第七十二幕
前回のあらすじ
誤解が解けましたとさ
そこは薄汚れていて、快適に生活できる環境と決して呼べる場所ではない。そんな場所で両手を壁からの鎖につながれた関羽は幽閉されていた。
幽閉されてからおよそ十日の日数が経過しただろう。その間、体を清めるどころか食事を与えられることもなく、関羽は己の武人としての矜持だけを支えに極限状態に近い精神をなんとか保っている状態。
「随分と無様な状態だな。もっとも、負け犬にはお似合いの姿と言えなくもない」
そんな関羽の前に柵越しで現れた伊邪那岐と司馬懿の二人。彼の瞳と言葉はいつも以上に冷たく、目の前の関羽を見下ろすのではなく、完全に見下していた。
「貴様が何故、ここに?」
「劉備は今、俺の元にいる」
その言葉を聞いて関羽の表情が凍る。問に答えるのではなく、彼女の欲している答えを先に突きつけ、彼は言葉を続ける。
「お前を助けるために俺を頼ってきた。敵国の王である、この俺を」
「では、桃香様は無事だというのだな?」
「ああ。だが、あやつはもはや王ではない」
「どういうことだ、それは?」
「お前を助けるためにいくつか条件を出した。あやつがそれを飲むかは別として、引き連れてきた民は全て国民として俺が迎え入れた。理解したか? お前たちの国は既にない。国を持たぬ王など、存在しない」
持ち上げたあとに叩きつけられてしまった関羽。あの時の彼女の判断は、劉備たちを民たちと一緒に逃がすための苦渋の決断。それが失敗であったことに、どうして彼女が気づけよう。
「私は、桃香様のことを思ってこの身を交渉材料としたというのに。その全てが無駄だったというのか」
「ああ、無駄以外の何物もでもなかった。むしろ、足を引っ張ったほどだ」
「貴様っ」
追い討ちをかけるように伊邪那岐は言葉を吐く。それに対して関羽は激昂するものの、自分の判断が絶対のものとは言い切れず、言葉を続けることができない。
「そして、お前は曹操から俺がもらった。この意味がわかるか?」
そして、彼の言葉は関羽の心に突き刺さる。民を奪われ、王としての力も奪われた劉備を守るものはこの世に存在しない。仲間がいるにしても、この時代の猛者たちの軍勢を相手取れば全滅は必至。つまり、劉備はいつ殺されてもおかしくない状態になってしまったといっていい。
「ひとつ聞くぞ、関羽。なぜ貴様は、否、貴様らは劉備に現実を教えなかった?」
「あの方の理想が美しいと、そう思ったからこそ、その理想を汚したくなかった」
その言葉を受け、一層伊邪那岐の瞳の温度が下がる。吹雪が降りしきる雪山がまだ暖かいと思える程に。
「王が王なら、部下も部下。俺は貴様らに幻想を抱いていたようだ。まさか、ここまで頭が幸せなやつらとは思っていなかった」
「なんだとっ」
「理想と現実はいつだって背中合わせで向き合わぬもの。それに折り合いをつけ、自身の望みをいかにして叶えていくか。それこそが王たるものの抱える命題」
「だからといって、桃香様の理想は決して貴様にも否定はさせん」
「別に俺は肯定も否定もしない。ただ、貴様たちの甘さが劉備の王への道を絶ち、民を危険に晒したことだけは揺るがぬ事実だ」
彼の言葉は間違っていない。だからこそ司馬懿は口を挟むことなく、二人の会話に耳を傾けている。
「私たちが桃香様の道を途絶えさせただと?」
「ああ。貴様らがあやつを甘やかしたせいで、あやつは王になれなくなった。むしろ、責任は劉備よりも貴様らにある」
「我々が間違っていただと? そんなことは、貴様には決して言わせん」
「何度でも言ってやる。貴様たちが間違ったせいで劉備は進む道を間違った」
「貴様っ」
残った力で精一杯の怒りを言葉に乗せて叩きつける関羽。だが、
「王とは一人でなるものではない。守るべき民がいて、支えてくれる部下がいて、初めて王となることができる。王もまた人、人であれば間違う。その間違いを正すのが部下たちの使命。貴様たちのようにただ一緒にいる。王の意見に追従する。そんな奴らだけがそばにいて王になどなれるはずがない」
「貴様に桃香様や我々の何がわかる」
「わかるわけがあるかっ」
伊邪那岐の怒号を受け、隣にいた司馬懿だけでなく関羽も体を固くする。
「本当の意味でそばにいたいというのであれば、間違いを正せ、咎めろ。嫌われることを恐れて言葉を飲み込むことなど愚の骨頂。己の心で相手にぶつからず、どうやって相手を理解するというのだ。お前らが劉備にしてきたことは、鳥かごの中であやつを育ててきただけ。世界を知らず、人の心の闇を知らず王を名乗るなど、俺たち王に対する侮辱でしかないわっ」
「それはっ」
「貴様にも理解できていたはずだ。自分が単身で残れば、必ず劉備は貴様を取り戻すために行動するということを」
劉備のことを彼以上に知っているからこそ、関羽は二の句が告げない。そのことを考えていなかったわけでは決してないから。
「人は傷つき、泣き、くじけ、自ら立ち上がることで成長する。それを貴様らはさせなかった。そのせいで劉備は無垢なまま貴様らの手で王にさせられてしまった。自らの手で道を切り拓くことも、汚すことも知らぬ奴にどうして痛みが理解できる? 痛みを理解していないものが掲げる言葉など、誰の心にも響かぬわっ」
関羽は言葉を口にすることができず、司馬懿は恍惚の表情で伊邪那岐を見つめている。彼女がついてきた白馬の王子は、空想の産物ではなく紛れもない本物の王様であると、彼の言葉を聞いて確信を持つことができたから。
「もっとも、口うるさい奴らばかりというのも問題があるがな。俺の国の奴らは何かと俺に説教をしたがるし、手も上げてくる。心配してくれるのは良いが、俺が信頼しているのと同じように奴らも俺のことを信頼して欲しいものだ」
「それはきっと、信頼の裏返しだと私めは思います」
「ほう、何ゆえに?」
関羽を完全に黙らせ、愚痴を口にした伊邪那岐だったが、隣にいた司馬懿の言葉が気になり、耳を傾ける。
「陛下が無事に戻ってきて安心したが故に、説教をしたり、手を挙げたりされるのです。推測ですが、陛下は部下に命じるのではなく、ご自身で物事を解決されてしまうのでしょう? それはそれでいいとは思いますが、部下の方々からしてみれば自分に任せて欲しいという願いが大きいと思われます。陛下の信頼に応えたいが為に。もっとも、私めの見解ですが」
「なるほど、そう考えてみれば俺も改めねばならぬことが多そうだ。まぁ、すぐには無理だろうが」
「陛下、いま口にしたのはあくまで私めの見解であって、決してそれが皆さんの意志かどうかは保証できませんよ?」
「それがどうした? 一人がそう思っていれば、他の者もそう思っているかもしれない。人の言葉に、ましてや部下の言葉に杞憂と判断し、切って捨てていいものなどあろうはずもない」
伊邪那岐は受け止める。否定するよりも肯定するよりも先に、その言葉を正面から受け止める。そして考える。感情をその言葉に対して持つよりも先に、自分がどのように行動したらいいのかを。そんな彼だからこそ、部下たちは偽ることも遠慮することもなく彼に言葉をぶつけてくる。
「やはり、陛下は凄い方です」
「おだてても何も出てはこぬよ。さて、説教は先程までだ、関羽」
そうして牢の鍵を開け、鎖の鍵も外して関羽に自由を取り戻させる。
「私はこれからどうすれば」
「決まっているだろうが。それとも、それすらお前はわからないのか?」
「ですがっ」
「正面からぶん殴って自分の思いを劉備にぶつけてやれ。どうせ物事なんぞ、なるようにしかならん。ただ、動かなければ物事は変化しないだけだ」
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城壁の上、劉備は一人で夜空を見上げていた。一刻前、伊邪那岐にここで待っているように言われた彼女だったが、未だに呼び出した本人は姿を見せてはいない。
思い返せば麟を出てからの彼女はずっと一人きり。知り合いであるはずの伊邪那岐、天照も声をかけることすらしてくれず、自分から声をかけることもできず。声をかけようにも、彼らのいる位置が遠すぎて勇気が出てこない。自分が立ちたいと望んだ場所に立っている伊邪那岐。ただ、立ちたいと望んだ自分ができたことはほとんどない。麟で言われた言葉が彼女の胸に突き刺さる。自分は、自分の意志で進んでいたのではなく周りの流れに流されていただけ。自分の意志で選んだ道は戦うことではなく逃げる道。そのどれもが、彼女の心を傷つけていく。どうして自分は、自分の意志で一歩を踏み出すことを恐れてしまったのか。後悔が重くのしかかり、立っていられなくなった劉備は壁に背中を預け、そのままその場所で腰を下ろしてしまう。
「まったく、桃香様は泣き虫ですね」
その声が聞こえてきた瞬間、彼女は立ち上がり周囲を確認する。先ほど聞こえてきた声は間違いなく関羽のもの。自分たちを逃がすために、自分を犠牲にしてくれた大切な部下であり家族のもの。
「そんなことでは他の者に示しがつきませんよ?」
「愛紗ちゃん」
声と共に姿を関羽が表せば、すぐさま駆け出し彼女へと抱きつく劉備。その瞳からはとめどなく嬉し涙が流れてくる。
「どうして、曹操さんに捕まってたんじゃ?」
「ええ。そのことについては後ほど。それよりも今は」
言葉を言い終わるやいなや、関羽の平手打ちが劉備の頬を襲う。叩かれた本人は、頬に感じた痛みよりも、どうして叩かれたのか理解できず言葉を口にできない。
「どうして桃香様は私を救いになど来たのですかっ。私は決して、救って欲しくなどなかった」
「えっ? だって、愛紗ちゃんは家族で、大切な仲間で」
「だからといって、王が民を、部下を他国に託してくるなど正気の沙汰ではありません。私は、王である桃香様を守るために己の命を捨てたのです。その誇りを、貴方様は踏みにじったのです」
「どうして、どうしてそんなこと言うの? 私は愛紗ちゃんを救いたくって、いろんなところで頭下げて、ようやく会えたっていうのに」
「それが王のなさることではないと私は言っているのです」
「大切な人一人救えないなら、私は王なんかじゃなくっていい」
その言葉を聞いて、今度は関羽が凍りついてしまう。自分たちは、これほどまで自分たちを大切にしてくれている主を王として祭り上げてしまった。それも、共に成長することも、傷つくこともさせずに。彼女の頬を伝う涙が雄弁に告げている。私は大切な人と一緒にいられれば、立場なんていつだって捨ててやると。
「関羽、お前の負けだ。俺よりもお前の方が知っているように、そこの馬鹿は一度決めたら譲らぬよ。それが大切なものであるのなら尚更な」
城壁で言い争う二人の前に姿を現したのは伊邪那岐。その瞳に宿っている感情が珍しく二人にも読み取ることができたのは、彼が意識して表に出しているからだろう。
「劉備だけでなく、咲耶の望み通り関羽は救った。あとはお前らの決断次第」
「私は、条件を飲みます」
「いけません、桃香様」
「でもっ」
関羽はこの場所に来る前、彼の口から劉備につきつけた条件のことを聞かされている。
「結論を急ぐなよ、阿呆ども。この条件を劉備が承諾することなく、関羽を救い出すための方法がひとつだけある」
「「なっ」」
その言葉は寝耳に水。条件を突きつけた本人が口にするのだから間違いはないだろうが、彼の口から出てくる言葉は慎重に判断しなければならない。
「俺としてはあまりこの方法は取りたくない。だが、決めるのはお前らだ。それを踏まえた上で聞きたいか?」
「はい」
彼の言葉に真っ向から瞳を見据えて劉備は頷く。そんな彼女を見たからこそ、仕方ないと言わんばかりにため息をついてから彼は口にする。
「俺の生まれ育った時代では、人身御供というものが存在した。簡単に説明すれば、自分の親族を人質として敵国に贈り、和睦を唱えることだ」
「それを、私にしろと?」
「話はまだ途中だ。この人身御供というのが、俺がお前に最初に突きつけた条件。別の方法というのは、王同士が婚姻を結ぶことだ。もっとも、他人を物扱いする者同士の風習だから、俺はあまり好きではない」
「先ほど、私をモノ扱いしませんでしたか?」
「あれは言葉の綾だ、茶々を入れるな」
「えっと、どういうことですか?」
伊邪那岐の言っている言葉が理解できす、劉備は首をかしげてしまう。
「簡単に言えば、お前が俺と婚姻を結び、お前が俺の妻になれば此度の一件を丸く収めることができると言っているだけだ」
「お嫁さん?」
「貴様、何を言っている?」
片方は顔を真っ赤にして、もう片方は肩を震わせている。
「だから言っただろう? 決めるのはお前らだと」
詰め寄ってくる関羽に対し、ため息混じりに彼は答えたのだが、次の一言を聞いて二人は同じ言葉を発してしまう。
「ふっ、不束者ですがよろしくお願いします」
「「えっ?」」
軽いノリでも口にする言葉は選びましょう




