第百二十幕 夜の終り、明日の始まり3
前回のあらすじ
戦終結?
信長の首が落ちた。それを確認出来たからこそ伊邪那岐以外の全員が、彼が勝どきの声を上げてくれることを今か今かと待っていた。
「さて、どうしたものか」
勝利を得ることができたというのに彼の声には憂いが含まれている。実際、信長の計画は潰すことに成功したが、彼にはもう一つ父親である明智光秀のかけた呪法の全貌が理解できていない。むしろ信長に対して勝利を収めることよりもこちらの計画を潰すことのほうが厄介なのである。
「浮かない顔をしていますね、伊邪那岐」
「始光、お前は何か知っているのではないか? 光秀の計画に関して」
「ええ。ですが、それを説明するにはいささか時間が足りないと私は判断します」
「時間が足りないだと?」
言葉を口にすると同時に彼は違和感に気づく。視界が下がってきている。頭の先端へと移動して確認してみれば彼の違和感を決定づける光景が飛び込んでくる。九頭竜の体が徐々に長江へと飲み込まれていく。しかも、水面にではなく底の見えない黒い穴に。
「このままいけばこの世界はあの穴に飲み込まれます」
「なるほど。世界を滅ぼす呪法とはあれのことか。なら、止める方法も見当がついた」
そこで彼は声を張り上げる。
「皆の者、よく聞いてくれ。今九頭竜が沈んでいる穴はこの世界そのものを飲み込んでいく代物だ。誰一人として近づくな」
異界呪法、星喰
人間の手では作り上げることのできない黒い穴を己の魂を代価に呼び寄せ、その全てを無へと帰す最悪にして剣の里に伝えられている最強の呪法。
「俺はこれよりこの穴に飛び込んで呪法の核を壊してくる」
「何を馬鹿なことを」
「途中で口を挟んでくるなよ、始光。話を続ける。この穴に飛び込めば俺には自力で帰ってくる手段がない。だから、お前たちが俺を救ってくれ」
解決策を完全に丸投げしているとしか言えない。当然のように全員が全員開いた口がふさがらないらしく、二の句が告げていない。そんな状態だというのに彼は自然体を崩していない。帰って来れなくなるという不安に押しつぶされてしまうはずの事態なのに、とても楽しげに言葉を紡ぐ。
「まぁ、帰って来れなければお前たちの力不足を恨んでくれ。だからお前たちがやる気になってくれるように一つだけ約束を残しておこうと思う」
九頭竜どころか始光の姿すら飲み込んでしまう穴へと落下するのではなく飛び込んでいく伊邪那岐。そんな彼が残していった言葉が女性陣の心にかつてないほどの闘志を燃え上がらせる。
「俺を救ってくれたやつを正室として迎え入れる。手に入れたいのであれば誰かが作った運命ぐらいぶち壊して俺ごと未来を手に入れてみろ」
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意外にも伊邪那岐を飲み込んだ瞬間に呪法によって作り上げられたはずの穴は塞がってしまう。
「それにしても、核はどこにあるのやら」
「全くあなたという人は。どうしてこうも無策に飛び込んでいくのですか? 本当は馬鹿なのではないですか?」
「お前は口が悪いな。いいではないか無策で。迷って時間を無駄にして回答を出さずに終わるよりはよっぽど正解だ」
「はぁ。あなたと一緒にいた人間たちの苦労が実感できますね。ついてきてください、呪法の核へと私が案内します」
ため息をついて人型となった始光に先導されて彼は歩いていく。左手に伊邪那岐伊佐那海、右手に天羽々斬剣を携えた彼には今敵と呼べる存在がいない。どれほどの英傑、神が襲ってきたところで返り討ちにしてしまうことだろう。それを知ってか知らずか彼は気楽に歩いている。
「ここです」
始光が足を止めた瞬間、世界に光が指す。そして飛び込んできたのは膝を抱えて心を閉ざしてしまった一人の少女の姿。その姿は始光と似通っており、違うのは髪の色と背中の羽の色が黒だというだけ。
「彼女が終闇。もうひとりの私で、光秀の呪法の核を埋め込まれている存在です。あなたが取りうる選択肢は」
「なるほど、もういい」
言葉を口にしたと同時に彼はふた振りの獲物を地面へと突き刺し、丸腰の状態で少女へと近寄ってその場に腰を下ろしてあぐらをかいてしまう。彼の部下であれば批難はするものの既に見慣れてしまった光景なのだが、始光がこの光景を見るのは初めて。話を途中で切り上げてしまったことも相まって呆れと怒りで彼女は喉から言葉が出てこない。
「こうやって面を付き合わせるのは初めてだな。俺は伊邪那岐。お前の名前はなんというのだ?」
「終闇」
「終闇か。それで、どうしてお前はこんなところで膝を抱えているのだ?」
「私は一人でいないといけないから。私は終わりなき闇と名付けられた災厄に過ぎないから。誰にも、触れられないから」
少女は顔を上げずに彼の言葉に答えていく。それだけで少女が内包する苦しみは理解できるほど生易しいものではないとだけ実感してしまう。
「誰にも触れられない? そう考えているのはお前だけではないのか? その証拠に俺はお前に触れ、言葉を交わすことができている」
「そんなのは形だけ。あなただって私の本質を知ればすぐにでも伸ばした手を引っ込めて背中を向けてしまう」
ようやく顔を上げた少女だったが、その足元から闇が広がっていく。闇は底なし沼のように静かにそしてゆっくりと少女と始光、伊邪那岐の三人を飲み込んでいく。背中の翼を動かしていち早く闇から逃れた始光だったが、次の瞬間には呆れと怒りが彼女の限界値を突破してしまう。こともあろうに伊邪那岐はその場から逃れるどころか大の字に寝そべってしまっていたから。
「やめなさい、終闇。あなたは自分が何をしているのか分かっているの? 彼を飲み込んでしまってはあなたは救われない」
「始まりの光と終わりなき闇。私にあるのは絶望だけ。私はあなたみたいに生きられない。あなたにはわからないわよっ、希望と信じられているあなたには」
始光の言葉は終闇には届かない。それが理解できていたからこそ彼女は終闇との会話を伊邪那岐に任せていた。だが、彼女の期待を裏切るように終闇の抱えている闇は深すぎる。
「あなたはなぜ逃げないの?」
「逃げる必要性も逃げる方法もないからな」
怒り任せに言葉を発した終闇だったが目の前の人間を見て顔から血の気が引いてしまう。
闇は誰もが恐れるもの。
その認識は人間の深層心理に根深く残っており、誰だって暗闇に身を委ねてしまえばその心が恐怖へと引きずられていく。それなのに伊邪那岐は闇を恐れていない。瞳を閉じたまま気持ちよさそうに闇へとゆっくりと沈んでいく。
「どうしてよ、どうしてあなたは私を恐れないのよ」
「悪いが、お前の闇では俺を飲み込むことは出来ぬよ。お前の闇は優しすぎるから、俺のような穢れた人間を飲み込めるほど汚くない」
「嘘よ。私に優しさなんて」
「お前自身が否定しているあいだは気づけぬよ。勢いを増せば俺の話に付き合わずに俺を飲み込むことができた。始光が上に逃げさせないようにもできた。それをお前はしなかった。それが何よりの証明となっている」
「私の気まぐれかもしれないじゃないっ」
「だとしてもだよ。俺の生まれた国では清濁併せ飲むという言葉がある。完全な悪人も善人もこの世には存在しない。どちらかに偏ることはあるだろうが、もう片方を完全に捨て去ることなどできようはずもない」
彼の言葉を受けて終闇の心が揺れ動く。救うという建前を口にした割に自分と距離をとっている始光、そんな彼女の連れてきた人間。この人間の魂には幾度となく触れてきたからこそ揺れてしまう。目の前の人間なら受け入れてもらえるのではないかと淡い期待を抱いてしまう。でもそれは無理なこと。神話の時から常に始光と共にいた終闇は自分が否定されるべき存在だと受け入れてしまっている。
「ああ、なるほど。意外に簡単なことだったな。終闇、お前と始光は常に共にいたもうひとりの自分と呼べる存在なのだよな?」
「ええ、不本意ながら」
「だとしたらお前らの名前に付けられた意味は同じものだよ」
「戯言を。今更ながらに命乞いですか?」
「命乞いをするならとっくにしている。いいから聞け。逆さ読みというものをお前は知っているか?」
「逆さ読み?」
「始まりの光と書いて始光、終わりなき闇と書いて終闇。順読みで行けばそういう意味に取れてしまうところだが逆さ読みなら同じ意味だ。光にて始め、闇を終わらせる。どちらも明日を意味する言葉だ」
終闇だけでなく始光も呆れてしまう。自分が闇に飲み込まれている状況でこの男は二人に付けられた名前の意味について思考していたというのだから。
「お前自身が名前という概念に縛られていただけだ」
「私が、縛られていた?」
「ああ。他の大多数がお前をお前が信じる意味合いで読んだとしても、俺は先ほどの意味でお前の名前を口にする。名前なんぞただの記号だ。呼ぶ者の意識でどんな風にだって意味を変えられる」
終闇の頬を涙が伝う。考えてみれば単純すぎる答え。だが、今まで彼女に対してそんな回答を示してきたものは一人もいない。もうひとりの自分と呼べる始光ですら彼女の闇に恐怖していたのだから。
「神というものは難儀な存在だな。寂しいなら寂しいと叫び、悲しいなら人目もはばからずに涙すればいいというのに、それを己の心で押し殺してしまう。俺も同じようなことをしてきたから偉そうに口にはできぬが、我慢は体に良くない。まぁ、難しい話はこれで終わりにしよう」
立ち上がった彼は足を闇に取られながらもしっかりとした足取りで終闇へと近寄り、その両手を広げる。
「俺はお前を否定しない。好きなだけ泣き叫べばいい。今まで泣くことができなかった分、俺が受け止めてやる」
心の壁が決壊する。足元に広がっていた闇は姿を消し、伊邪那岐の胸を借りて終闇は声を上げながら涙を流す。いつだって向けられるのは刃と敵意。自分には始光に向けられる感情が縁のないものなどいつの間にか諦めてしまっていた。それを目の前の人間は気づかせてくれた、受け入れてくれた。どれほどぬくもりを求めてやまなかったことか、触れてもらいたかったことか。
「まったく、神さえも懐柔するとはとんだジゴロですね。正直、こっちの解決策が成功するとは私自身思っていませんでした」
ため息ついて降りてくる始光。伊邪那岐に途中で切られてしまったが彼女が提示しようとした選択肢は二つ。終闇を殺すか、彼女の心を開くか。誰かを守るためであれば手を汚すことを辞さない彼はてっきり前者を選ぶものだと彼女は考えていたが、彼の臣下であれば後者を迷わず選ぶと断言したことだろう。
「いや、まだ解決しておらぬぞ?」
「解決していないとはどういうことですか?」
「お前達は人を長い間見てきたようだが、見てきただけだ。神の気持ちが人に理解できないように、人の気持ちも神には理解できない。だからな、ちょっとした方法を思いついた。のるかそるかはお前達次第だ」
「「私たち次第?」」
彼の言葉を受けて二人は同じ言葉を同時に発してしまう。そもそも、光秀の計画を終闇の心を開くという方法で解決している今、解決しなければならない問題はここからの脱出手段だけのはず。
「お前たち、神の力を捨てて人として生きてみろ」
「そんなことできるわけが」
「私が人間に?」
「やってできないことはないだろう? 神として生き続けたとしてもお前たちは人間を理解できないし、ずっと二人ぼっちのままだ。それではすれ違いが起きれば解決してくれる第三者もいない」
暴論ではあるが正論であるため始光は文句を口にできない。事実として彼女は終闇の心を開くことができないとタカをくくってしまっていた。それを目の前の人物は実現してしまっているのだから。
「望むのであれば俺の子供として生きてみればいい。幸い、俺には子供を産んでくれる妻たちがいるし、俺も親という存在になってみたい」
「父様の、子供」
ぼそりとこぼすように口にした言葉だったが、その言葉は既に自分の意思を決定しているように始光の耳に響く。
「幸せに、してくれるんでしょうね?」
「それはどうだろうな? 幸せというやつは個人個人によって価値観が異なる。それに、幸せにしてもらうのは俺の方だからな」
「あなた、やっぱり大馬鹿だったみたいですね。白虎が口にしていたように救いようのない程の大馬鹿。でも、そんなあなただからこそ信じてみたいと思えることが不思議でなりません」
背後から伊邪那岐に抱きついた始光と、正面から抱きついている終闇の言葉が重なる。その言葉は彼が口にしたように、決して名に恥じない明日を願う言葉。
「「あなたの子供として出会えることを待ってるから」」
光の粒子となって二人の体は伊邪那岐へと吸い込まれていく。そこで体の力を抜いた彼は再び大の字に寝そべり楽しげに言葉を紡ぐ。
「後は、俺自身が救われる番だな。ふふっ、逆の立場になってようやく気づいたが、存外待ちきれぬものだな」
実は結構パパになりたかった主人公?