第十四幕
前回のあらすじ
とんでもないものを引っ張り出してきた主人公
「これ、落ちないだろうな?」
「落として欲しいのか、夏侯惇。ならば勝手にしろ、地上に着いたら、全身の骨が砕け、皮膚を突き破り、誰ともわからん肉の塊が出来上がるが?」
龍の頭に乗り、上空へと位置を移動させた、伊邪那岐、曹操、夏侯惇、荀彧の四人。流石に落とすつもりなど、彼にはないのだが、夏侯惇が先ほどの彼の言葉を受け、血の気を引かせたこと、荀彧の顔色が蒼白であることもあり、嗜虐心を刺激されてしまったとしても、責められる人物がここにはいない。
「これは、どうやって手なずけたのかしら。むしろ、どこに生息しているのか、教えて欲しいものね、伊邪那岐?」
「秘密は、男の財産という言葉を知っているか?」
「意味はよくわからないけど、要するに、説明する気はない。そういうことかしら?」
「それだけ理解できれば、十分だろう」
そこで会話を区切る二人。
もっとも、曹操は表情にこそ出していないが、心中は穏やかではない。
この龍の上にいる限り、自分たちの命は目の前にいる男に、言葉通り握られている。知略だけでなく、武においても、自分の配下を手玉に取る人物。欲しいと思うのと同じぐらい、怖いとすら感じてしまっている。もし、敵に回せば、この場で刃を向けられれば。不安は幾度も浮かび上がり、理性によって沈められていく。
「華琳、お前は、俺が怖いか?」
そんな彼女の心の内を見抜いたかのような発言。それを受け、
「ええ、怖いわ。理由は口にしないけれど、ね」
「素直だな」
「ここで、虚勢を張っても意味がないでしょう?」
曹操は素直に、自分の考えを口にする。
「私は、伊邪那岐、あなたが怖い。知略、武、だけでなく、真意を決して見せないところが。あなたが言ったとおり、考えの読めない、未知の存在。とても、魅力的でいて、それと同じぐらい、怖い」
「恐れとは、生きていけば、常につきまとう、影のようなものだ」
そんな彼女を嘲ることも、侮辱することもせず、彼女の隣に腰を下ろし、伊邪那岐は淡々と言葉を紡いていく。
「恐れを知らぬものは、愚か者でしかない。恐れを知るからこそ、人は、武を磨き、知を研鑽する。恐ることは弱さではない。ようは、恐れに、どうやって向き合うか。それこそが、重要だと俺は考える」
「あなたは、自分以外の人が怖いと」
「聞いていたのか」
本陣で、郭嘉と程イクに対して答えた彼の言葉を、曹操は聞き逃していなかったらしい。
「あなたは、私が怖い?」
「ああ、怖い。お前だけでなく、夏侯惇も、荀彧も」
彼の言葉を聞いて、今まで、自分の現在の状況に怯えていた二人の視線が、伊邪那岐へと注がれる。
「その知略、武があっても、私が怖いと?」
「ああ、怖い」
そこで彼は、誰とも視線を合わせないように、背中を預けて天を仰ぐ。
「ひとつ、暇つぶしに昔話をしておこう」
その場で、誰ひとりとして、彼を嘲る言葉を口にする者はいない。
「俺は、物心ついた時から、刀を握り、筆を握り、武術や知略を叩き込まれて育った。同い年の幼子が、父母に甘えている時には、ひたすら、人を殺す術を、人を陥れる術を磨いていたと思う」
瞳を閉じ、彼は続ける。
「俺は、里の他の連中と違って、俺というものを持っていない。ただただ、傭兵として磨き上げられた俺は、自我というものが、わからない」
気軽に、彼の心情を、理解できるという愚か者もこの場にはいない。夏侯惇でさえ、言葉を発することをためらっている。
「だから、容易く人を信じられないし、そばにいられない。俺という希薄な存在が、他者によって形成され、作り替えられてしまうことが、怖い」
「そう、要するに子供なのね、あなたは」
「ああ、それも、人一倍臆病な」
「なるほど、ね」
その言葉を告げた時、曹操の瞳に浮かんだのは、怒りか、それとも憐れみか。瞳を閉じていた伊邪那岐にはわからない。
「なら、やはりあなたは、私のそばにいるべきよ、伊邪那岐」
「お前、何を聞いていた?」
瞳を開け、体を起こした伊邪那岐の前にあったのは、腰に手を当て、仁王立ちしている曹操の姿。
「あなたが、どれほどの人間を傷つけ、殺めてきたか。どれほどの人間を陥れ、罠にはめてきたか。私は知らない」
「だろうな」
「でも、それで、私を信じられないというのは、この、曹操に対して、侮辱以外の何ものでもないわ」
裂帛の気合とともに言葉を発する曹操。それに対して、言い返すこともせず、伊邪那岐は彼女の言葉に耳を傾ける。
「私は、この曹操は、己の臣下を裏切るほど、愚かでもなければ、見捨てるような真似をするほど、薄情でもない。あなたの瞳で、心で、頭で見定めなさい。私が、どのような人物であるか。また、命を預けるのに足る人物であるか」
右手を胸に当て、己を誇るように言葉を口にしていく。その言葉を、普段の彼であれば、詭弁、戯言と、切って捨てていたことだろう。だが、そうしなかったのは、言葉だけでなく、曹操という人物に、彼自身、少なからず興味を覚え、惹かれ始めていたからかもしれない。
「まったく、怖い女だよ、お前は。俺としたことが、うっかり、惚れてしまうかと思った」
「あら、惚れてもいいのよ?」
立ち上がった伊邪那岐に対して、茶目っ気あふれる口調で軽口を叩く。
「それは、またの機会に取っておくことにしよう」
「どういうことかしら?」
「言葉通りの意味だ。今、俺は華琳という人間の言葉を聞いた。なら、次は、曹操という王の言葉を聞かねばなるまい」
視界の先にある大地は、砂の色ではなく、黄色の点が無数に存在し、その数を数えることは不可能に近い。
「なら、しっかりと聞いておくことね。いずれ、この大陸の王となる、曹操の言葉を」
ようやく黄巾賊登場。
先のことを考えて、長くなりすぎないように気をつけます