第百十六幕 王の帰還
前回のあらすじ
白虎と麒麟が出てきた理由が
聖獣の力を借り、戦局をどうにか均衡へと持ち込んでいる彼女たちだったが既に体力は尽き、どうにか気力だけで持ちこたえている状態。これ以上この均衡が続くことはありえない。だが、ここで踏ん張らなければ一気に押し込まれてしまう。そうなった時の光景が頭の中にすぐさま思い描くことのできる彼女たちは引かない。
「華琳様っ」
一瞬の油断。足元に気を取られてしまった曹操に肉薄する矢を自分の体を盾にすることで彼女を守った夏侯惇。彼女の右目には矢が突き刺さり、視界は片側だけになってしまっている。それでも、
「こんなところで死ねるかぁああああああ」
力任せに矢を引き抜き、自分の右目ごと引き抜いた彼女はあろうことか右目を飲み込んでしまう。彼女が聞いたところによれば、伊邪那岐は右目を自分で抉り出した後に二万の軍勢を壊滅させている。ならば、自分にもそれができるはず。彼女は信じて疑ったりはしない。
「秋蘭、華琳様を頼んだぞっ」
関羽と激闘を繰り広げた彼女の体力は残りわずか。右目は激痛を訴え、思考回路は一向にまとまる気配がない。それでも引かない。彼女は伊邪那岐の力を知っている。自分の力がその領域にたどり着いていないことも知っている。だが、諦めるということを彼女は知らない。彼にできたのであれば自分にもできると。
あっという間に亡者に飲み込まれてしまう夏侯惇。それだけに飽き足らず、後退しようと夏侯淵と曹操も亡者の群れに飲み込まれてしまう。退路はなく、体力は限界。増援は見込めず、相手の軍勢は増加していく一方。
「こんなところで死ねないのに」
これが走馬灯というものなのだろうか。曹操の脳裏には伊邪那岐とともにいた日々が鮮明に蘇ってくる。自分が御雷に刺されたとき、彼は誰の目もはばかることなく泣いていた。それぐらいには彼女は彼に愛されていたのだ。
生きることを完全に最後の瞬間、曹操は諦めてしまう。あの世に行けば彼と添い遂げられるという甘美な誘惑に屈してしまう。
目の前に迫るボロボロの刃。それが自分の命を奪うものだと彼女が認識したとき、ひときわ巨大な音が戦場に響き渡る。力なく視線を移動させてみれば、先ほど関羽と白虎が飛び込んでいった巨大な門が崩れ去り、かけらを残すこともなく消滅していく。それに追従するように消えていく亡者たち。
「一体、誰が?」
この大陸に住む者であの門を破壊できるほどの力を持っているものといえば、自分と同じように聖獣の力を借りている者達だけのはず。しかし、彼女たちは自分たちの戦場で手一杯。あそこにたどり着く余力があるはずもない。そうでなくとも均衡状態を保つことで精一杯なのだから。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。いつの間にか曹操の体は長江の船上から大陸に移動して自分の足で大地に立っている。他の戦場で戦っていたであろう劉備、孫権、孫策に周瑜の四名も何が起きたのか理解していないように見える。
「天の御神楽、地の蓮神楽。我、両儀をもって双極を成す」
降ってくるのは歌。誰もがその視界に声の主を収めようとするが声の主はどこにも見当たらない。
「東の青龍に骨を捧げ、西の麒麟に血を捧げ、南の朱雀に肉を捧げ、北の玄武に魂を捧げる。我は双極もって四象を砕き、四聖を持って八卦を築く」
歌に従うように自分たちに力を貸してくれていた聖獣たちがそれぞれ、自分の守護する方角へと移動して光の柱へとその姿を変える。
「ここは神々住まう場所にあらず、ここは人々住まう場所なり。されど我らは祝福を喜び、父母の涙を持って天土の祝いとして受け取らん」
暗雲から降り注いできたのは真紅の雨。誰もが嫌う血の雨だというのに、浴びた者たちの傷が煙を上げながら癒えて行く。気づけば信長が起こした大波によって飲み込まれた兵士たちの姿がある。それだけではない。この戦場で命を落としたもの、傷ついた者の姿がすべてここにある。
「どいつもこいつも先が見えない戦いだからといって諦めが早すぎる。亡者? 神? 化物? そんなものはただの相手を呼ぶための呼称に過ぎん。ここは他の誰でもない俺たちの戦場であるということを忘れたのか」
暗雲を打ち払う鋼の声。
その声が戦場に響き渡った時、涙しなかった者などいない。いつだって自分たちのことを第一として考えて共にいてくれた王。敵である自分たちにさえ勇気を与えてくれた優しき者。
光り輝く金色の髪、鋼の意思を内包した鉛色の瞳。全てを否定せず受け止める覚悟をもたが故に身につけている純白の衣。姿かたちは多少変わっているがそんなものは瑣末な変化に過ぎない。戦場にいた者たち誰もが帰還を望んだ一人の人物に目の前の人物は間違いないと確信している。
天を覆い尽くすほどの巨大な白き龍の頭に乗り、関羽を両手で抱き上げながら帰還した伊邪那岐は紡ぐ。
「四天包囲。これでしばしの時は稼げるだろう」
光の柱となった四聖獣、それを結ぶように光が走ったかと思えば九頭竜を取り囲むように結界が誕生している。
「降りるぞ、愛紗」
「えっ? えぇぇっぇぇぇっぇぇぇぇぇ」
龍の頭から降りた二人はそのまま大地へと向けて落下していく。それだけで死を覚悟してしまった関羽だったが地面にぶつかる瞬間に二人の体は急停止。大きな音を立てることも砂煙を上げることもなく軽やかな足取りで伊邪那岐は着地する。
「なっ、何を考えているのですかご主人様はっ。せっかく戻ってきたといのに今ので私は死んだと思ってしまったではないですかっ。人をからかうのも大概にしてください」
「大声を上げすぎだ。おかげで耳が痛い。だがまぁ、普段見られぬ可愛らしいお前の顔が見れたことで帳消しとしておくか」
大声で非難の声をあげ、彼の胸を叩く関羽を優しく下ろして彼は歩み始める。向かう先はこの場所に降り立った時から決まっている。
「この馬鹿がっ。俺を謀ることも大概にしろっ、俺はお前を犠牲にしてまで生きたいと思ってはいなかった」
「伊邪那岐」
「だがまぁ、俺も同じような事をしてしまったからな。これ以上は責められん。久しぶりだな、鈿女」
抱き寄せるよりもまず先に彼は鈿女の右頬に強烈な平手打ちをお見舞いする。だが、叩かれた方よりも叩いたほうが傷ついているように見えるのは目の錯覚ではないだろう。それを知っている鈿女は頬の痛みを忘れて彼へと涙を流しながら抱きつく。どれほどこの時を夢見たことだろう。彼女はこの温もりを得たいがために自分の全てを犠牲にしようとしたのだから。
「感動の再会といったところか」
「そう思うのであればしばしの間だけでいいから黙っていて欲しかったのだがな」
向き合ってお互いに笑みを浮かべる信長と伊邪那岐。両者の笑みは奇しくも似通ったものが含まれている。勝利を確信したものが。
「このような時間稼ぎをして、俺を倒すための策でも練るつもりか?」
「いや。策を用いる必要などないだろう」
信長の問いに対し、伊邪那岐はとても楽しげに口にする。真龍刀を手にし、九頭竜を支配下においている信長の存在。それに対して人間の存在はあまりにも儚いという現実を先ほどの戦いで全員が痛感しているというのに。
「始光の力を得、銀の肉体を得た俺とお前の力は互角といったところだ。なら、こちらの勝利は既に決まっている」
彼は言い放つ。
信長以外の全員が彼の言葉を受けて恐怖を忘れ去る。彼はできないことは口にしない。そしていつだって、嘘を口にしない。彼が口にしたのであれば勝てるという絶対の安心感が背中を押してくれる。
「戯言を」
「まだ気づいていないのか? 案外、第六天魔王といえど察しが悪いのだな」
「なんだと?」
「俺とお前の力は互角。これは貴様も感じているだろう事実だ」
「それならば」
「話は最後まで聞けよ、信長。俺は俺の力だけで貴様に勝つつもりなどない。お前には見えていないのか? この場所には俺と志を共にしてくれる数え切れない英傑たちがいる。俺だけでは確かに貴様に勝てる保証はないが、俺だけでなかったら?」
鈿女を引き剥がして両手を広げた彼の後ろには麟の武将たちだけではない。孫呉の将兵に曹魏の将兵。それらを束ねる武将に軍師、王達が並んでいる。そこには確かに絆が存在している。志が同じ方向を向いている。
「聞こえなかったと言えないようにもう一度口にしてやる。俺は、俺たちはたった一人でしかない貴様などには負けはしない。神の力を手に入れようが誰ひとり救わない貴様を俺たちは神として認めない。貴様はただの化物。化物は英傑に撃たれるが道理。違うか?」
挑戦的に、それでいて絶対の自信を胸に伊邪那岐は言葉を口にする。
「俺は戦を始める時に口にしたはずだ。俺たちはこの戦に勝つために生を受けたのではないと。この戦の先を生きるために、愛するものと共に生きるために生を受けたのだと。守るべき者のために刃を持った者たちよ、お前たちこそが本物の英傑だ。お前達の刃が届かぬ化物などこの世に存在しない」
その言葉が戦士の心を奮い立たせる。
「それと信長、それはただの時間稼ぎではない。その証拠を今から見せてやる」
時間稼ぎは別の目的があるということだよ