第四十四幕
前回のあらすじ
孫権に助けを求められた主人公
「虎連が隠居したことをいいことに、袁術に政権を奪われ、王位を継ぐことができなかった孫策のために力を貸せ。お前はそう言っているのか、孫権?」
孫堅が隠居したことは、伊邪那岐が曹魏にいたとき、耳に入ってきた情報。そのことを、知られていないと思っていた孫呉の面々は、彼の言葉を聞いて押し黙る。
「加えて言うなら、虎連のやつは、後継者を指名しなかった。そして、袁術は好機と見て、領地を獲得。大方、権力、血筋を用いて、官僚どもを抱き込んだのだろうな。その結果、孫呉の面々は、反乱を起こせないように、戦力を分散。各地に散らばる羽目になった。お前らがこの地にいることを含めて考えれば、大体そんなところだろう」
「どうして、それを」
「壁に耳あり、障子に目あり。情報というものは、いつ何時、漏れたとしてもおかしくはない。秘密というものは、秘密と決めた時点で、その秘匿性を失った情報に変化してしまうもの。俺はそう捉えているが?」
彼の言葉通り、孫呉の将達は散り散りにされている。ただ、彼女たちが驚いたのは、それだけではない。いかに情報が漏れていたとしても、その情報は、統合していけば信憑性を失ってしまう。それなのに、目の前の人物は、まるで自分が、見てきたかのように、彼女たちに起こったことを口にしている。
「そこまで、どうやって」
「なに、大体、権力者の考えは似通っているからな。推測することは容易い」
「冥淋が、誘うわけだわ」
孫策と周瑜が、孫呉へと戻ってきた際、孫権は、二人が、脱獄した人物のことを楽しげに語ることを見ている。
「なら、話は早いわ。私たちは、どうすれば、袁術から、祖先から受け継いできた領地を取り戻すことができるの?」
「結論を急ぎすぎると自滅するぞ、孫権」
その言葉を聞いて、孫権は乗り出していた体勢を元へと戻す。
「これはな、虎連が雪蓮へと課した試練だ。獅子は千尋の谷に我が子を落とす。そういうたぐいのものだよ、これは」
「えっと、それは」
「どういうことでしょう?」
「私に分かるわけがないだろう」
その場にいた孫呉の面々、誰ひとりとして、彼の言葉を理解できず、頭上にクエスチョンマークを浮かべている。
「お前ら皆、脳みそまで筋肉で出来ているのか? よく考えてみろ。虎連は、お前たちを見捨てたのではなく、自分の愛娘に敢えて試練を与え、それを克服すると願い、後継者を指名しなかったのだ」
「でも、袁術が」
「それも考えてのことだ。雪蓮が王になったとき、獅子身中の虫がいては意味がない。だから、袁術を使って、焙り出そうとしているのだろう。孫呉の膿を」
現在の問題だけを考え、その先にある問題を見ないようにしていた孫呉の面々。だからこそ、かつての孫呉の王である孫堅の考え、そして、それを見抜いていた伊邪那岐の二人。彼らの大きな存在を、認めざるを得ない。
「今のお前らに、俺は力を貸せぬ。ここで力を貸せば、お前らの成長を願った虎連の面目を潰してしまうことになるからな」
そして、彼は立ち上がり、月読を伴って室内から出ていこうとする。ただ、言葉だけを残して。
「ただ、少しだけ助言をするなら、今は耐えろ。これより後に、必ず大きな戦が起きる。その時までに十分な力を蓄えることができたなら、政権を奪い返すことなど容易い。ではな」
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「まったく、ついこの間別れたばかりだというのに、なぜ、また顔を合わせねばならん?」
「仕方なかろう。こちらとて、長江を渡る必要があるのだ」
孫呉の面々と別れて二日。
長江を渡る船の上で、伊邪那岐たち一行は、村に滞在したということもあって、溜まっていた疲れを癒し、体力、気力ともに充実した状態。だが、ただ一人伊邪那岐だけは、あまり顔色が優れていない。別れたばかりの孫呉の面々が、船に同乗していること。そしてそれだけでなく、
「ねぇ、あんた、大丈夫?」
「伊邪那岐、あなた、顔真っ青よ」
彼が船に弱いということ、加えて、船は出せているものの、長江の波が荒いということ。それが彼の体調を秒単位で悪化させていく。
孫堅と甘寧。二人に出会ったのも、船の上だった。しかし、その時は、乗っていた時間も短く、揺れを感じるよりも先に体を動かし、その後は酒に酔っていた。だから、深刻な状態を回避できたと言えなくもない。
「伊邪那岐、おめぇ、大丈夫だかぁ?」
「兄様、横になられていたほうが」
剣の一族の他の面々は、彼とは違い、船酔いに対して抵抗があるらしく、しきりに彼のことを心配して、声をかけてくる。
「ふん、情けない。この程度でねを上げるとは、丘の上では百戦錬磨でも、船の上ではまな板の上の鯉同然か」
彼の弱点を見つけて嬉しいのだろう、甘寧の表情はとても楽しげ。そんな彼女に対し、
「へぇ、他人の弱点を見つけて楽しむなんて、随分と小物なのね、あんた。まぁ、だからこそ、自分たちの領地も奪われちゃったんだろうけど」
「貴様、今なんと口にした?」
「あらあら、図星さされたからって、聞こえないふり? でもまぁ、小物の従者だし、それぐらいはこっちも大目に見てあげるべきよね?」
咲耶は、この場にいる誰もが遠慮して口にしない言葉を、平然と口にする。いつものように、場の空気を読んでいないわけではない。甘寧は何気なく口にしただけだったが、その言葉は、聞いていて楽しいものではないのだ。彼についてきている者たちにしてみれば、特に。
「貴様、孫呉の王を、我が主君を馬鹿にしたな」
「だって、馬鹿にされるようなことしかしてないでしょ?」
一触即発。どちらかが獲物に手をかければ、もう片方も抑えることなく、獲物に手をかけるだろう。あと少し、どちらかが侮蔑の言葉をかければ、二人の短い導火線は、あっという間に消えてなくなる、そんな状態。しかも、この場で二人を止められる、ただひとりの存在は、現在、深刻な船酔いと戦っている。
「思春、何事なの?」
そんな時、周泰を伴って船の看板に出てきてしまった孫権。尋常でない殺気を肌で感じ、若干ではあるものの、その腰は引けてしまっている。
「こいつらは、我ら孫呉を馬鹿にしたのです。どうして黙っていられましょう」
「あんたこそ、こっちの大将馬鹿にしといて、ただで済むと思ってないでしょうね。泣いて命乞いするなら、今が最後のチャンスよ?」
「戯言を」
二人はほぼ同時に、自分の獲物へと手をかける。このままいけば、確実にこの場で血が流れることになるだろう。その時、船が大きく揺れる。それこそ、自分たちの体が大きく傾くほどに。
「えっ?」
気づいたとき、孫権の体は船から投げ出され、宙を待っていた。どれほどの豪傑であっても、この状態から自力で船に戻ることは不可能。あっという間に、孫権の体は長江の荒波にもまれ、消えかけてしまう。
「蓮華様!?」
慌てて獲物を投げ捨て、飛び込んで孫権を救おうとする甘寧。だが、それを阻むように、船は大きく傾き、元海賊の彼女であっても、自由に動くことができない。
「火具土、これを」
「伊邪那岐?」
顔面蒼白の状態で、伊邪那岐は自分の刀を火具土へと預け、体をほぐす。
「伊邪那岐様、何をなさるおつもりですか?」
「天照、お前にはこれを託す。決してなくすでないぞ」
その言葉と同時に彼女が受け取ったのは、彼が肌身離さず持っている形見の収められている小さな箱。今まで、誰であろうと触れることの許されなかったもの。それを預かった瞬間、天照の脳裏には嫌なイメージが浮かび上がってくる。
「伊邪那岐様、いけません」
「必ず、もどる」
その言葉を船に置き、伊邪那岐は長江へと飛び込んでいった。
船酔いの状態で飛び込むのは自殺行為だと思います




