第十五幕
前回のあらすじ
曹操と一緒に黄巾賊の駐屯地に向かった主人公
それは、当然の反応とも言えた。
目の前に突如として現れた、絵巻物から現れたとしか表現しようのない巨大な龍。そして、その頭に両の足でたち、自分たちを見下ろしている姿。恐怖というものは、人間が根源的に抱えているもの。訓練を積んでいる者たちであればいざ知らず、ただ、集まっただけの者たちが、それを制御することなどできるはずもない。あるものは狂ったように叫び、またあるものは、腰を抜かし、その場に座り込んでしまっている。
「我が名は曹操。いずれ、この大陸に覇を唱える魏の国主である」
そんな中、龍から降り、大地に足をつけ、曹操が声を張り上げる。
「国を憂い、故郷を思い、村のために立ち上がったあなたたちを、私は誇りに思う」
その声が響き渡ったのは、皆の心が恐怖で麻痺してしまったからか、それとも、彼女の持つ王としての風格故か。
「されど、今、王朝に対して刃を向けるのは愚の骨頂。たとえ、腐敗しているとしても、相手は王朝。あなたたちだけで倒せるほど容易い存在ではないわ」
そして、彼女は現実を突きつける。
黄巾賊がいくら大規模に膨れ上がったとしても、それは所詮、訓練されていない民間人の集まりに過ぎない。諸侯に命令を下し、鎮圧させるという手段を王朝側が取れば、この反乱もまたたく間に鎮圧されて終を迎えることだろう。これは、予測ではなく、予言。何年先か、それとも、明日か、このままでは、黄巾賊が戦って勝てる未来は、確実にやってくることはない。
「本当に、この国の先を思うのであれば、我が元へ降りよ。私は、この先、必ず、民たちの意を汲んで、王朝へ戦いを仕掛ける。いわば、同志。皆の者、私の下で力を磨き、私と共に、国を救おうではないか」
剣を抜き放ち、天へと切っ先を向ける曹操。
最初、戸惑い、静聴しているだけであった者たちが、次々と彼女の名を口にし、己の拳を振り上げ始める。やがてそれは、小さいものではなく、大きな歓声となって、曹操の耳に届き、彼らが、彼女を己の主を認めた声は、止むことを知らない。
「いつまで浸っているか、この阿呆め」
そんな曹操の頭を後ろから軽くたたき、伊邪那岐はため息を一つ。
「あなたね、仮にも私は王なのよ。この行為がどのような意味を知らないわけではないでしょう?」
「黙れ、阿呆。戦とは、勝鬨の声を上げた時こそが、一番危うい。そして、勝利は終わりではなく、始まりに過ぎん。余韻に浸るのは、国へと帰り、己の寝所についてからにしろ。このような些事で、一々一喜一憂するなら、その都度、たたいて分からせてやるぞ、愚か者め。貴様らもだ、阿呆ども」
曹操の言に痺れ、羨望と賞賛の眼差しを送っていた荀彧と夏侯惇の二人も同様に、彼女のように諌める伊邪那岐。
「なんだとっ」
「なんですって」
「俺がこの場に潜んでいた敵であれば、今、この時、お前らの首は地に落ちていたぞ」
口々に文句を口にする二人に対して、冷たい眼差しを向け、
「敵意を削いだとはいえ、ここが敵地であることに変わりはない。大将の首級も上げず、勝利に酔いしれるとは何事か。恥を知れ」
淡々と告げる。それは、苛烈な声でも、熱意を帯びたものでもない。だからこそ、その場にいた三人の心に、冷たい刃を突きつけるように、避けられない現実として向けられる。
「そうね、あなたが正しいわ、伊邪那岐。先の件、私の浅はかさを戒めるには、いい意味を持つ。手を挙げたことは不問としましょう」
「言っておくが、俺はお前を見定めている最中。仕えるに値しないと、そう判断すれば、先に告げた期間をもって、去るからな」
「ええ、心しておくわ」
そう口にして、曹操は荀彧と夏侯惇を伴い、足を進めていく。それに、追従することなく、
「茶番は終わった。いい加減、姿を見せたらどうだ?」
誰に問いかけたものなのか、つまらなそうに口にする。
それとほぼ同時、彼の背後から、無数の小刀が投擲される。円界を習得している彼だからこそ、事前に察知することができたが、この場に、先ほどの三人がいれば、串刺しになっていたに違いない。
殺戮技巧、肆の座、渦潮。
体を捻りながら抜刀し、己の周囲にいる敵を巻き込むように斬り、自身は、斬り終えた後、その場にとどまることなく、低い姿勢で移動する。対、集団戦闘用の技。
小刀を全て地面に弾き落とし、その場を離脱した伊邪那岐だったが、まだ、攻防は続いている。低い姿勢の伊邪那岐よりも、なお下から襲いかかってくる斬り上げの技。その技を彼は知っている。
殺戮技巧、弐の座、水穿ち。
抜刀の際、半身になることで、斜めではなく、真下から相手を斬り殺す。警戒している場所ではなく、予想外の場所から相手を狙う奇襲の為に考案された技。
背後からも、敵は迫っている。目の前には迫る刃。まさに絶体絶命。その窮地で、伊邪那岐は、顔に笑みを浮かべ、事もあろうに刃に向かって体を落とす。
「なっ」
相手が、彼の意図に気づいた時にはすでに遅い。
刀はいくら長かろうと、刀身を振るう腕が必ずその延長線上に存在する。これは、槍であろうと、戟であろうと同じこと。
体を落とし、刃へと向かった伊邪那岐は、刃が体に触れる寸前で体を捻り、目の前の人物の腕をつかみ、引き寄せる。それによって体勢が崩れることこそ、彼の狙い。踏ん張ることができず、体勢を崩した人物の服を掴み、自らの盾にすると同時に、掴んだ腕で、背後にいた敵の喉へと刃を突きつける。
「勝負あり。そう、俺の口から聞きたいか、二人共?」
空気を読んで現れた追っ手さん