第二十三幕
前回のあらすじ
単独行動に出た主人公
時を同じくして、許昌、玉座の間。
次々と押し寄せるようになってくる諸侯たちの相手をひと通り終え、曹操は自室へとようやく戻ることができたところ。
「すこし、待たせてしまったかしら、月読?」
「いえ。曹操殿はご多忙を極めておられます故。僕のような若輩者に、そのような気遣いは不要です」
素直に謝罪を口にした曹操だったが、待たせていた当人に気を使われてしまえば、それ以上言葉を口にすることができない。
「それで、此度は、どのような御用で?」
「すぐに要件に入るのね、あなたは」
「申し訳ございません。僕には、兄様のように余裕がありませんので」
軽くからかっただけだったのだが、真面目に返されてしまい、曹操は呆気にとられてしまう。
「まぁいいわ。あなたを呼んだ用件は、伊邪那岐のことよ」
「兄様のこと、ですか?」
「ええ、あなたの目から見たあいつのことを、聞きたいの」
「兄様は、ご自身のことを内密にするような方ではありません。お聞きになりたいのであれば、兄様に直接お迂回すればよろしいかと」
席を経とうとする月読を制し、曹操は続ける。
「確かに、あいつのことだから、聞けば答えてくれるでしょうね。でもね、今回聞きたいことは、あいつのことではなく、あなたから見たあいつ。わかるかしら?」
「僕から見た、兄様ですか?」
「そう。あなたから見た伊邪那岐。嘘偽りなく、答えてくれれば、ありがたいわ」
彼女は笑みを浮かべ、内心を見透かされないよう仮面をかぶる。
曹操自身、月読のことを甘く見てはいない。伊邪那岐の部下という点を差し引いたとしても、彼の手腕は、曹魏を発展させていく中で、大きく期待できる。そんな人物が、心酔している人物。うまくいけば、伊邪那岐が心を閉ざしている原因を掴むことができる。そう考え、彼女は月読を自室へと呼んだのだった。
「兄様は、とても優しい方です」
「優しい、あいつが?」
「ええ、同時に厳しくもありますが」
月読の発した言葉を素直に受け取ることができない曹操。どこをどう見れば、あの男がそう見えるのか、彼女にとっては疑問以外の何物でもない。
「曹操殿は、兄様に叩かれたことは?」
「何度か」
「ふふっ、そうですか」
口元を押さえながら笑う月読。他人が叩かれているさまが、おかしいと思える時点でどうかしている。
「曹操殿は、少なからず、兄様に気に入られているようですね」
「どこが、かしら?」
「兄様は、ああいった方なので誤解されやすいのですが、気にもしない人物に触れるということはしません。叩く、諌める、その行為を兄様がしたということは、少なからず、心配されてのことです」
彼の言葉を聞いて、曹操は自身の過去を振り返る。
彼女自身、賛同するもの、非難するもの、多くの人間に出会い、これまでの人生を歩んできた。だが、伊邪那岐のように、彼女と同じ位置に立ち、彼女を王として扱うのではなく、一人の人間として接してきた人間は数えられるぐらいしかいない。ましてや、叩かれたり、説教をされたり、そんなことをしてきた人間は彼を除いて皆無。
「続けなさい」
「はい。兄様は、強い方です。腕だけでも、知だけでもなく、心も」
「どういうことかしら?」
月読の言葉に少なからず疑問を感じてしまう曹操。彼女の知る限り、伊邪那岐は、少なくとも心は強くない。臆病で、自身の作り上げた心の檻の中で自分を守り続けている。
「兄様は、自身を頼ってきた存在を誰ひとりとして、見捨てることをしません。自分が傷つこうとも、罵られようとも、誰に信用されずとも。賞賛、名誉、武功は皆へ分け与え、罪、罰、汚名は己で受け止める。自らを汚すことを厭わない。そのような人間を、誰が弱いと思えましょう」
伊邪那岐は、己の心の内を見せようとしない。だが、そんなものを見せずとも、自身の体に刻みつけた傷、悪で、人を救ってきている。そのことを知っているが故に、月読は、伊邪那岐を誇り、彼に仕えることを己の生きがいとしている。
「そう、あなたから見て、伊邪那岐はそう見えるのね」
「はい」
迷いなく答える彼の姿が、自身の部下の姿と重なって見える。
「でも、序列で、あなたはあいつの上にいるのよね?」
「はい。ですが、それには理由があるのです」
「理由?」
「序列は一位から末席の十位まで。当然、一位が一番強く、十位が一番弱い。誰もがそう考えます」
「裏があると?」
「はい」
月読の言葉を、期待を込めて待つ曹操。
「兄様は、序列の十位。ご自身でも、序列の人間に対しては、誰を相手にしても勝てる見込みは少ないとおっしゃります。ですが、その言葉こそ、偽りです」
「偽り?」
「はい。序列を決めるのは、里長なのですが、十位だけは、兄様と決められておりました。それは、兄様の実力が、一位を凌駕していたからに、他なりません」
「一位よりも、実力があるのに、十位だというの?」
「こう考えれば、納得していただけると思います。十位を名乗っているものの力を見せつけられ、それよりも上がいるという言葉」
そこで彼女は、気付く。
序列の一番下に位置する人間が、一番強く、そのことを知っているのは内部の人間だけ。外部の人間からしてみれば、それ以上の人間が控えているという事実。それこそ、里を守るための宣伝文句としては一流のもの。
「このことを知っているのは、上から、序列一位の布都殿、五位の天照、八位の火具土、そして、九位の僕だけです」
「一つ聞いていいかしら?」
「なんなりと」
「その、序列全員とあいつが戦った場合、結果はどうなるのかしら?」
「普段の兄様であれば、兄様が死にます。やる気を出した兄様であれば、半数が死に、兄様も死にます。ですが、本気となった兄様が相手であれば、序列全員、里の人間全員含めたとしても、こちら側が全滅して、兄様が生き残ります」
淡々と口にしているものの、月読の膝は震えている。それは、彼が伊邪那岐の本気を見たことがある確かな証拠。
「参考までに、教えておきます。序列六位を監視に付けられ、行動を制限されていた兄様を、里の人間たちがどう呼んでいたのか」
その言葉を聞いて、曹操は生唾を飲み込む。
「大蛇。その体躯は龍と似通い、地を這い、決して天へと登らない存在。知を研鑽し、武を磨き、隙を見せれば、その顎が容赦なく牙を剥く。味方であっても、安心することができず、敵にすれば、夜眠ることすらかなわない。それ故、恐れられ、誰ひとりとして近づくことをよしとしない」
そこで、月読は席を立ち、曹操に対して背を向け、室内を出ていく。だが、彼の残した言葉だけは、彼女の耳にまとわりつき、しばしの間、消えることがなかった。
「お気をつけください、曹操殿。兄様に何かあれば、僕だけでなく、天照、火具土はすぐにでも、この国を滅ぼし、兄様のもとへ馳せ参じる者たちですから」
ドSな月読くん