第四十五幕
前回のあらすじ
孫権を助けるために長江へ飛び込んだ主人公
「ここは?」
「ようやくお目覚めか。まぁ、あの状況で命があっただけ、お互いに運が良かったな」
意識を取り戻した孫権は、自分の現在の状況を頭の中だけで整理し、勢いよく上半身を起こす。だが、その時に体に痛みを感じ、眉をしかめてしまう。
「私は確か、船から投げ出されて」
そこまで口にして彼女は気づく。自分が毛布だけ身につけていて、先程まできていた服を着ていないことに。同様に、伊邪那岐も毛布しか身につけていない。
「あなた、私に一体何を」
「風邪をひくと思って脱がせただけのこと、他意はない。乾くまでもう少し待て」
彼の言葉を聞き、視線を移動させてみれば、自分たちのきていた衣服が干されている。そして、その状態でも寒さを感じないのは、火の暖かさがあるから。
「他のみんなは?」
「さぁな。急に荒れだしたから、俺にも状況がよくわからん」
立ち上がり、外の状況を確認した彼女は、自分の瞳を疑う。船に乗ったときは穏やかたった長江が、今は姿を変え、その猛威を振るっている。
「俺は海についてはあまり知らん。だが、ここまで危険だとは思ってもみなかった。まったく、自分自身の見通しの甘さが嫌になる」
「長江は海ではないわ。河よ」
「川、これが海ではなく河だというのか。ふっ、俺にもまだまだ知らぬものが多いようだ。なかなかに面白い」
自分に知らないものがあることが、興味深いのか、彼の声は珍しく楽しげ。そんな彼に乗せられてしまったのか、孫権も微笑し、彼のとなりに腰を下ろしてくる。
「礼を先に言っておくべきだったのに、遅れてしまったわ。助けてくれて、ありがとう」
「目の前で誰かが溺れていたら助ける。それは普通のことだろう?」
「そうかしら? 見て見ぬふりをする人間の方が多いと思うわよ。実際、私の部下は私を助けてはくれなかったし」
「俺の方が早く動いただけだろうに。随分と悲観的だな」
火に蒔きをくべながら、彼はいつもどおりの温度のない声で口にする。
「悲観的。そうかもしれないわ。でも実際に、雪蓮姉さまという大きな存在がいるから」
「あれがか?」
「あなたは知らないだけよ。船から投げ出されたのが私ではなく、雪蓮姉さまだったら、すぐにでも誰かが飛び込んで、助け出されていたでしょうね」
孫権は悲しげに告げる。
彼女の目の前を進んでいるのは実の姉。同じ血が流れているのに、どうしてここまで違っているのか。言葉には出さなくとも、部下や兵士たちの表情、空気からその言葉は雰囲気として伝わってくる。
「なぜかしらね。雪蓮姉さまのことは、尊敬しているし、大好きなのに。私の心は、その思いに比例して、嫉妬と苛立ちが育ってしまう。雪蓮姉さまがいなければよかったのに。そんなことを考えてしまう」
孫策は生まれつき気品、武術の腕、求心力、王として備えておくもの、その全てを持っている。だからこそ、彼女は自分の姉を尊敬、あるいは、自分の超えるべき壁として、孫策を超えるように努力してきた。それでも、孫策の存在は彼女にとって大きすぎて、遠すぎる。そんなジレンマが、彼女の心の中で、孫策に対する負の感情を育ててしまっているのだろう。
「いつも、みんなに期待されるのは雪蓮姉さま。その期待に応えるのも、雪蓮姉さま。私のことなんてみんながみんな、孫策の妹。それぐらいの認識でしか見ていない。誰も、私のことを私としてみてくれない。いっそ、血なんて繋がってなければ良かった。そうであれば、どれほど楽だったことか」
「誰かと自分を比べて卑屈になって。それで、お前は何か変えられたのか?」
「えっ?」
彼の言葉を聞いて、孫権は返答に詰まってしまう。同情して欲しかったわけではない。それでも、少しだけ、自分の抱えているものを理解して欲しいと願い、彼女は隠していた胸中を口にした。それなのに、返された言葉が、全く予知していない方向から来た言葉だったから。
「変えられるわけがあるまい。他人に影響を受けたとしても、己を変えることができるのは、己だけなのだから」
それは、かたくなに人を拒絶してきた彼が、ようやく踏み出した一歩を言葉へと変えたもの。この世界にくるまでの彼であれば、形見の品を手放すことなど、ましてや誰かに預けるという行為を選択するはずがなかった。
「あなたも、雪蓮姉さまと同じように、強い人間なのね。私と違って」
「あれと同一視はされたくないな。それと、一つ間違いを訂正してやる。お前は、間違いなく、強い人間だ。これだけは、確かに言える」
「そんな慰めなんて」
「慰める。そんな行為、俺はせぬよ。思ったことをありのまま口にしただけだ」
そんな彼の言葉を信じることができず、彼女は立ち上がって声を張り上げてしまう。
「私は、天才なんかじゃない。凡人もいいところ。雪蓮姉さまみたく、綺麗でなければ、強くもなく、人望もない。そんな私が強い? 嘘なんて口にしないで。余計、惨めになるだけだわ」
「だから、お前は強いといったのだよ、孫権」
「まだそんなことを」
「まだ誤解があるようだな、孫権。とりあえず座れ」
納得はいっていないものの、彼の言葉に逆らうことなく、腰を下ろす孫権。
「お前は、自分のことを凡人と口にした。自分のことを理解した上で、その発言をしたのだろう?」
「それが、どうしたって言うのよ」
「お前は勘違いをしている。自分のことを理解している人間が、凡夫であるはずがないのだよ」
「わけがわからないわ」
「まだ難しいか。それならば、そうだな、お前は、天才の考えがわかるか?」
「わかるわけがないでしょ」
「逆も然りということだ」
彼の言葉の意味が分からず、孫権は首をかしげたが、構わず、伊邪那岐は言葉を続ける。
「天才の考えなど、凡人には理解できない。だが、逆も同じ。最初から出来る人間に、出来ない人間の気持ちなど、理解できない。ここまではいいか?」
「ええ」
「続けるぞ。人を魅了することができるのは、それが自分にできないことだから。だから、人は天才に憧れ、自分とは違うと壁を作る。これもわかるか?」
「ええ」
孫権が理解できるよう、一度ずつ確認しながら、彼は続ける。
「お前は、自分を凡人だと言った。だからこそ、お前は自分の非力さを理解している。いいか、天才と呼ばれている奴らは、大抵、自分の器というやつを勘違いしている。やつらは、自分の痛みすら理解できていない。そんな奴らが強いはずがない。だが、お前は違う。自分を凡人と口にできるお前は、ほかの人間の痛みも苦悩も理解できる。同じ経験や思いがあるから」
「でも」
「俺の経験上だが、痛みを理解できる人間は、強い。子を守ろうとする母が何よりも強く見えるのと同じだ」
いつの間にか、孫権は自分の体を彼に寄せていた。それは、寒さを紛らわせるため。そういった言い訳もあったかもしれない。もしくは、彼の言葉の中に、父親の面影を感じてしまっていたからかもしれない。どちらにせよ、彼女の心の傷は、今、この時大きな支えを見つけていた。
「確かに、孫策であれば、その生き方で人を魅了する王になれるかもしれない。だが、他人の痛みを理解できるお前が王になれば、民に慕われる優しき王になれるかもしれない。他人のことなど、気にせず、己の生き方に胸を張れればいい。そうは思わぬか、孫権?」
「蓮華」
「はぁ?」
望んでいた言葉と違い、伊邪那岐は首をかしげてしまう。彼はてっきり、前向きな言葉が返ってくると思っていた。だが、彼女が口にしたのは、自分の真名だけ。
「蓮華。あなたには、そう呼んで欲しいから」
「いや、まぁ、それは別に構わないが。お前、俺の言ったことが理解できたのか?」
「ええ。難しかったけれど、なんとか」
「なんとか、か。それはそうと、近寄りすぎではないか、蓮華?」
気づけば二人に距離というものは、ほとんどなくなってしまっている。否、既に毛布二枚を二人でかぶっている状態なので、裸同士で密着しているといってもいい。
「寒いのよ」
「なら、火の近くへもう少し寄ればよかろう?」
「こっちのほうが、暖かいわ」
「そうか?」
火に近寄ることなく、伊邪那岐に抱きつく形で彼女は言葉を口にする。その全身で、優しい暖かさを感じながら。
「暖かいわ。まるで、子供の時、母様の膝の上にいた時みたいに」
割とマジで主人公、死ねばいいのに




