第三十幕
ちなみに今回は、切りよくするために四回の更新です。
前回のあらすじ
軍師である自分を捨て、
ひとりの人間として曹操と向き合う決意をした主人公
「このような時間に、なんのようかしらね?」
「華琳様、おそらく、今後の身の振り方かと」
田豊から、伊邪那岐の言伝を受け、玉座の間に集まる曹魏の面々。
玉座には、当然の如く、曹操。
右側に軍師、荀彧、郭嘉、程イク、田豊。
左側に将、夏侯惇、夏侯淵、許チョ、典韋、曹仁、楽進、于禁、李典。
今の曹魏を動かし、郡の中核を担っている人物たちが一堂に会する機会は、今後も多くはないだろう。その全員が、これから現れる人物を待ちわびていた。
伊邪那岐。
最初は、少し知恵が回る程度、腕がある程度の人物と、誰もが思っていた。だが、彼に接すれば、接するほどに、その見解が誤りだと気付かされてしまう。彼は、曹操を含め、軍師たち全員を手玉に取れるほどの思考、知識をもって、この国の勝利に、この国の発展に貢献した。その腕は、軍の中核である夏侯惇すら赤子扱いし、龍を従え、兵達からの信頼も厚い。まさに、一騎当千という言葉がふさわしいほど。
そんな人物が、敵となるか、変わらず仕えるか。
その決断を言葉とするのだから、この場にいる全員、心中は穏やかではない。
「火具土、砕け」
「応っ」
その声と共に、扉が粉々に砕け散り、玉座の間へと、足を踏み入れてくる。
中心に伊邪那岐。その右側に火具土、天照、左側に月読、凶星の順で姿を見せた五人だったが、その様子は、昼間までの友好的な態度とは正反対のもの。確実に、殺意を、怒りを、その体に押さえつけながら、この場に姿を見せていた。
「すまぬな、曹操。このような時間に」
「別にいいわよ」
中でも、一際、異彩を放っているのは、紛れもなく伊邪那岐。彼は、いつでも表情を変えず、淡々と、無機質な声を投げつけていた。それなのに、今、曹操の目の前にいる人物は、違う。一瞬、瞳を疑ってしまったほど。他の人間が、感情を表に出していることはよくあること。特に、気に止めるほどのことではない。だが、彼だけは違う。彼が、その身に、殺意と怒気を張り付かせている姿など、彼女は一度たりとも目にしたことがない。
「決めたよ、曹操」
「そう、聞かせてくれるかしら?」
心の中がざわつく。違和感の正体は決定的。聞き間違いなどではない。一度であれば、聞き間違いと思えるかもしれない。だが、二度ならば。伊邪那岐は、この場に現れてから、一度たりとも、曹操のことを真名で呼んでいない。
「俺は、この国を出て行く。出立はすぐだ」
「なっ」
すんでのところで声を殺したのは夏侯惇。
彼がどのような決断をするのか、この場にいる曹魏の人間は、誰ひとり確信を持っていなかった。五分五分だと考えていたものがほとんどであり、残って欲しいと願っていたのも確かだろう。それが、こんな形で、別れを告げられるとは、思いもしていなかった。否、思いたくなかったのだ。
「天照、凶星。当面の食料と、この国の金子、半分を頂いていく。すぐに準備を進めろ。邪魔するものは、好きにしていい。ただし、あまり時間はかけるな」
「「はっ」」
硬質な声で命を下す彼に、付き従う二人はそのまま、彼の命を実行するべく、姿を消す。
「なんだとっ」
「正気?」
「俺は、いつだって正気だ」
異論の声をあげる夏侯惇と荀彧。だが、彼の視線を受けただけで、その場に腰から崩れ落ちてしまう。その瞳を見ただけで、心臓を抉り取られる感覚、背骨を力任せに引き抜かれる感覚。錯覚だと分かっていても、体験させられてしまえば、彼女たちには抗う術などない。
「月読」
「はっ」
「荷運びに必要なもの、衣服、それ以外にもお前が必要だと判断したものを集め、お前も二人に合流しろ」
「仰せのままに」
臣下の礼をした後、姿を消す月読。
もはや、彼らを止められる人間はいない。宮の人間、街の人間、それらから、彼らは十二分に信頼を得ているし、もし、彼らを邪魔しようものなら、すぐに殺される。それを実行する力が彼らにはある。しかも、主だった人間はこの場に集結している。緊急時の対応など、できるはずもない。
「ではな、曹操。行くぞ、火具土」
「応っ」
「待って、伊邪那岐。理由を、理由を聞かせてもらえないかしら?」
背を向けてさろうとする二人に対して、ようやく声を絞り出すことに成功した曹操。ただ、それすら、火具土の怒号にかき消されてしまう。
「理由、理由だど、おめぇら、自分が何したか、わがってねぇのかっ」
「火具土」
「だども、伊邪那岐」
「俺の為に怒ってくれるのは嬉しいが、お前はこれ以上関わるな」
食い下がる火具土を優しく諭し、振り返った伊邪那岐は、懐から小さな箱を取り出し、その場にいる人間全員に見えるように、高く掲げる。
「理由、理由はこれだ、曹操」
その箱に見覚えのある者たちは、少しずつ揺れる。それは、昼間、彼が見せてくれた、今は亡き、彼の妻、鈿女の形見である簪が収められている箱。
「見覚えがない人間もいるだろうから、説明してやる。この箱には、俺が愛し、守り抜きたいと誓った、妻の遺品が収められている」
その言葉には、誰もが動揺せずにはいられない。箱が焼け焦げているからだけではない。口にした伊邪那岐が、唇を破れるほど噛み締め、血を流しながらも、感情を抑えている姿が見て取れたから。
「これを、そこで腰を抜かしている夏侯惇は、捨てたのだ。俺の許可を得ることもせずに」
「「「「「「「「「「「「なっ」」」」」」」」」」」」
その言葉を受け、絶句しない人間はこの場にいない。火具土は今にも、夏侯惇へと襲いかかりそうなほど、瞳を充血させ、鼻息も荒い。曹魏の面々は、普段であれば、夏侯惇の失態に頭を悩ますぐらいで済む。
だが、今回ばかりは、そうもいかない。祖を敬い、一族に誇りを持つ人間が多いこの大陸。そんな人間達だからこそ、理解できる。形見をぞんざいに扱われた彼の、抑えきれるはずのない怒りが。
「俺もな、これで救われる人間がいるというのなら、悩みながら、涙しながら、手放すことはするだろう。だがな、曹操よ、そこの阿呆は捨てたのだ。人を生かすためでもなく、救う代価としてでもなく。ただ、捨てたのだ」
途中までは平静を保っていたものの、湧き上がってくる怒りを抑えきることができず、最後、伊邪那岐は文字通り言葉を叩きつけた。そして、その言葉は、言葉に込められた感情を表現するように、柱に、屋根にヒビを入れる。
「わかるか、曹操。己の大事な人間を、二度、失うという喪失感が。わかるか、己の無力さに打ちひしがれる日々が。両手両足を差し出そうとも、いくら声を張り上げようとも、二度と、触れることなどできないのだぞ。俺の気持ちが理解できるというのならば、答えてみよ、曹操」
裂帛の気合とともに打ち付けられる言葉。それは、軍師としてではなく、剣の一族としてでもなく、一人の妻を愛した、一人の男の慟哭。
曹操は答えることができない。
自分がもし、親しい人間の遺品を誰かに許可なく捨てられたら、壊されたら。当然の如く怒り狂うだろう。その犯人を探して、八つ裂きにしても、拷問をしても、その心は決して晴れはしない。
それでも、そんなことをした人間を生かし、この国を去るというのだから、彼の恩情に感謝こそすれ、非難することなどできるはずもない。
「行くぞ、火具土」
「わかっただ」
懐に箱を戻し、背を向けて去っていく二人。その二人に、視線を向けることすら、誰ひとりとしてできない。それほどに、罪深いことを彼らはしてしまったのだ。
「言い忘れていたことがあった。曹操、覚えておけ」
「なにかしら」
一縷の望みと共に絞り出した言葉。だが、その望みさえも淡く、彼は完全に打ち砕いて歩を進めていく。
「部下の手綱すら握れぬものに、王たる資格などない。俺は、お前を見誤っていたようだ。俺は恥ずかしいよ。お前らのような人間に心を許そうとしたことが。俺は憎いよ、貴様らを信用しようとしていた、俺自身が」
決別の時




