第五十九幕
前回のあらすじ
犬遠理さんの計画とは一体?
須佐男を殺し、犬遠理が思いを馳せている頃。
洛陽を脱出した伊邪那岐、天照、布都、董卓の四人はあらかじめ集合させておいた張遼たちと合流。馬を飛ばし、馬騰のもとへと急いでいた。
そして、視界へと飛び込んでくる旗に大きく書かれた馬の文字。
「「「伊邪那岐~」」」
馬を降り、他の者たちを制していち早く彼らの前に立った伊邪那岐のもとへと駆け寄ってくるのは彼の部下である凶星、咲耶、火具土の三名。文を持たせ、伝令訳として送り込んだ神楽の姿はこの場では確認できない。
「皆の者、心配をかけてすまなかったな」
自らの非を認め、謝罪の言葉とともに頭を下げた伊邪那岐だったが、それに対する三人の返答は、顔を叩かれ、腹を叩かれ、最後には押しつぶされるという悲惨なもの。
「あなたね、心配かけるのもいいかげんにしなさいよ。こっちは今の今まで、あなたの顔を見るまで生きた心地がしなかったわよ。次にこんな無茶をやってみなさい、私があなたを殺すわよ?」
「あんた、馬鹿じゃないの? 顔見知り程度の人間助けるために、自分の命顧みないで行動するような奴がどこにいるのよ。別に、あんたの命なんだから捨てるのは勝手だけど、残される方の気持ちくらい察しなさいよっ」
「伊邪那岐~、おめぇ、無茶しすぎだぁ~。おらぁ、おらぁ、心配で心配で。だども、無事でよかっただぁ~」
「わかった、わかったからとりあえずどいてくれ火具土。お前、俺を押し殺すつもりか」
投げかける言葉を受け取り、ようやく立ち上がることのできた伊邪那岐。彼は、着物の埃を払ってから周囲を見渡し、
「神楽はどこにいる?」
そっけない言葉を口にする。だが、その彼の言葉に応えたのは三人ではない。
「あなたが探しているのは、こちらの少女ですか? 極悪人、伊邪那岐」
烈火の怒りを押し殺し、平静をどうにか保った口調。縄によって縛られた神楽を彼の前へと転がし、馬騰は自慢の槍を構える。
「お前は誰ぞ?」
「よくもぬけぬけと。我こそは、姓は馬、名は騰、字は寿成。あなたの探しているものです」
「そうか」
いつも通りの平坦な声で答えたあと、彼は馬騰を見ることなく神楽の縄を解き始める。
「師父、申し訳ございません」
「気にするな、生きて戻っただけで目的は達成できた。それよりも済まなかったな。このような状況になるとは思っていなかった」
縄を解き、神楽を立ち上がらせた彼は労いの言葉をかける。その様子を、指が白くなるほど槍を握り締めた馬騰が黙って見ていられるはずもない。
「あなたという人間はどこまでも他人を馬鹿にして。私の大事な娘はどこです? 要求はきちんと果たしましたよ」
「そう焦るな、馬騰。もうじき現れる」
「現れる?」
槍を喉元に突きつけられても一切動じない伊邪那岐。そんな彼に対して苛立ちを募らせながらも、馬騰は彼の言葉の真意を探ろうとする。そんな時、馬のいななき、土埃とともに馬の文字を掲げた者たちがこの地へと現れる。それは、馬騰が引き連れてきた者たちではない。反董卓連合に加わるように送り出した彼女の娘である馬超の部隊のもの。
「主殿、よくぞご無事で」
馬を降り、早速彼のもとへと駆けてきて礼の姿勢をとる趙雲。それに若干遅れて、
「兄様、成果の方は?」
「手放しで喜べるものではないが、それでも上々といったところだ。よくぞ、俺の指示通りに動いてくれたな」
「恐悦至極」
月読も歩み寄ってきて彼に礼の姿勢をとる。
「へぇ~。二人が臣下の礼をしてるってことは、この人が伊邪那岐ってことでいいんだよな? なんか、想像してたのとだいぶ違うけど」
のんきな声と共に姿を現した馬超。ただ、その姿を見た瞬間、馬騰はやりを手放して駆け出し、愛娘をしっかりと抱きしめる。
「翠、よくぞ、よくぞ無事で」
「あれ、母様? どうしてこんなところに? わざわざ出迎えなんてしてくれなくてもいいのに」
「あなたこそ何を言っているのですか、翠? あなたが伊邪那岐の手に落ち、惨たらしい仕打ちを受けていると聞き、母は病床の身を押してこの地まで来たというのに」
「うん? あたいが惨たらしい仕打ちを受けた? あたいは、母様の容態が急変したって月読から聞いて慌てて戻ってきたんだけど?」
親子二人して自分たちの言葉が食い違っていることをようやく理解して、同じように首をかしげる。そこでいち早く思考をまとめることができたのは年の功。馬騰は怒りとともに言葉を吐き出す。
「これはいったいどういうことですか、答えなさい伊邪那岐」
「なに、大したことではない。ただの狂言誘拐に引っかかっただけのことだよ、馬騰」
「狂言誘拐? 一体どこからどこまでが?」
「神楽から受け取った文に書かれていた内容の半分以上。もっと言えば、お前をこの地に引っ張り出すこと以外全てが、嘘だ」
そう、彼が馬超を人質に脅迫したというのは真っ赤な嘘。実際は、馬騰の娘と共に自分の部下を戦地から遠ざけ、病床の馬騰自身をこの地まで連れてくることが彼の狙い。だが、そうとは知らずに娘が遠く離れている状態で、彼の文を受け取ったとなれば話は別。連絡を取ることすら禁じ、その真偽を最後まで確認させずに動かした伊邪那岐。終わってみればわかることだが、途中にいる間は気づくことができない。なにせ、馬騰は伊邪那岐という人物と面識が一切ないのだから。
「そうまでして、あなたの目的はなんなのですか?」
「目的? ああ、忘れるところだった。今からそれを行うことにしよう」
馬親子の前まで移動して刀を抜き放つ伊邪那岐。獲物を手放し、互いに抱き合っている状態の二人が彼の刃を防ぐ手段は皆無。表情から次の行動を読み取ることはできない。だが、次の瞬間、伊邪那岐が斬りつけたのは二人ではなく自分の左手首。勢いよく飛び散る血潮。彼の部下、馬騰と馬超の部下たちも彼の行動に込められている真意が理解することができず、ただ状況を見守っている。
「口を開けろ、馬騰」
言葉にしたものの返事をするよりも先に、伊邪那岐は彼女の口に左手首を押し付けて自分の血液を彼女の体内へと押し込む。
「これで良し」
「なにがよしですかっ」
左手首を止血した彼を見て、いきなり暴挙に出られた馬騰は声を荒立てるが、次の瞬間、いきなり咳き込み大量の血液を吐き出す。
「母様っ。お前、母様に毒でもながしこんだのかっ」
馬騰の急変した態度を見て、立ち上がり殺意も顕に槍を構えた馬超だったが、他ならぬ馬騰本人に服を掴まれてその動きを止められてしまう。
「母様、なぜですかっ?」
「翠、落ち着きなさい。母はむしろ、力に満ち溢れています」
「えっ?」
よくよく見てみれば、土気色に近かった馬騰の血色は良くなり、顔が仄かに上気している。おまけに、馬超の服を掴む手から伝わってくる力は、病に蝕まれる前の女傑として名を馳せた彼女本来のもの。
「あなたは一体、私の体に何をしたのですか?」
「口にしたところで理解できぬと思うが、それでも聞きたいか?」
「是非に」
馬騰の言葉を受け、ため息をひとつつく伊邪那岐。だが、早速自分を傷つける行為をした彼を見て、追いついてきた布都が彼の頭を叩いていた。
「俺の血液は少々特殊でな、名称を龍血と呼ぶらしい。効果を十二分に発揮するためには、俺の体から直接体内に取り込む必要がある。さっきのはそのためだ。効力は俺自身の傷や病を癒すことはできないが、他人の病や傷を癒す力がある。だから、それを使えば馬騰、お主を救えると思った。五分五分の賭けだったが、上手くいったようだな」
「一体、何のために?」
彼女自身、頭の中が整理できていない。彼女と伊邪那岐は初対面。そんな相手に自分の命を救われるような行為をしてもらえるなど、誰が考えるだろう。
「二ヶ月、俺の部下が世話になった礼だ。本当はもっと早く迎えに行くつもりだったのだが、野暮用で遅くなってしまったからな。正直、間に合うかどうかも五分五分だった」
「間に合うかどうか? ひょっとして、まさか?」
「ああ、狂言を用いてお前を動かしたのはそれが主な理由だ。別の理由としては、曹操に孫堅、袁紹に並ぶ女傑が、病程度に負けてこの世を去るのが惜しいと思った。それぐらいか」
部下が世話になった。
それだけのために見ず知らずの命を救うと決め、自身を悪役へと落とすその行為。それを平然とやってのけてしまう人物。口にすることは容易い。だが、それを実行することの難しさを知っている馬騰は、目の前の人物にどうやって接していいかわからない。
人間という生き物は、基本的に自分が一番可愛い。それは生物的な本能とも言えるが、自身を守ることができない生き物が他者を守ることなど無理だから。命を投げ打って守ろうとする母親は、本能よりも愛情で動く生き物と言えるだろう。だからこそ、彼女は問いかけずにはいられない。
「あなたは、私の命を救うために、己を悪に落とした。そう、口にするのですか?」
「だから、部下が世話になった礼だといっただろう。意外と恥ずかしいのだぞ、何度も言うのは。それに、俺の名に泥を塗る程度で一人の命を救えるのであれば、いくらでも汚れてやる。名誉も誇りも、命には代えられない。俺はそう思っているからな」
その言葉を受け、彼女は確信する。
目の前にいる人物は、高潔ではない、真っ直ぐではない、正しい道を歩まぬものかもしれない。しかし、自らの名誉も誇りも簡単に捨て、本当に大切なものを掬い上げることが出来る。己を悪という立場に置くことによって、誰でも救おうとして傷つき、それでも揺らぐことのない優しき王の姿。
「先ほどまでの非礼、お許しいただきたい」
「非礼と言われるようなことを俺はされた覚えはないが?」
「ご冗談を。ですが、今のお言葉をもって、私は決心いたしました。不肖、この馬騰、真名を碧と申します。是非とも、貴殿の旗下へと加えて頂きたい所存にございます」
その言葉を受け、伊邪那岐が口を開くよりも先に布都が口を開いてしまう。
「ならば馬騰殿、貴殿の領地に我らが国を作りたい。それに貴殿の力添えをお願いしたいが、よろしいだろうか?」
「あなたは?」
「これは失礼した。俺の名は布都、伊邪那岐の自称右腕だ」
「あらあら、そうでしたか。それにしても、それは心躍る提案ですことね」
「おおっ。では早速」
そんな時、いきなり布都の体が横殴りの衝撃を受けて吹き飛ぶ。当然のように原因は左側から殴りつけてきた伊邪那岐の拳。
「お前というやつは、何が自称右腕だ? 冗談も休み休み言え。その件は皆と話し合ってから進めるといったはずだ。それをいけしゃあしゃあと勢い任せに口にしおって。あれが見えぬお前ではあるまい」
着物を掴んで無理やり布都の上半身を起こし、伊邪那岐は東を指差す。そこにあるのは、王朝の軍勢と反董卓連合が戦っている戦場。
「せっかく俺が策を講じて、皆無傷で脱出したというのに、このような場所で油を売って飛び火してきたらどうする? 俺の今までの努力が水泡と帰す。それがお前の望みか? 口にしてみよっ」
「すまない」
「分かれば良い」
布都から手を離し、再び馬騰の前へと戻った伊邪那岐は、
「碧、お前の申し出は大変嬉しく思う。だが、それの返事は、お前の領地へと戻ってからだ。あの馬鹿に口にしたのをお前も聞いたと思うが、ここで傷を負っては無意味。兵達を理由なく傷つけることの無意味さをお前も理解できるはずだ」
「御身の、御心のままに」
そうして、今なお血が流れる戦場を尻目に領地へと戻っていく一行。
この時、ようやく目的を遂げることのできた伊邪那岐はゆっくりと馬上で瞼を閉じたのであった。
次で第二章が終わります
そして、前回の終わりと同様に頑張って四回の更新!!




