第二十幕
前回のあらすじ
曹仁に喧嘩を売られ、買ってしまった主人公
かたや烈火、かたや流氷。二人の視線を表現するなら、この言葉が妥当だろう。それほどまでに、二人には温度差がある。
「へぇ、あなた、死にたいのかしら?」
「単細胞もここまで来ると、いっそ清々しいな」
その空気は、一触即発。どこかで動きがあれば、即座に二人の体は動いたとしてもおかしくはない。
「華琳のお気に入りと聞いていたから、どれほどの人物かと期待してみれば。期待はずれも甚だしいわ。春蘭、秋蘭、華琳にはこう、伝えておきなさい。無礼者を手打ちした、と」
腰の剣を抜き放ち、伊邪那岐へと突きつける曹仁。その刃は、そのまま決して止まることはないだろう。それは、その場にいた全員が理解できた。
「「理琳様」」
彼女の行動を止めようと、声を上げ動こうとした夏侯惇、夏侯淵の二人を手で制し、伊邪那岐は口を開く。
「曹仁と、言ったな?」
「ええ、命乞いの言葉でも口にしたくなったの?」
楽しげに言葉を口にする曹仁に対し、
「そこの夏侯惇に、俺は昔、ひとつ教えたことがある」
「へぇ、なにかしら?」
「殺そうと向かってきたなら、殺される覚悟も、当然、持たねばならん、と。お前、覚悟はあるのだろうな?」
「命乞いにしては、陳腐なセリフね」
彼女は理解していない。もっとも、かつてその言葉を聞いたことのある二人ですら、いま、彼の言葉を聞いて、その時のことを思い出したのだから、当然のことと言えなくもない。
「死になさい」
その言葉とともに振り抜かれるはずだった剣。だが、その剣が自分の腕にないこと、それに彼女が気づくことができたのは、伊邪那岐が言葉を口にしたあと。
「将としても、これでは使い勝手が悪すぎるな。今、ここで首を刎ねておいたほうが、後のためかもしれん」
つまらなそうに口にした彼の右手、そこには曹仁が先ほどまで握っていた剣が握られ、立場を先程と逆転したかのように、彼女の首にそっと、刃が添えられていた。
「なぁ、秋蘭。華琳は、自分の身を守るために、愚か者とはいえ、妹を手にかけた俺を許すだろうか?」
その言葉からは、相変わらず温度というものが感じられない。ただ、確実に言えることは、曹仁の命は今、彼によって握られ、夏侯淵の次の言葉次第で、彼女の命はこの場で尽きることになる。
「おそらくだが、許さないはずだ」
「ふむ、そうか」
彼女の言葉を聞いて、あっさりと剣を手放した伊邪那岐。そこで緊張の糸が切れたのだろう、曹仁はその場にしゃがみこんでしまう。
「武の腕は春蘭以下、知の方も秋蘭以下、器も当然のように華琳の足元にも及ばない。殺したところで、問題はなさそうに思えるが。雇い主の不興を進んで買っても不利益しかない、か」
曹仁へと向けた視線も変わらず冷たいまま。だからこそ逆に、彼女の自尊心を根こそぎ砕ききったのだろう。伊邪那岐の視線に怯えるように、彼女は少しずつ彼から距離をとり始めている。
「今のは、抜き、ですか?」
「ほう、見えたのか、あれが」
自信なさげに口にする楽進。そんな彼女の答えを認めるように、伊邪那岐は答える。
人間の体は、一つの動作をするために、確実に余計な部分に力を使う。剣を振るうのであれば、振りかぶるとき、振り下ろす時、止めるとき。その動作の途中で、余計な部分の力を利用して、相手の獲物を奪い、逆につきつける。それこそが、かつて夏侯惇に、今、曹仁に対してやったことの正体。この技は、数ある武術の中でも奥義として捉えられ、その名を無刀取りと呼ぶ。
「なるほど。確か、楽進といったな。お前は、あそこで腰を抜かしている奴よりは使えそうだ。春蘭も、未だにどうやって自分の獲物が俺に奪われているのか、理解できていないというのに。なかなか大した腕だ」
「夏侯惇将軍も、ですか?」
褒められているというのに、楽進の心中は穏やかではない。
夏侯惇の武は、この国に住む者であれば、誰もが知っており、一目置いている。その夏侯惇相手に、無刀取りをするという人物。彼女が気づけていないというのであれば、先ほどの動きも、全力を出していないのは明白。そう考えてしまえば、彼女も武人。実力のそこを見てみたいと思ってしまうのは性。
「やめておけ、楽進。俺は、悪戯に誰かを傷つける気はない」
殺気も出していなかった。動き出しの音さえ立てていない。それでも、伊邪那岐は、彼女の次の行動を予知して釘を刺してくる。
「まぁ、お前ら武人の感覚は似通っているから、分からぬこともない。そうだな、今宵、少しばかり、手の内を見せてやろう。それで、我慢しろ」
「何を言っているのだ、伊邪那岐?」
彼の言葉が理解できず、先を促すように問いかけてくる夏侯淵。曹仁に駆け寄るべき立場の彼女なのだが、この場を動いて、彼の不興を買うほうが彼女としても恐ろしいらしく、その場から動いていない。
「ああ、お前らは遊び歩いていたからな」
「遊んでいたのではない。買い物をしていたのだ」
「意味合い的には同じだろうに」
口をはさんでくる夏侯惇。そんな彼女に言葉だけ返し、彼はその場にいる全員に伝わるように口を開く。
「今宵、袁紹軍がこの村に攻めてくる」
きちんと仕事していた主人公