第二十四幕
前回のあらすじ
月読に脅されちゃった曹操
馬を飛ばして一刻。ようやく目的の場所へと到着した伊邪那岐は、大きく深呼吸を一度したあと、馬を降り、解き放つ。これで、彼には村へと戻る手段がなくなった。そうして自分を追い込まなければ、逃げようとする、弱い自分に屈してしまいそうになるから。
凶星は強い。
彼女は序列一位である布都と共に、里より龍の地位を与えられた数少ない人間であり、彼が今、手にしていない、真龍刀も持っているはず。まともに戦えば、彼といえど、勝てる保証はどこにもない。それでも、勝たなければならない。
「まったく、自分自身が嫌になるな」
選択肢は無数に浮かんでくるものの、その全てを却下し、彼は単身で戦うことを選んだ。そうすれば、味方側の犠牲は、最低でも自分一人で済んでしまうから。
恐怖に足がすくむ。喉がやけに渇いて、手のひらが汗ばむ感覚。彼はこの状態をよく体験している。そして、その度、今は亡き、一人の少女に喝を入れられたことも。
「あんたはいっつも、気負い過ぎなのよ。肩の力を抜きなさい。いざとなったら、あたしがあんたの一人くらい、いつだって助けてあげるから」
そう、いつも彼の隣で口にしていた少女は、既に帰らぬ人。懐には、少女の形見である簪がある。
「そう、俺は、あの時、誓った。俺のそばにいる人間は、誰ひとりとして、殺させない。守り抜くと」
手のひらの汗をぬぐい、呼吸を落ち着ける。そうすれば、もう、焦りも恐怖も浮かんではこない。彼は、今、ひと振りの剣となり、敵を葬るだけの兵器へと変貌を遂げる。
「貴様、何者だ?」
駐屯地に近寄れば、当然のように兵からの尋問を受ける。それにたいしての返答は、刀を抜き放ち、首を地面へと落とすこと。
「邪魔だ」
人を殺すことに恐怖はない。躊躇えば、迷えば、その分だけ味方が死んでいく結果しか、神は与えてくれない。
突然の襲撃。
それに迅速に対応することができたのは、常日頃からの鍛錬の賜物。次々と集まってくる袁紹軍の兵士たち。
それを、埃でも払うように、斬り捨て、踊るように伊邪那岐は歩を進めていく。悲鳴が上がる、血飛沫が上がる、怒号が上がる。されど、そのどれ一つとして、彼の心を揺るがすことはできない。ひと振りで一つの命を、ふた振りで二つの命を、刀を振るうたび、確実に命を奪い去る姿は、まさに死神。表情一つ変えることもしなければ、声を上げることもしない。ただ、淡々と、近づいてくるものに死という、ぬぐい去ることの決してできない烙印を刻みつけ、伊邪那岐は進み続ける。
五十ぐらいの人間を骸へと変えた頃、一滴の返り血を浴びることもなかった彼の左腕に激痛が走ってくる。その技術を彼は知っている。だからこそ、慌てることなく、懐から取り出した布で、傷口を縛り上げて迅速に止血。傷は深くもなければ、浅くもない。止血をしたものの、動かせばすぐに出血してくることだろう。
「久しぶり、そう、口にしたほうがいいか?」
「ええ、本当に久しぶりね、伊邪那岐」
彼が口を動かすと、兵たちを割るように一人の女性が姿を現す。
艶やかでいて、露出の高い着物を纏った黒髪の女性。その腰にはふた振りの刀が差され、ひと振り、抜き放たれた、彼女の右手に握っている刀は血に濡れている。
「今のは、絶界だな。なぜ、一太刀目で、俺の首を落とさなかった?」
「久しぶりに会ったのに、直ぐにさよならじゃ、味気ないでしょ?」
伊邪那岐の質問に、茶目っ気溢れ、軽く舌を出して笑いながら答える凶星。ただ、その瞳は狂気に溺れ、今すぐにでも、彼の喉を切り裂きたいと、炯々と輝いたまま。
「それにしても、あなた、意外と馬鹿だったみたいね。真龍刀も持っていない状態で、こんなところに現れるなんて、自殺行為よ?」
「ああ、確かにそうかもしれないな」
「でしょ? だから、もうちょっと盛り上げてあげるわ」
その言葉とともに釣り上がる、彼女の唇。抜き放たれるふた振り目の刀。
それと同時に、彼女を中心とした円上の兵士たちの首が地面へと落下し、遅れて吹き出した血の噴水が無数に上がる。
殺戮技巧、乱の巻、円環。
己を中心とし、二刀の斬撃を、円を描くように飛ばし、周囲の敵を殲滅するための技。
「お前の兵ではないのか?」
「私の兵に決まってるじゃない。だから、役に立ってもらったのよ。あなたとの再会を祝福するための、祝砲として、ね」
伊邪那岐の問いに、返り血を全身で浴び、恍惚の表情を浮かべながら答える凶星。その姿はまさに、死を恐れず、己の闘争本能のまま暴れまわる狂戦士。
「ねぇ、楽しみましょうよ。私は、ずっと楽しみにしてたのよ。里長の企みに乗ってあげたのだって、あなたと、殺し合いたかったからなんだから」
「狂っているな、お前は」
「ええ、狂ってるわ。これ以上ないぐらいに。でもね、伊邪那岐、あなたも狂っているのよ? じゃなきゃ、人を殺して、何の反応も示さないなんておかしいでしょ?」
彼の返答は、彼女の死角から狙った斬撃。それを、軽くあしらうように弾き返す凶星。片腕での攻撃ということもあって、伊邪那岐の斬撃には体重が乗せきれてはいない。そして、着地を許さないように配置された兵たち。その兵たちを、かいくぐることも、避けることもせず、彼は着地する。遅れて、短冊のように切り裂かれた、兵たちの体が地面へと引き寄せられていく。
殺戮技巧、乱の巻、雨竜
降り注ぐ雨の如く、上空から斬撃を無数に落とし、下にいる敵を葬る技。
「ねぇ、狂ってよ。お願いだから、私に見せてよ。里の人間、全員を恐怖のどん底に叩き落とし、恐れられるようになった、あなたの本当の姿を」
「何を言っているのか、さっぱりだ」
「追い込めば、見られるのかしら?」
声は彼の背後から聞こえた。それと同時、右の脇腹に違和感と激痛が駆け上がってくる。視線だけで確認すれば、そこから、刀が生えている。それを、滑らかな動きで動かし、深々と裂かれる右脇腹。傷は深く、地面に一瞬で血だまりを作ってしまう。
「これね、絶界と円界を併用した、私独自の技で、釈迦って言うの。効果は見ての通り。あなたでも、手も足も出ない」
彼女が口にした技が、言葉通りの力を持つなら、伊邪那岐の首を落とすことは容易い。だが、それをあえて彼女は先送りにしている。楽しんでいるのだ。傷つけ、弱っていく相手の姿を見ることを。
「う~ん、私の見込み違いだったかしら。本気になる前に死にそうね、伊邪那岐」
彼女の言葉通り、左腕と右脇腹の出血で、彼の息は乱れ、集中力も途切れかけている。立っているのがやっとの状態と言ってもいい。
「あの子も、無駄死にね。あなたみたいのに、看取られて可哀想に。それじゃ、さよなら」
その瞳に、もはや狂気は浮かんでいない。浮かんでいるのは哀れみ。期待はずれを引いてしまったような、おもちゃに飽きたような、冷めた視線。その言葉と同時に、振り下ろされる刀は、彼の知覚技術、円界をもってしても、察知することはできない。
「不用意な言葉ばかり、口にしたな、凶星」
だが、その一撃は、彼の刀によって受けられ、命を奪えていない。
まぐれ。
そう考えて、凶星は再び、釈迦を用い、彼の円界を破りながら、攻撃を繰り出す。次の狙いは背後から、心臓への刺突。しかし、それすらも、彼に触れる瞬間、体を捻って、回避される。間違いなく、伊邪那岐は、彼女の攻撃が来る場所を理解している。
「絶界と円界の併用技と言ったな。なら、俺にはもう通じん」
「なんでよ」
「確かに、俺は絶界を収めてはいない。だが、それを知覚できないとは、一言も口にしていない」
「まさか、奔流?」
「独自の技を持っているのは、お前だけではない。奔流と円界の合わせ技、名を俯瞰絵図」
奔流。
円界の中で、相手に悟らせることなく動くことができる技術を絶界と呼ぶなら、奔流は、絶界を察知するためだけに編み出された技術。円界が視覚、聴覚、嗅覚の三つを総動員する技術であるのに対し、奔流は触覚を鋭敏化させ、気配ではなく、体全体で相手の動きを感じ取る技術。
「俺は、甘いな。最初から、お前を殺すつもりで来たというのに、心のどこかで、その考えを否定していたようだ」
瞳を閉じ、言葉と共に血を吐き出しながら、伊邪那岐は刀を一度鞘へと収める。その行為には、何かしらの意味がある。そう、勘ぐらせるに、先ほどの技術を口にしたことは十分だった。
伊邪那岐が瞳を開ける。
その瞬間、凶星の瞳には狂喜が浮かぶ。そこにあったのは、紛れもない殺意。それも、他の誰でもなく、彼女のみに向けられた。
「殺し合いが望みだと言ったな。叶えてやろう、凶星」
「うん。今のあなたとなら、最高の殺し合いができると思う」
答えた彼女は、今すぐにでも飛びかかりたい衝動を抑えるのに必死。だが、それをしないのは、彼女の経験が、体の動きを制限しているため。
「だが、残念なことこの上ない」
その言葉は、彼女を否定するためのものではない。頭に疑問符を思い浮かべた彼女が、一瞬、動きを止めてしまったほどに、底の見えない、憎悪、殺意に染め抜かれたもの。極寒の地が生ぬるいと感じてしまう程に、濃厚でいて、絡みついてくる凶気。
「これから起こることは、殺し合いではない。一方的な虐殺だ。あいつを、あいつの死に様を、侮辱したことを後悔し、永久に這いずれ」
冷静にブチギレてた伊邪那岐。