第百十三幕
前回のあらすじ
事実は小説よりも奇なり
「ふふっ、素晴らしいなこの力。さすがは俺が求めてやまなかった太古の神々の力を封じたもの。これさえあれば天下布武など容易い。貴様ら木偶は用済みだな」
軽く真龍刀を振るっただけで長江に巨大な波を作り上げ、多くの船を飲み込んだ様子を見た信長は懐から煙管を取り出して煙を楽しむ。
「ふざけるのも大概にしろっ。俺の親友の体を奪っただけでは飽き足らず、亡き信長公の名まで語るなっ」
「木偶ごときがほざくな」
大声を上げて睨みつける布都だったが、その体に楔でも打たれたように動くことができずにいる。そこにあるのは恐怖ではない。己の主に刃を向けることを躊躇う臣下としての意思が彼の体に根付いてしまっている。
「木偶とは、どういうことよ」
「貴様はこの大陸の人間か? よかろう、今の俺は中々に機嫌がいい。特別に説明してやろう。そこにいる剣の一族の人間は俺の手によって作り上げられたもの。造りものが創造主に逆らえるわけもなかろう?」
曹操に対して楽しげに信長は言葉を紡ぐ。
「どういうこと、ですか?」
「言葉通りの意味だよ。僕らは信長が世界を手にするために必要となるであろう戦力として、当時の学者と医者、それだけでは飽き足らずに陰陽師まで総動員して作り上げた人の姿を持った兵器」
「然り。長政に金管頭、秀吉に家康。協力者がどれほどの数いたのか俺ですら覚えてはいない」
剣の一族。
それは信長の手によって生み出された戦闘兵器であり、当時の最高レベルの頭脳を結集し、人体実験に強制受精。陰陽道に呪術、ありとあらゆる方向からアプローチをかけて作り上げられた者たち。その目的は唯一つ。彼が偶然手にすることのできた伊邪那岐伊佐那海を己で使うための肉体を手に入れること。
「理解したか? 俺が生み出したものを俺が捨てたところで誰に文句を言われる覚えもない」
「人の手で人を造り上げたと、そう口にしているのか」
信長の言葉を受けて周瑜は絶句してしまう。伊邪那岐は神や仏の存在を信じてはいなかったが、目の前の男は神や仏すら歯牙にもかけていない。敬うべき存在としてではなく力として捉えている。禍々しい力をその身に宿し、神の力さえも手中に収めた存在を見て誰もが同じ言葉を口にすることだろう。暴君、と。
「人は人から生まれる。造り上げたとしても誰に避難される覚えもない。俺はそれを外部から介入しただけのことだ」
「狂ってるわ」
「それは何かに縛り付けられ、依存することしかできない弱者の言葉だな。いつの世も革命的な流れを人は嫌う。違うか、孫策?」
信長の言葉に孫策の心は締め付けられてしまう。彼女の心を見透かしたようにそれでいて縛り付けるような言葉。
「私は、私は」
「言葉にせずともいい。それと、俺は貴様ら全員に感謝しているのだ、褒美を取らせてもいいぐらいに。よくぞこの男の本心にたどり着かなかったと。自分を許すことができずに許しを求めたこの男に貴様達は壁を作った。自分たちよりも優れているこの男は自分で何とかしてしまうと」
言葉が全員の心を抉る。
思い返してみれば伊邪那岐の言葉にはいつも孤独が含まれていた。だからこそ彼は孤独を嫌い、いつも誰かと共にいようとした。それなのに、こうして言葉で目の前に刃として突きつけられなければ誰ひとりとしてその事実に気づきすらしなかった。肩書きは壁であり、本心を隠してしまう。そのことを彼の言葉を受けて知っていながら、その言葉に隠されていた本当の意味に誰も辿り着けていなかった。
人は一人では生きていけない。王もまた人。涙は弱さ。
彼の言葉はいつも救いを求めていたというのに、彼の心はいつだって許しを欲していたというのに。そばにいただけでその願いを聞かぬふりをしていた。その行為がどれほどまでに彼を傷つけていたか。誰もが錯覚してしまっていたのだ。心の壁を乗り越え、あるいは壊して自分たちのすぐ傍まで歩み寄ってきた彼は強い存在であると。
「優れしものは誰にも理解されない。強き者は誰とも並び立たない。今となってはどうでもいいことだが、この男が口にしていた共に歩みともに傷つけという言葉はそういった願いが込められていたのかもしれんな」
言葉が心を強引にへし折る。妻としてそばにいたいと願ったのは自分のわがまま。友として彼を支えたいと願ったことも自分のわがまま。形だけ、上辺だけ整えることで体裁を取り繕っていただけに過ぎない。
「さて、これよりこの織田前右府信長がこの地を支配するための大掃除を開始する」
言葉を受けて暗き光を真龍刀が放ち始めたかと思えば大地が大きく揺れ、長江すらも割ってその存在が姿を現す。鱗に覆われた体躯が示す色は何者にも染まらぬ黒。神話に出てきた蛇の怪物よりも頭の多い強大な姿。それは心を折られた者たちに対して絶対の強者として心に刻み込まれる。
九頭竜。
神を滅ぼし、人を滅ぼし、星すら滅ぼすと言われている災厄の化身。その頭の一つにどっしりと腰を下ろして信長は笑みを浮かべる。
もはや戦わずとも雌雄は決している。こんな化物に勝つことなど不可能。誰もが終わりを受け入れようとしていたとき、
「諦めないでくださいっ」
胸を押さえながら立ち上がった劉備の言葉が戦場に木霊する。誰かに触れられてしまえばすぐにでも倒れてしまいそうだというのに、彼女の瞳だけは恐怖に屈することを良しとせず、信長を睨みつけている。
「私は、私たちは確かに伊邪那岐さんの本心に気づけなかった。あの人を救ってあげることができなかった。でも、あの人の遺志は私たちの心に根付いているはずです」
向けられた笑顔の裏にどれほどの悲しみが隠されていたのか劉備は知らない。その背中にどれほどの命を背負っていたかも知らない。それでも彼女は知っていることがある。彼の、伊邪那岐の言葉は誰の心にだって響くということを。
「伊邪那岐さんは麟を建てるときに口にしたはずです。「願うことがある。お前たちはまっすぐに生きてくれ。誰に遠慮することなく、己の願いを叶えるために。その為であれば俺はどんなことでもする。悪にもなる、罵声も中傷も喜んで受け取ろう。だから、お前らは決して諦めることを覚えるな」と」
劉備の言葉が麟の人間たちの心に響く。自分よりも他人を優先しすぎた彼。そんな彼が国を起こすときに口にした言葉。そこに込められているものは純粋な願い。ならば、その言葉を裏切ることは彼を裏切ることになってしまう。
「みなさんも聞いたはずです。この戦が始まる時に口にした言葉を。「俺たちは今日この日のために生きてきたのではない。この日を乗り越えた先を生きるためにこの大陸で生を受けたのだ。戦で傷つくためでも勝利するためでもなく、愛するものと生きる未来のために。今を生きる者たちよ、守るために刃を取った者たちよ、お前たちこそが真の英傑だ。俺の命はお前たちにくれてやる。だから、未来を生きるお前たちの力を俺に貸してくれ。今日を大陸で流れる最後の流血とするために」と」
その言葉は戦場にいる者たち全員の心に響く。彼が口にした言葉は麟の国に住む者たちだけに向けられたものでは決してない。大陸を一つの国とする考えを持っていた彼の言葉はこの場に存在する全ての人間に対して向けられていた。
気づけば心を折られた者たちの瞳に再び光がやどり、一人、また一人と立ち上がっていく。この時になってようやくこの場所にいた人間全員が志を一つにしたのだ。目の前にいる怪物を相手取ることによって。それは奇しくも伊邪那岐が望んでいたことにほかならない。
「ほう。中々に心打たれる言葉だな、女。貴様ら程度がこの俺に挑むと、そう口にしたのか?」
「挑みます。そして、勝ってみせます。あの人はいつだって私たちの手を引いて、私たちの背中を押してくれた。伊邪那岐さんは確かにこの場所にはもういません。だけど、あの人の願いはまだ死んでません」
最期の言葉を発したときには、先程までの劉備の震えが収まっていた。覚悟を決めるということを、命を賭けると覚えた彼女の心には恐怖が入り込む隙などどこにもない。
「ふふっ、まさかあなたがここまでの啖呵を切るなんて思ってもいなかったわ」
微笑して劉備の隣まで来た曹操は、彼女を通り過ぎるのではなく並び立って言葉を紡ぐ。
「信長と言ったわね。ご高説痛み入るわ。確かに、あなたの挑むのは無謀でしかないでしょうね。でも、私たちは見てきてるのよ? 不可能にいつだってぶつかって、逃げることなく挑み続ける男の姿を」
両の髪を解いた曹操は代わりに彼から受け取った髪飾りを身につける。ここに立ったのは曹魏の王としての曹操ではない。愛した男の意思を決して無駄にしないと心に決めた一人の女として。
「本当に揃いも揃って馬鹿よね、私たち」
母親より譲り受けし古錠刀を右手に携えて孫権が二人に並び立つ。
「あいつがこの場所にいたのであれば、迷わず全員に逃げろと口にする場面でしょうね。だけど私たちは知っている。逃げろと口にする割に絶対に逃げない男の後ろ姿を。馬鹿だとは思うけど、あいつの言葉にだけは私も嘘をつきたくない」
並び立った三人の英傑。それを値踏みするように見ながら、
「力の差すら理解できない愚物に物を教えてやるほど、俺は優しくないぞ?」
「「「上等っ」」」
信長が口にした言葉によって戦の第二幕を告げる鐘が強引に鳴らされた。
成長した劉備と叶えられた彼の望み
そして始まるのは、
神に挑む人の戦い