第二十九幕
前回のあらすじ
衝撃的な発言を聞いちゃった曹魏の人々
高級料理店でさんざん質問攻めにあった伊邪那岐は、自室へと戻り、いつものように竹簡に筆をすべらせていた。
「やはり、皆の意見を聞いておくべきか」
筆を置き、一度体をほぐすように背伸びを行なった彼は、立ち上がり、室内をあとにしようとした。だが、その時、控えめに扉を叩き、火具土が姿を見せた。
「久しいな、火具土。これから訪ねるつもりだったが、お前の方から来てくれるとは、何かあったのか?」
「悩んでるんじゃねぇかと思って」
「俺が、か?」
「んだ。曹操との期限、今日までだぁ。明日には返事しなきゃなんねぇ」
「まったく、お前には全て筒抜けだな」
笑みを浮かべ、腰を下ろし、室内へと火具土を招き入れる伊邪那岐。
この地に留まって一ヶ月の時が過ぎようとしている。だが、彼の笑顔を見たことのある人間は、今、室内にいる火具土を除いて皆無だと断言できる。彼の心に負った傷は未だ、癒えることを覚えず、事あるごとに痛みを思い出させてくるから。
「おらに、伊邪那岐の考えてることはわかんねぇ。おら、あんまり頭良くねぇし。だども、おめぇさが、辛かったり、悩んでたり、迷ってることだけは、よく分かるだ」
「それだけ、理解してくれれば十分すぎる」
何事もそつなくこなしているように見える伊邪那岐だが、まだ十六。大人ぶって見せ、周りも、それを見抜くことができていないが、彼はまだ、少年。一人ですべてを背負えるほど強くもなければ、痛みを感じないほど、鈍くもない。
「火具土、お前は、どうしたい?」
「おらは、おめぇさについてくだ。それが、地獄だろうと、楽園だろうと関係ねぇ。きっと、月読も、天照も、凶星も。みんな、伊邪那岐が悩んだ末にたどり着いた結果だったら、誰ひとり、異論を口にしたりしねぇはずだ」
「そこに、お前たちの意思はあるのか?」
「あるに決まってるだ。おらたちは、自分の意志で、おめぇさについていくって決めた。それは、今も、このさきも変わることはねぇ」
その言葉は、純粋に嬉しいもの。ただ、感情表現をあまりしたことがない、彼は、軽く鼻を鳴らすだけ。その行為すら、照れ隠しだと見抜けるのは、火具土と布都の二人。彼が、心を許すことを決めた、親友の二人だけ。
「まったく、薄情なやつらだ」
「たっぷり、悩むといいど、伊邪那岐」
伊邪那岐の言葉に笑顔で答える火具土。
彼は知っている。長く共にいたからだけではない、心を許してくれているからだけではない、彼の生きてきた道、傷ついてきた道、涙を流してきた道、笑いあった道。それらを知っているからこそ、彼は伊邪那岐に命を預けられる。伊邪那岐は、感情を滅多に表に出さないだけ。その内側は、誰よりも優しく、傷つくことを恐れる年相応の少年だからこそ。
「ふむ、考えがまとまらんな」
「焦る必要なんてねぇだ」
「まぁ、こうしていても変わらんだろうし。よし、火具土、湯に付き合え」
「風呂かぁ。ええど、久しぶりに背中流してやるだぁ」
「お前のは、痛いから勘弁してくれ」
そして、懐から小さな箱を取り出し、机の上においた伊邪那岐は、火具土を伴い、室内を後にする。
この、曹魏の地で、心を許し始めたがゆえの行動を、後に彼は後悔することになる。
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「まったく、あいつは手加減というものを知らん」
口では悪態を付きながらも、上機嫌の伊邪那岐は室内へと戻り、いつものように、雑務をこなそうと机に向かう。だが、そこで、彼の表情は一変する。
ないのだ。
彼がいつも懐に、いつも持ち歩いている小さな箱が。
「ない、なぜ、ない」
賊が忍び込んだ?
その可能性は少ない。彼の部下である天照を中心として、宮の警備は厳重で、許可なきものは立ち入ることもできない。そんな状態で、賊が忍び込めるはずもない。
机をひっくり返し、竹簡を収めている棚を調べ尽くし、室内が、あっという間に乱れていくが、目当てのモノは一向に姿を見せてはくれない。
「伊邪那岐、手合わせをしろっ」
「今それどころではない」
いつものように、扉を破壊しながら登場する夏侯惇。そんな彼女に視線すら向けず、彼は室内を探している。
「そうだ、春蘭、このくらいの箱を知らぬか?」
「ん、確か、捨てたぞ」
藁にも縋るつもりで聞いてみれば、返ってきたのは、彼の心をえぐる言葉。
「捨てた、だと?」
「今頃は、燃えているのではないか?」
その言葉を聞いた瞬間、伊邪那岐は殺意を抑えるのに必死だった。目の前の女を殺したい。その欲求は彼の手足を扇動しようとする。それでも、その感情を必死に抑え、彼は室内をあとにする。後にしたという表現は適切ではないかもしれない、彼は一陣の風となって、室内を飛び出していった。
「伊邪那岐、後で話があるのだが?」
「ねぇ、伊邪那岐。返答は、今日くれるのかしら、それとも明日?」
廊下を駆けていく彼の耳に、夏侯淵、曹操の二人の声が届いてきた。普段の彼であれば、足を止めていただろう。だが、今は事態が事態。ことは一刻を争う。足を止めることもしなければ、声をかけることすらしない。それほどまでに、今の彼は追い込まれていた。
「なにか、あったのかしら、秋蘭?」
「さぁ?」
事の重大さを理解できていない二人は、そのまま、歩いていく。
もし、この場で二人が彼のあとを追っていれば、結果は違っていたかもしれない。
走り始めて、およそ四半刻。風呂に入ったというのに、汗だくで、肩で息をして、心臓が悲鳴をあげているが、今の伊邪那岐には些細なこと。あとでどうとでもなることでしかない。
ようやく、視界に入ってきた煙。
そこに到着したとき、既に火の手は大きく上がり、消火作業にどれほどの時間と労力が必要かもわからない。それでも、彼はその中へと飛び込んだ。身につけた技を使えば、少ないながらも危険度を減らせるというのに。既に冷静ではいない、今の彼にそんな考えは浮かんでこない。
着物が焦げる。気にはしない。肉が焦げる。気にはしない。髪が焼ける。気にしない。指の爪が剥がれる。気にしない。熱気、煙で視界が霞む。気にしない。
自分が傷ついていくことすら度外視。ようやく、目当てのモノを発見できたのは、僥倖と言えるだろう。箱は当然のように熱く、それでも、それを抱きかかえるように炎から飛び出した伊邪那岐。自分の怪我を、今の状態を心配するよりも先に、箱の中身を確認する。
あった。
若干、煤に汚れてしまってはいるものの、汚れているだけで、燃えておらず、原型をとどめている。そして、その簪を、強く、強く抱きしめ、彼は、ようやく安堵の涙を流す。とめどなく、止まることを知らない涙を、今は拭おうともしない。
ひとしきり、泣き終えた彼は、簪を再び箱へとしまい、懐へ収める。
「伊邪那岐殿、一体どうされたのですか?」
「ちょっと、伊邪那岐、あなた、何やったのよ?」
心配して近寄ってくる田豊と凶星。それほどまでに、彼の今の姿は酷いものだった。着物が焼け焦げているだけでなく、髪も、その下の肉体も、見るに耐えないほど。指の爪はほとんどが剥がれ落ち、出血したまま。
「大事無い。それよりも、田豊。玉座の間に、主だった人間を集めろ」
「それよりも手当てを」
「くどい」
「はっ、はい」
心配していたものの、もはや、逃げ出すような勢いで駆けていく田豊。それを見ながら、立ち上がった伊邪那岐。
「凶星、部下をこの場にすぐに集めよ」
「直ちに」
頭をすぐに下げ、その場を去っていく凶星。その心は、彼と切り結んだことのある彼女ですら、恐怖に支配されていた。今の彼は、いつもの、軍師として振舞っている伊邪那岐ではない。その姿は悪鬼羅刹の如く、近寄っただけで、それを理由として首を刎ねる程、残忍なもの。今の伊邪那岐は、地獄の業火を体現できるほどの殺意を、身に纏い、抑えようともしていない。
「鈿女、俺は、どこで間違ったのだろうな」
幸せな時間は、唐突に終わりを告げる




