第十七幕
前回のあらすじ
かなりやせ我慢していた主人公
黄巾賊討伐より一週間の時間が流れた。
曹魏の中心地、許昌。
この地に来て、文字の読み書きすらままならなかった伊邪那岐だったが、程イクに郭嘉、荀彧という、この国きっての軍師たちの憂さ晴らしにも似た指導もあって、短い期間で読み書きを習得。今では、私室も与えられ、自分の机に向かって与えられた仕事を一通り、一人でこなせるようになっていた。
「伊邪那岐、失礼するぞ」
扉を軽く叩き、室内に現れたのは夏侯淵と、彼女の副官である典韋の二人。来訪者に対して、仕事をしたまま応対するのは失礼。そのことを知っている彼は、一度筆を置いて、身だしなみを整える。
「俺は、見ての通り仕事の最中なのだが、何ようだ、夏侯淵?」
記憶を反芻してみても、彼女がこの部屋へ訪れたことは一度もない。姉である夏侯惇は、暇になれば、手合わせをしろと、仕事の邪魔をしに来るのだが。
「実は、お主に頼みたいことがある」
「俺に、頼み?」
訝しみながらも、椅子を出し、二人に腰掛けるようにすすめる伊邪那岐。
彼の私見を述べるなら、夏侯淵は文武両道。姉とは違い、文官の任も軍師の補充がきくまで付いていたと聞いている。実際、仕事に関して言うなら、若輩者の彼よりも、彼女の方が効率よくこなすことができるのだから。
「最近、袁紹の領地近辺で山賊の被害が多発していてな。先程、私と流流に視察の命がくだされたのだ」
「ほう」
一応程度に相槌をうち、彼は記憶を掘り起こす。
袁紹は、王朝に親族も多い、貴族と呼べる身分の持ち主。ただ、人の上に立つことが当然と思っている節があり、民のことを気にすることなく、自身の宮で日々、豪遊している噂まである。
「おそらく、袁紹の領地で、重税に耐え兼ねた者たちの成れの果てだとは思うのだが」
「そこまで考えているなら、本人に処理させたらどうだ?」
「できればそうしている。だが、襲われているのが、こちらの領地というのが、問題なのだ」
「ああ、わかっているとも」
たとえ、発生したのが他の領地であったとしても、それを、自分の力で鎮圧できないとなれば、他の領主に攻め込まれる絶好の理由となってしまう。ただでさえ、黄巾賊であった民を受け入れ、国の内情は慌ただしい。ここで弱みを見せてしまえば、袁紹だけでなく、他の領主にも、この領地は狙いやすいと思われてしまう。
「そこで、伊邪那岐、お前に同行して欲しいのだ」
「だろうと思ったよ」
会話の流れから、大体の予想は出来ていた伊邪那岐。それでも、一応聞いておきたいことはあるわけで。
「それで、俺を選んだのは、華琳か、夏侯淵、お前か?」
「私だ。華琳様にも、きちんと許可は頂いている」
「なら、理由を聞かせてくれ」
「他の軍師たちは、今、お前も知っている通り、隊の編成、増えた国民の食料問題など、多くの案件を抱えているため、動かしづらい」
そして、彼女は一度言葉を区切り、となりの典韋と視線を交わしてから、言葉を続ける。
「っと、いうのは、華琳様を納得させるための建前だ。私は、華琳様だけでなく、姉者、それに軍師たちも認めているお前を、自分の目で見てみたい」
「そのように、認められるような功績をあげた覚えは、俺にはないんだが?」
「謙遜もすぎれば、嫌味と取られるぞ、伊邪那岐。華琳様の意表をつく交渉事、黄巾賊の件も含めれば、お前は大きくこの国へ貢献できる人間と思わせるには、十分すぎる」
その表情から、考えを読み取ることはできない。言葉通りのことを考えているかもしれないし、別のことを考えているかもしれない。
彼としては、珍しいことに、夏侯淵は苦手なタイプと言える。
自分の感情をまっすぐ、偽ることなく表現する、夏侯惇のような人間は、扱いは大変だが、動かしやすい。逆に、曹操や軍師たちのように、自分の心の内を隠している人間であれば、どのように動くか、対処法を事前に考えておくことができる。だが、それに属さない、夏侯淵のような存在と、彼はまだ出会ったことがない。
「まぁ、断る理由も特にはない、か。出立はいつだ?」
「今日の夕刻には」
「わかった。それまでに仕事を終わらせ、支度を済ませておく」
彼の了承を得て、退室しようと席を立った二人だったが、扉に手をかけてから、思い出したように振り返り、
「そう言えば、私の真名をまだ、預けていなかったな。秋蘭、以後、そう呼んでくれ」
「流流です」
「そのように、気軽に預けてしまっていいものなのか?」
彼の記憶に間違いがなければ、真名とは、この大陸において、自分の信頼できる相手にのみ、預ける名前。そして、それを不用意に口にすれば、首を落とされても文句を言えない。国が違っても、そのことじたい、どの国も同じであったはず。
「なに、華琳様も、姉者も、軍師の皆も預けたのに、私だけ預けないのは、どうかと思ってな」
「己というものを、きちんと持ったほうがいいぞ、秋蘭」
「ふふっ、肝に銘じておく」
微笑し、室内から去っていく二人。それと入れ違いに、姿を現したのは程イク。彼女は断ることもせずに、出したままの椅子に腰掛け、棒付きの飴を舐めている。
「風、お前は一体何の用だ?」
「つれないですねぇ~、お兄さん。せっかく、訪ねてきたというのに」
「忙しくてな。構っている余裕がない」
夏侯淵と典韋の任務に同行することになった彼に、余計なことに時間を割いている余裕はあまりない。もっとも、仕事の大半は終わっていて、あとは、別の日に回すことのできる瑣末なことだけなのだが。
「伊邪那岐。今日という今日こそ、貴様をギャフンと言わせてやるから覚悟しろっ」
いきなり扉が粉砕され、姿を現す夏侯惇。扉を開ける際は、軽く開けと、何度も言い聞かせているはずなのだが、守られたことは一度もない。
「春蘭、俺は忙しい。後にしろ」
「そう言って、貴様はまた、逃げるつもりだろう」
「そういうことだけは覚えているのだな。必要なことは覚えないくせに。随分と都合のいい頭だ」
「ふん、当たり前だ」
皮肉を皮肉と理解せず、胸を張って褒められていると勘違いしている夏侯惇。そんな彼女と程イクを交互に見て、彼は深いため息をつく。
「どうしていつも、忙しい時に限って邪魔が入る」
さぁ、三人を迎えに行くとしましょう