第四十二幕
前回のあらすじ
劉備さんの心を奪っていった主人公
袁紹軍を退け、公孫賛たちと別れた一行は、当初の目的地、馬騰の領地を目指して進んでいた。のだが、
「船が出せない?」
「済まんが、旅の方、今、長江は雨で増水している。こんな状態で船は出せぬよ。そうだなぁ、二日、三日あれば、出せるようになるだろう」
目的地である馬騰の領地へ行くためには、長江を渡らなければならない。だが、肝心の船が出せないのであれば、道が途絶えてしまっているのと同じ。彼らは、足止めを食らってしまっていた。
「さすがに、こればかりはどうしようも無いな」
「良いではないですか、主殿。しばしの休息と思えば」
彼らが、どれほど強かろうとも、所詮は人間。大自然の前では無力でしかない。彼が、真龍刀を使えば、どうにかすることはできるが、その後、元通りにする自信は、残念ながら、彼にはない。しかも、趙雲の言うとおり、この地に来てから、短い間隔で、黄巾賊、凶星、袁紹軍と連戦続き。顔には出していないものの、皆、披露の色は隠せない。
仕方なく、護衛と称して、彼を監視する役を任せられた趙雲と一緒に、伊邪那岐は茶屋で、湯のみ片手に、長江を見つめていた。
そんな時、彼は足元に擦り寄ってきている違和感に気づき、視線を下へ移動させる。すると、そこにいたのは一匹の猫。人に慣れているのか、警戒心が薄いのか、ひとしきり、彼に自分のにおいをつけると、仰向けに寝転んでしまう。
「俺に、撫でろと?」
当然、人の言葉をしゃべることの出来ない猫は、視線で訴えてくるだけ。仕方なく、椅子から降り、その場でしゃがんで、猫の腹を撫でてあげる伊邪那岐。すると、とても嬉しそうに猫は、喉を鳴らす。
「可愛いものですな。どれ、私も」
そう口にして、しゃがんで猫を撫でようとする趙雲だったが、彼の時と違い、触れようとした瞬間、猫は体を捻り、彼女の手を避ける。
「むっ」
その行動が彼女の自尊心を傷つけたらしく、何度も手を伸ばす。だが、その全てを、猫は躱し、彼の背中へと隠れてしまう。
「星、お前、猫に嫌われておるのか?」
「いや、決してそんなはずは」
彼は何気なく口にするが、趙雲と猫。一人と一匹の行動を見れば、誰でも同じような感想を抱くだろう。その証拠に、彼女の手の届かない場所まで移動した猫は、再び、伊邪那岐に対して、仰向けに寝転んで腹を見せている。
「動物は、人間と違って、気配に敏感だ。言葉など話せなくとも、お前の抑えきれていない殺気に、警戒心を抱いているのだろう」
「そんな、馬鹿な」
「だから、俺にはこんなにも懐いてくるのだろうよ」
猫を抱き上げて立ち上がる伊邪那岐。その腕の中で、猫は心地よさそうに、瞳を閉じ、喉を鳴らしている。その姿を見て、自身の敗北を悟った趙雲は、膝をつき、その場でうなだれてしまう。
「あっ、お猫様~」
勘定を済ませ、その場をさろうとしていた二人。その時、彼の腕に抱かれている猫を発見した、少女が声を上げながら近寄ってくる。
「お前の猫か?」
「はい。ご迷惑をかけてしまったみたいで、すみません」
「なに、気にするな。久しぶりに、気が和らいだ」
腰よりも長い黒髪、背中に自分の身長と同じぐらいの刀身を持つ刀を背負った少女。その手に猫を渡してやろうと、彼は行動しようとしたのだが、それを途中でやめてしまう。理由は、彼の腕の中で、猫が気持ちよさそうに寝息を立てていたから。
「この子は、あまり人に懐かないのに。珍しいです」
「そうなのか。やけに懐いてきたから、警戒心が薄いものと思っていたが。良かったな、星。お前が猫に嫌われているわけではないらしいぞ?」
「主殿、慰めは不要です」
少女の言葉がたとえ真実であったとしても、自分が避けられたことは事実。その傷が癒えていない、彼女の言葉と足取りは重い。
「あの、よければ、なんですけど。まだまだいっぱい、お猫様がいるので、その」
「だとよ、星。行くか?」
「行くに決まっているでしょう。主殿に、私が決して、猫に嫌われているわけではないと、証明するためにも」
落ち込んでいる趙雲を慰めるために、少女は口にしただけ。そのはずだったが、どうやら少女の言葉は、彼女の闘争心に火をつけてしまったらしい。
「はっ、すみません。私としたことが、自己紹介もせずに。私は周泰。真名は明命といいます」
「俺は伊邪那岐、こちらは趙雲だ。それにしても、いきなり真名を告げて良いのか、お主?」
「お猫様が懐いている方に、悪い方などいるはずがありません」
どうやら、周泰は独自の価値観を持っているらしい。いきなり真名を預ける行為に、彼が呆れていると、彼女は、彼の顔を見上げてくる。
「どうかしたのか?」
「いえ、その、間違っていたらすみません。どこかで、お会いしたことって、ありませんか?」
「他人の空似ではないか? 悪いが、俺はこの大陸に来て、まだ日が浅い。この村に来たのも、今日になってからだ」
「そうですか」
歩きながら、口元に手を当てて、考え込む周泰。だったが、目的の場所についた瞬間、鬱屈した雰囲気を一掃し、猫のもとに、瞳を輝かせながら駆けていってしまう。
そして、
「な、何故だ」
「いや、気に病むなよ、星」
「そうですよ、趙雲さん」
「おふた方には、わかるまい。否、わかるはずがない。猫たちに囲まれているおふた方の目には、さぞ、私は哀れに見えることでしょう」
猫に触れることかなわず、よってきてさえくれない趙雲は、その場で四つん這いになり、地面に拳を叩きつけている。一方で、猫を抱き上げている周泰、そして、猫がよってくるどころではなく、もはや、猫まみれになっていると言ったほうが正しい、伊邪那岐。そんな二人から慰められて、奮起できるほど、彼女の心は強くはなかったらしい。
「それにしても、凄いです、伊邪那岐さん。お猫様達が、初めて会った人に、こんなに懐くなんて。今まで私、見たことありません」
「ふむ、里にいた時もこうだったからな。野山に行ったとき、眠っているとき、気づけば、自然と動物に囲まれていた。気にしていなかったが、やはり、普通は、こういう状態にならないらしいな」
思い返してみれば、いつでも、彼は動物に囲まれていた。彼の妻である鈿女も同じように。ただ、咲耶が来ると、動物たちは一目散に逃げ去ってしまっていたが。
「明命、こんなところにいたのね、探してしまったわよ」
「すみません、蓮華様」
猫たちと戯れている最中、若干一名は避けられ続けていたが、一人の女性が息を切らしながら姿を現す。桃色の髪を腰まで伸ばし、健康的に焼けた褐色の肌。その肌に、うっすらと汗が浮かんでいるのは、かなりの時間、周泰を探しまわっていたせいだろう。
「そちらの方々は?」
女性の声が震えていたのは、決して恐怖のせいではない。一方は猫に囲まれ、一方は、猫を追い回している。そんな奇妙な光景が目に入ってきてしまったから。
「はい。今日知り合った、伊邪那岐さんと、趙雲さんです」
「そう、部下が、迷惑をかけてしまったみたいね。私は孫権。部下に代わって、非礼を詫びるわ」
「ああ、そのなんだ。詫びられるようなこと、俺はされた覚えはない。頭を上げてくれ」
言葉とともに、頭を下げてきた孫権に対し、猫まみれの状態で、返答する伊邪那岐。
「そう言っていただけると助かるわ。それにしても、明命。私の聞き間違いでなければ、あなた、今、趙雲と言わなかったかしら?」
「はい、言いましたよ」
「これが、あの趙雲?」
彼女の言わんとしていることは、最も。大陸中にその武勇が知れ渡っている趙雲。そんな人物が、目の前で猫を一心不乱に追い回しているというのだから。冗談であってほしいと思っても不思議ではない。
「あなたが、あの、趙雲?」
「どなたを想像されているのかは知りませんが、趙雲という名。私は、自分以外に聞いた覚えがありませぬ。ただ、今は、取り込み中。お話は後にしていただきたい」
「貴様、蓮華様に対して失礼であろう」
趙雲に対して、怒りを乗せてぶつけるような声。皆が視線をその声の主へと移せば、そこには、剣を抜き放っている甘寧の姿。
「おやおや、穏やかではありませんな」
「思春、やめなさい」
「蓮華様、こやつが、趙雲本人であるのなら、ここで試しておくべきです。今後のためにも」
止める孫権の声も聞かず、趙雲へと斬りかかる甘寧。流石に、獲物もなしに、彼女とやりあうほど、趙雲は過信もしていなければ、馬鹿でもない。どうやって、やり過ごすか。思考し始めたが、考えをまとめるよりも、甘寧の動きの方が早い。
「その武、見せてみよ」
「くっ」
「その辺でやめておけ、阿呆ども。せっかくの和やかな空気が台無しだろうが。場所ぐらい、弁えられぬのか?」
甘寧の剣が振り下ろされた瞬間、つまらなそう声が響く。次の瞬間、甘寧の喉元には、自分が握っていた剣が突きつけられ、趙雲は、その動きを追うことができなかったことで、瞳を大きく見開いている。
「まさか、貴様」
「ああ、やはり、他人の空似ではなかったか。一ヶ月ぶりぐらいか、久しいな、思春」
意外な再会が待ち受けておりました




