第七十幕
前回のあらすじ
王として曹魏の面々の前に現れた伊邪那岐
その言葉を聞いたとき、曹操の心は先程までのざわつきが嘘のように一瞬で凍りついてしまう。認めたくない現実を突きつけられ、それでも事実として受け止めなければならない立場。そんな彼女の心中を知ってか知らずか、彼は言葉を紡ぐ。
「俺は名乗った。次はお前の番だぞ?」
「麟の王、伊邪那岐。お初にお目にかかる。我が名は曹操、この地曹魏の王。遠路はるばる来られた貴公らを歓迎します」
王として名乗り返し、曹操は玉座から立ち上がって階段を下りて伊邪那岐の前に立つ。劉備が相手であれば見下ろしたまま対応したであろうが、相手が一国の王であるのなら話は別。見下ろすこと、見下ろされることは礼儀を知らない無礼者のすることでしかない。
「ふむ。それにしても、許昌は栄えたな。かつての洛陽よりも栄えているのではないか?」
「お世辞はいいわ」
「世辞を口にできるほど俺が口が上手くない事を知っているくせに。お前は相変わらずのようだな」
「相手を観察しながら話すあなたも相変わらずのようだけれど?」
平凡な世間話。これが普通の人間の会話であればその言葉できって捨てることも可能だろう。だが、会話をしているのはお互いに王。それも、いつ刃を交えてもおかしくはない敵国の。
「世間話はいいわ。どうせあなたのことだから、滞在日数ぐらい計算に入っているのでしょう? 本題に入りましょう」
「せっかちだな。だが、悪戯に言葉を口にしても時間を無駄にするだけか」
「あなたは何の為にここを訪れたのかしら? あなたにとってこの場所はあまりいい思い出のある場所ではないはずだけど?」
「国の益の為であれば、感情などいくらでも捨ててやる」
その言葉を聞いて曹操は認識を改める。目の前にいるのは彼女の知っている軍師ではない。その双肩に国の行く末を背負った王。劉備とは違い、覚悟に力、意思を兼ね備えた本物の。
「俺は、袁紹を討つ。お前はそれを黙認しろ。代わりに俺は、お前が孫策を討つ時、横槍を入れない」
「それはどういうことかしら?」
「要するに、一時的な同盟相手にお前の国を選んだということだ」
彼の言葉を聞き、その意味を理解した瞬間、彼女は息を呑む。彼が王だと知らなかったとはいえ、自分が麟に対して申し出ようとした提案を先に口にされてしまったから。
「あなた、気は確か?」
「先ほど言ったはずだ。俺は冗談に命をかけるほど酔狂ではないと」
彼の瞳に気圧されるのではなく、明確な意思を感じ取ったからこそ彼女は否定することなく先を促す。
「詳しく話を聞きましょう」
「そう難しい話ではない。お互いが攻める際、一度限り見逃すという話だ」
「先ほどの言葉も交えて、おおかた理解したわ。でもなぜ、あなたはこの国を同盟相手に選んだのかしら?」
袁紹はともかく、伊邪那岐と孫策は少なからず交友関係がある。過去、彼女の陣営であった出来事を考えれば、孫策に同盟を提案すれば首を縦に振ることだろう。だからこそ彼女はわからない。彼が同盟相手に自分の国を選んだ真意が。
「袁紹を攻め落とす際、最も怖いのがお前の国だからだ。国を治めたはいいが、未だに統制が取れていない孫呉と同盟を組んだところで大した戦力にはならん。比べて、この国は王である曹操の一声で一枚岩としてまとめあげられた者たち。どちらと組めば戦を有利に進められるか。兵法書を齧った程度のやつでも理解できる」
「そう。その言葉に偽りはないみたいね。賛辞は素直に受け取っておくことにするわ。でも、私がその提案に素直に首を縦に振ると思っているの?」
「いや」
曹操の言葉を迷わず伊邪那岐は肯定する。
「だが、お前は孫策と雌雄を決したいのであろう? ならば、邪魔者は少ないに越したことはない。違うか?」
「憶測ね」
「ああ、憶測に過ぎぬよ」
同盟は素直に受け入れたい。だが、彼の真意が読めない以上、この提案を素直に受け入れてしまうことはできない。彼女もまた、伊邪那岐同様に国を背負っているもの。彼女の一言で国の未来が決まってしまうのだから。
「袁紹はこちら側としても目の上のたんこぶ。それを排除してくれるというのだから、こちらとしては願ったり叶ったりだけど、何故袁紹なのかしら?」
「あそこには馬鹿みたいに物資がある。俺が欲しいのはそれだ。奸臣共は皆殺しにする予定だが、お前が欲しいというのであれば袁紹の首はお前にくれてやる。民や領地はやらぬがな」
「相変わらず、徹底して現実主義者なのね。いいわ、その同盟組みましょう」
「華琳様っ」
曹操の言葉に早速異を唱えてくるのは軍師筆頭である荀彧。口には出さなかったものの、この場に集まっている曹魏の面々全員、同じ思いを抱いていることだろう。
「桂花、これは王同士の取り決め。あなたが口を挟むことではないわ」
「ですがっ」
さらに異論を口にしようとする荀彧だったが、次の彼女の言葉が全員を納得させる。
「大丈夫よ。もし何かあったとしても、私には頼りとなるあなたたちがついている。裏切られたなら力でねじ伏せればいいだけのこと。違うかしら?」
その言葉に心打たれたのか、曹魏の面々は陶酔したような表情で曹操を見つめている。
「話はまとまった様だな。ならば紙を持て」
伊邪那岐の言葉に応じるように二枚の紙と机が用意され、二人の前に置かれる。すると、慣れた動作で二人は同じ内容を紙に記す。そして、彼は懐から取り出した小刀で自分の右手の親指を軽く切り、にじみ出てきた血液で自分の名を紙に書き記した。
「それは、どういった意味があるのかしら?」
「俺の国で決して破らぬと誓った際、己の名を自身の血液によって記し、拇印を押す。本来であれば、全て血液で記すのだが今回は略式故にこれでいいだろう」
「なるほどね」
そう口にして彼女も自分の指を獲物で軽く傷つけ、にじみ出てきた血液で自分の名を記し、その横に拇印を押す。
「受け取れ、曹操」
「ええ」
互いに己の名を記した紙を交換し、懐へと収める。書かれた内容は、
一つ、双方の国が侵略行為を行うことを一度限り、黙認すること。
一つ、国王に危害が及んだ場合、これを反故しても良い。
一つ、双方の侵略行為が終わった後、矛を交えるのは双方が侵略行為を終えてから最低半年は期間を開けること。
以上の三つ。
「では、会談はこれに幕。依存ないな?」
「ええ」
そして、曹操は満面の笑みを浮かべた後、部下たちに信じられない一言を放つ。しかも、同じような内容を伊邪那岐も告げたというのだから、彼の部下たちも唖然としていた。
「あなたたち、悪いけど席を外してくれるかしら? 伊邪那岐と二人きりで話がしたいの」
「悪いが皆、席を外してくれ。曹操と話がある」
「あら、奇遇ね?」
「本当にな」
見つめ合う二人。二人が二人共王であるがゆえに、その言葉に逆らえるものはここにはいない。そして、二人の命を心配するものもいない。
他国の王が訪れている際、相手に危害を加えれば即戦争。そしてそれは、自国を統治出来ていない証明にもなり、王としての資格を永久に失うことになる。逆も然り。相手に危害を加えれば即座に自分の首が飛ぶ結果となる。
「部屋はすぐに用意させるわ。安心しなさい。この国にいる間はあなたちは私の客人。絶対の安全を保証するから」
さぁ、二人っきりになりましたね?




