第四十幕
前回のあらすじ
隻眼になるのと代わりに、絶大な力を得た主人公
「う、嘘だろぉ」
伊邪那岐の策通り、馬の歩みを阻害する落とし穴、そして、底に敷いた油をたっぷりと染み込ませた枯れ草を使った火計。それらと、正面、左翼、右翼の部隊の奮闘もあり、袁紹の軍は最初の四万から、半分の数、二万までその数を減らしている。
だが、その損害すら無視して、押し込んでくる袁紹の軍勢。策を用いたことにより、一時的に引く形をとってしまった義勇軍は、すぐさま展開することができずに、正面から、倍の人数と戦う羽目になってしまっていた。
「これでも、引いてくれないなんて」
「袁紹さんは、だいぶ頭に血が上っているみたいですね」
二人が口にしているように、そのことが誤算。
曹操が軍備を増強している状況で、いたずらに兵を失うのは、自分の首を絞めるのと同じ。そう、読んでいたからこそ、伊邪那岐はこの策を用い、諸葛亮、鳳統、二人の軍師も賛同し、準備をしていくさに臨んだ。だが、三人の予想を上回って、袁紹が被害を考えていないため、一転して窮地へと追い込まれてしまったのだ。
敵の数は減ったといっても、残り二万。対するこちら側は、主だった将たちが失われておらず、兵の損耗も少ないが、一万程度。倍の兵力を押し返すほどの力は、もう、残ってはいない。
「これだけ頑張ったのに、負けちゃうの?」
劉備の嘆きに呼応するように、空は雷雲に飲まれ、陽の光を閉ざす。彼女の前を塞いでいくように。思わず、膝を折ってしまいそうになる彼女へ、追い討ちをかけるように、袁紹は号令を飛ばす。
「ふふっ、なかなか頑張ったようですけど、万策尽きたみたいですわね。褒めてあげますわ、劉備さん。この、袁紹相手に、ここまで戦えたことを。や~っておしまい」
「おっしゃぁ~」
「行きますよ」
袁紹の言葉に答えるように、正面から押し込んでくる、袁紹軍の二枚看板、顔良、文醜の二人。
「桃香様を、殺らせはせん」
「お姉ちゃんをまもるのだ」
それを迎え撃つべく、兵を引き連れ、飛び出していく関羽と張飛。まともにぶつかっても、勝ち目がないことは二人も、重々承知している。それでも、引くことはできない。目前に迫る死を、勇気という刃で切り裂き、大切な人を守るため。
二つの部隊、思いがぶつかる直前、その場所に雷が落ち、四人と、それに追従する兵士たちの視界を焼く。
「お前ら、揃いも揃って馬鹿のようだな。既に、幕は降りたというのに、まだ、舞台で踊りたいというのか」
視界が戻ってきたと同時に、戦場全体に響いてくる鉄の声。この場所に、誰が現れることを予想していただろう。だが、その声が響いてきた瞬間、義勇軍のメンツは、自分たちの危機的状況をすっかり忘れてしまう。それほどに、聞きたいと願い、自分たちを支えてくれる声。
「あ、あなたは、華琳さんのところにいた悪徳軍師」
「久しいな、袁紹」
真龍刀を肩に背負い、義勇軍に背を向け、袁紹に視線を合わせる伊邪那岐。突如として現れた彼を、袁紹は、とても忌々しげに、馬上から見下ろしていた。
「あなたがどうして、ここに。華琳さんのところにいたのではなくって?」
「ああ、事情を話すのは面倒だな。結論だけ言えば、あやつのところから、離反し、今はこの地に雇われている」
「へぇ、それは中々、いい判断ですわね」
彼がこの場に現れたことは、袁紹にとっても計算外。事実、曹操の領地に、賊を偽装して、攻め入った時、彼女は彼の策によって、煮え湯を飲まされている。それだけでは飽き足らず、領土侵犯の代償として、大量の金子、有能な軍師、食料、衣服、領土まで、彼女の手から奪っていった、憎き存在。
だが、彼女にはまだ、この地に呼んでいない、増援がいる。その者達に、号令を下せば、目の前の人物を殺すことなど、造作もない。だからこそ、彼女は悠然と、彼を見下ろしたまま、取り乱したりはしない。
「増援なら、もう、呼んだとしても来ないぞ」
そんな彼女の心中を見透かしたように、いつもの温度が感じられない声で、彼は告げる。
「なにを、言っているのかしら?」
「伏兵として配置していた、二万の兵を呼ぶのは無理だと言っているのだ」
「どうして、そのようなことをいうのかしら?」
「どうして、か。なに、簡単なことだ。今しがた、その二万、全てを、大地に還してきたところだからな」
彼女は開いた口が塞がらない。伏兵をあらかじめ仕込んでいたのは事実。その数、当初一万を予定していたが、圧倒的な勝利を演出したかった彼女は、止める文醜の意見を無視して、本国からさらに、一万の軍勢を呼び寄せた。それほどの兵力があれば、公孫賛の領地を落とすことは容易いと考えて。
彼女の考えは、おおよそ間違ってはいない。普通に考えれば、四万の軍勢で一万を蹴散らす、そこにダメ押しの伏兵二万。これだけで、公孫賛の領地を落とせないはずがない。有能ぞろいの曹魏にいる軍師たちでさえ、これだけの兵を率いれば、落とせないとは、決して口にしないだろう。
「疑問に思うのなら、確かめに兵を向かわせてみればいい。もっとも、その余裕があれば、の話だが」
「どういうことですの?」
「なに、すぐにわかる」
彼はつまらなそうに告げる。そして、その彼が告げなかった言葉を、早馬を飛ばし、この地へと向かってきた、袁紹軍の兵士が、代わりに告げてくれる。
「袁紹様」
「なんですの、今、忙しいところなのですけど?」
「大変です。曹操が、我が領地へ向けて進行中。その数、およそ二万」
「なぁんですぅって」
その報を聞いて、袁紹は額に青筋を浮かべてしまう。彼女が、兵を動かす情報が、事前に漏れていたとは考えづらい。それを防ぐために曹操にだけは攻められまいと、国境沿いの軍備を強化しておいた。それなのに、よりにもよってこのタイミングで。その時、彼女の視界に、一人の人物がいることに気づく。伊邪那岐。かつて、曹操の寵愛を受けていたであろう、悪徳軍師。彼がこの地にいるのであれば、曹操が、兵を動かすことを知ったとしてもおかしくはない。
「どうした、袁紹。顔色が優れないようだが?」
「あなたの、仕業ですの?」
「何を言っているのか、さっぱりだな。心当たりが多すぎて」
「くぅぅ。華琳さんが、私の領地に向けて軍を動かしたのは、あなたの入れ知恵なのかと、聞いているのですわ」
「ああ、そのことか」
「そのことか、ではありませんわ」
わめきたてる袁紹だったが、そんな彼女を相手にしても、彼は自然体を崩したりはしない。いつもどおり、つまらなそうに答えてあげる。
「俺達が、曹魏を出る少し前、程イクと碁を打ちながら、話していただけだ。近々、袁紹は必ず軍を動かすと」
それだけで、彼の言いたいことは、ほとんど程イクへと伝わっていた。無論、彼女が軍師であることもあってだが。
領土を賠償の品として奪われてしまった袁紹。だが、奪い返すために戦を、曹操に仕掛ける口実が、彼女にはない。ならば、失った領土を再び得るためにはどうすればいいか。答えは彼女の行動が示すとおり。別の領地を奪い、自国の領地としてしまえばいい。そう考えれば、狙う領地を特定することも、そこに到達するまでの時間を逆算することも、曹魏の軍師達であれば、不可能ではない。
「くぅぅ、よくもやってくれましたわね」
「その言葉は軍師冥利に尽きるな。だからこそ、口にしてやろう。このようなところで、油を売っていていいのか、袁紹?」
「くぅぅ。いつか、この報いを、必ず受けさせてあげますわ。そのときを覚悟していなさい、悪徳軍師。皆の者、急ぎなさい。これより、本国へと攻め入ってくる、華琳さんにお急を据えなければならないのですから」
布を口にしていたなら、噛みちぎりそうなほど、悔しそうに。それでも、これ以上の損害を良しとせず、自国を守るために兵を引かせていく袁紹。その背中が、小さくなるまで見送ったあと、彼は振り返り、その姿を消す。
次に現れたのは本陣。それも、今回の戦、大将である劉備のすぐ隣。何がどうなったのか、理解が追いついていない彼女。当然、伊邪那岐がすぐそばに現れたことにも気づいてはいない。そんな彼女を軽く小突き、彼は告げる。
「いつまで呆けているつもりだ、劉備。敵は去った。大将であるのなら、勝鬨をあげ、戦の終わりを兵たちに教えてやれ」
「えっ、伊邪那岐さん。いつの間に?」
「聞こえなかったのか、劉備。俺は、勝鬨を上げろといったのだ」
「あっ、そうか。そうだよね」
大将としての自覚が芽生えていない。そんな彼女に対して、ため息を一つつき、彼は奥へと姿を消していく。
「袁紹さんは、退きました。私たちの、勝利です」
剣を高く掲げ、声を張り上げた劉備。最初、その言葉を理解できていなかった兵士たちも、だんだんと、彼女にならうように、剣を高く掲げ、声を張り上げていく。
こうして、劉備と伊邪那岐。
後に、王と名乗ることになる二人の、人々の胸に刻まれた戦いと、決して人に知られない戦い。二つの戦いが終わりを迎えた。
劉備さんにきちんとした自覚が芽生えるのには、もうちょっと時間がかかるみたいですね




