑問に思うのも無理はない。彼が曹操の提示した条件をのみ、連れ出された場所は衣服を取り扱う店。そこで曹操は試着をするたびに彼に意見を求めてくる。最初のうちは彼も特に口を挟むことなく従っていたのだが、流石にそれが二桁の店を回ることになれば文句の一つも口にしたくなってくる。
「くぅぅ、どうしてあんな奴を華琳様は連れ回してるのよ。買い物であればいくらでも私が付き合うのにぃ」
「華琳様と一緒に出かけることなど、私でさえあまり経験したことがないというのに」
それに加え、バレていないと本人達は思っているのだろう。宮を出た時からついてくる荀彧と夏侯惇、成り行きを見守っている夏侯淵の三人の下手すぎる尾行。いくら伊邪那岐の精神がほかの人間と比べて頑丈でも、流石にこれにはまいってくる。
「華琳、あれはどうにかならないのか?」
「なんのことかしら?」
気づいているのかいないのか、答えをはぐらかす曹操。その言葉を聞いてため息を付きながらも伊邪那岐は彼女に従って次の店へと足を踏み入れる。
「あなたは何色が好きなのかしら?」
「俺か? 俺に色の好みなどないぞ」
「そう。なら聞き方が間違っていたみたいね。私には何色が似合うと思う? あなたの主観でいいから教えなさい」
曹操の言葉を受け、軽く腕組みをしてから彼は答える。
「赤、もしくは橙だな」
「へぇ。それはなぜかしら?」
「お前の生き方は苛烈にして鮮明故に、太陽によく似ている。時には焔のように熱く、また時には陽だまりのように暖かい。そこから連想しただけだ」
「なるほどね。なら、私にはどちらが似合うかしら?」
にこやかに口にして彼女が手にとったのは真紅と橙の二色。ただ、一瞬だけ彼が言葉に詰まってしまったのは、彼女が手にしていたものが通常の衣服ではなく下着であったから。
「下着など誰に見せるものでもなかろうに。お前が好きな方を選べばよいではないか」
「私はどちらが似合うのか聞いているのだけれど?」
その言葉を受けてため息をつく彼だったが、一方では、
「くぅぅ。華琳様の下着を選ぶ名誉を与えられながらあの態度。秋蘭、ここであの男を射殺すことは可能かしら?」
「私が今すぐにでも斬り殺して来てやるっ」
「待て、姉者に桂花。ここでは人目が多すぎる」
尾行している三人の怒りが膨れあがり、彼を殺すことすら計画されている始末。その様子が見て取れるものだから、彼の肩はだんだんと重くなってくる。
「赤だな」
「そう、なら店主これを貰うわ」
彼の言葉を受け、迷うことなく会計を済ませる曹操。
そこから更に靴屋、飾り物屋、雑貨屋などを巡り、気がつけば時刻は昼を回っていた。
「そろそろお昼にしましょうか。あなたたちも一緒に来なさい」
「やはり気づいていて放っておいたのだな、お前」
曹操の言葉を受け、三人を加えた状態で店へと足を踏み入れた五人。そこで彼女は席に着くなり、話を切り出してきた。
「ねぇ伊邪那岐。あなたの亡くなった妻のことを聞かせてもらっていいかしら?」
「藪から棒に、いきなりどうした?」
「秋蘭に聞かされてからずっと興味があったのよ。心を閉ざしていたあなたが傍に居たいと願った女性がどんな人なのか」
彼女の言葉に夏侯姉妹だけでなく、荀彧も聞き耳を立てている。それもそのはず、この国にいる人間は誰ひとりとして、彼が愛した女性のことを知らない。形見を傷つけられたことで感情を制御できる彼があれほど激昂したのだ。
「俺の主観でしか話せぬが、それでもいいのか?」
「ええ」
「名前は鈿女、歳は俺よりも二つ上。外見だけ言うのであれば、美女と呼ばれる類ではない。そして、性格は苛烈の一言に尽きる」
夏侯惇を除き、料理を注文することなく三人は彼の言葉に耳を傾ける。
「苛烈とは?」
「言葉通りの意味だ。気に入らぬことがあれば俺を殴りつけ、苛立てば家具を殴りつけ、癇癪を起こせばまた俺を殴りつける。言葉よりも手が先にでるのではない。手を出してから話すのが鈿女という女だ」
「なかなか強烈ね」
「加えて炊事に洗濯、掃除に裁縫。その全てが壊滅的といっていいぐらいに下手くそで、むしろある種の才能があるのかと思った」
「それは、凄いな」
彼の言葉を真実と受け取ってはいるものの、三人は想像できない。どうしてそんな人物に彼の心がそこまで惹かれたのか。そこが全く見えてこない。
「行動原理は子供のそれ。我慢というものを覚えようともしない。その割に人には我慢を強いる。唯我独尊とはあいつのために用意された言葉だと思ったほどだ」
「ねぇ伊邪那岐。あなたがその女性にその、惚れた要因が一つも見当たらないのだけれど、なぜかしら?」
「なかなか豪快な女性ではないか」
「姉者も似たようなものだと思うが?」
「その程度のことで、お前らは人を嫌いになったりするのか?」
「「「えっ?」」」
だが、彼の言葉は三人の予想をいとも簡単に裏切る。そして、心の底からそう思っているように彼の言葉は穏やかそのもの。
「性格に容姿、家事ができるか否かなど瑣末なものだ。口にすれば恥ずかしいが俺は、あいつの在り方に惚れたのだよ。誰よりも豪快に笑い、泣く。自分が困っていたとしても、目の前に困っている人間がいればすぐに手を差し出す。自分を偽ることなく誇り、まっすぐに胸を張る。そんなあいつに俺は憧れ、同時に憎んだ」
「憧れると同時に憎んだ?」
「ああ。俺にはそのような生き方ができないと憧れ、どうして俺にはできない生き方をあいつができるのかと憎んだ。でもな、あいつと一緒にいると俺は、ちっぽけなままの自分でいられた。今思えば、俺はあいつに甘えていたのかもしれない。すべてを包み込んでしまうあいつの心に」
その言葉は彼の本心から出たものなのだろう。その証拠に彼の表情はとても柔らかく、微笑しているようにも見える。
「王となった今だからこそわかる。誠に王になるべきだったのは、俺ではなくあいつの方だったのではないかと。あれほど、人の心を開かせる人間に俺は未だに出会えたことはないからな」
「それはそうよ。自分には決して、出会えるはずないもの」
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、別に」
伊邪那岐は気づいていない。今彼が語った女性は、王となった彼の姿そのもの。憧れとは自分には届かないからこそ抱く感情。その感情を持っているからこそ、彼には自分の姿が見えていない。誰よりも優しく、傷ついても膝を屈することのない強き王。目指している姿になったことに気づけないのは、案外本人だけなのかもしれない。
「それで、何故その女性は命を落としたのかしら?」
「思い当たる節はいくつかある。だが、一番の死因と考えられるのは自惚れかも知れぬが、俺の未熟さだろうな」
「あなたが未熟?」
「ああ、まだまだだ。力も知恵も足りない。傲慢と言われればそれまで、それを他の者は望まないかもしれないが、俺は全てを守れる男になりたいのだよ。傷つくのは、俺一人で十分だ」
「それは、確かに傲慢ね」
「自分でもわかっている。だがな華琳、俺はもう、誰かを見送ることも誰かに見送られることも、どちらも御免だ」
毎度思うんだけど、どうして曹操さんの前ではすなおになるんだろう?




