第百九幕
前回のあらすじ
曹操の思い、劉備の思い
孫権が彼に勝手に抱いていた印象は理想像であり、悪い意味ではなくいい意味で現実の彼とは多少異なる。母である孫堅に姉である孫策、親族として最も近い立場で二人の王を見てきた彼女だったが、彼女が国と引き換えにしてでもそばにいたいと願った人物は二人だけでなく曹操と袁紹だけでなく劉備とも違った道を突き進んでいたから。
ある晴れた日の昼下がり。
今日が伊邪那岐の休日だと知らされた孫権は彼のいる場所を探していた。なにせ彼は妻が何人もいる身。休日といえど二人きりになれる時間は限られてくる。
「こんなところにいるなんて」
「ああ、蓮華か」
宮からかなり離れた位置にある川で探していた伊邪那岐は釣竿の糸を垂らしているのに、視線は水面に向けられているのではなく瞳を閉じた状態。その状態で近寄ってきた人間を識別できのは円界を習得している彼と同じ一族の数人ぐらいなものだろう。
「釣りをしているの?」
「他の何をしているように見えるのであれば是非とも聞きたいものだな」
彼の隣に腰を下ろした孫権だったが、それきり会話は途切れてしまう。聞きたいことはいくつもあるし、知りたいこともそれと同じぐらいある。それでもいざ言葉を発しようとすると躊躇いが喉を押し付けてしまう。
「戦が迫っているというのに、随分と余裕なのね?」
ようやく口に出せた言葉は嫌味を含んだもの。そんな言葉を口にしたいのではないのに、ついつい彼の前で彼女は強がってしまう。
「余裕ねぇ。お前に俺は余裕があるように見えるか?」
彼女の言葉に含まれている意味を理解できないほど彼は愚鈍ではない。それでも帰ってきた言葉には純粋な疑問が含まれていた。
「趣味に時間を費やしているのだから、私以外の人間も余裕があると判断すると思うのだけれど、違うの?」
「違うよ。生まれ落ちてからこれまでの間、俺は余裕を感じられるほど強い心をもてたことなど一度としてない」
彼ははっきりと断言する。その言葉をかつての彼女であれば嘘だと反論を口にしただろうが今は違う。彼女は知っている。目の前にいるのは壁を軽々と超える才能を持った天才ではなく、一歩ずつ壁に近寄って何度もぶつかった凡才だということを。
「俺の一挙一動で他の者達に動揺が伝わってしまうからな。内心では恐怖していてもそれを表に出せないだけだ。本当であればこんなところで釣りをやっている暇などないはずなのだが」
王の存在を間近で見てきた彼女だからこそ、彼の言葉の先を聞かなくても理解できてしまう。彼がここで釣りをしているのは兵士たちに安心感を与えるため。王が揺れなければ、たとえ相手が強大な力を持っていたとしても兵士たちの心は惑わされない。
彼は恐怖を感じる。彼は孤独を嫌う。
彼は臣下の者たちだけでなく民たちが胸を張って口にする王なのだが、彼は王という存在の必要性を疑問視している。皆が見ている彼の姿は外側に出ているものだけで内面をほとんどの人間が見ていない。強く賢く、優しき王は彼が見せている外面でしかなく、本当の彼はどこにでもいる人間と同じ感覚を持っている一人の人間でしかない。
「なんじゃ、蓮華もおったのか?」
「蓮華様?」
そんな二人だけの静かな空気に割り込んできたのは孫堅と周瑜の二人。孫権は特に気にもとめていなかったが、彼女たちふたりは伊邪那岐のすぐそばで昼寝をしている銀に対してかなり警戒しているように見える。
「お母様と冥淋の二人がどうしてここに?」
「宮では話しづらいから呼び出しておいた」
釣竿を近くの石で固定して手放した彼は体をほぐすように背伸びをして立ち上がり、二人に対して向き直る。
「さて、役者も揃ったようだしそろそろもったいぶらずに口にしておこう」
「何の話?」
「なに、なんのことはない。雪蓮をいかにして救うかについてさ」
孫呉で孫権と周瑜の前で口にして二人を連れ出した彼だったが、その内容は未だに伏せられたまま。生唾すら飲み込むことを躊躇いながらその場にいる三人は彼の言葉に耳を傾ける。
「あいつに対して宣戦布告することによって、あいつが取り得る選択肢は二つ。一つは独力でこちらへと向かってくる。二つ目は曹魏と同盟を組んでこちら側へと兵を向けるのどちらか。孫呉にも優秀な軍師はいるはずだからあいつの取りうる選択はおそらく後者だろうな」
「だが、雪蓮がそれを快諾するかどうか」
「なりふり構っていれば、冥淋の言うとおりだろうな。だが俺はお前ら二人を連れ出すことによってあいつの退路を絶った」
孫策にとって周瑜は自分の家族同然で孫権は妹。家族を連れ去られて泣き寝入りすることなどもってのほか。それに、自分ではどうしようもないと考え、それでも願いを叶えたいと願うのであれば人は悪魔にだって魂を売る。
「話の腰を折って済まぬが、どうしてお主と敵対することで雪蓮を救うことにつながるのか儂にはさっぱりなのだが?」
「俺と敵対することなど付加価値のようなものだ。本当の目的はあいつを孤独にすること」
「孤独にすることが救うことにつながるのか?」
「孤独というと誰もがよからぬ印象しか抱かないが、人という生き物は本当の意味で一人にならなければ自分自身を見つめ直すことができない生き物だ」
曹操も伊邪那岐も心の中に孤独を抱えている。だが、最初から自分と同じ位置に立つ者がいた孫策は違う。彼女の隣には常に周瑜という優秀な頭脳にして全てを理解してくれているもうひとりの自分がいたといってもいい。だから彼女は自分の中に存在する孤独を知らない。
「自分を知らぬ者が他者を知ろうとするなど、一足飛びで答えにたどり着くようなもの。あいつは自分を知らぬが故に勘違いして国を収めようとした。あいつにあるのは借り物の王道だけだ。もっとも、これに関していうのであれば責めるべきは虎連、お前だ」
「儂?」
「あいつには常に隣に周瑜がいた。優秀すぎる人材というやつは時に人をダメにする。最初から答えを知っている人間をそばに置いたお前の責だ」
孫策は孫呉を取り戻すために今まで戦をしてきた。周瑜はそんな彼女を支えるために打てば響くように答えてきた。それが彼女たち二人のあり方。
「あいつの王道は虎連からの借り物だ。真似事をしただけで己のものとしていない人間にどうして民たちが納得してくれる?」
そう、そこが一番の問題だった。
王とはこうあるべき。その姿を間近で見てきた孫策は孫堅の王道を疑うことをしなかった。そしてそのままそれを自分自身の王道と信じ込んでしまっている。
王が変われば国は死ぬ。
国とは生き物であり、王が変われば考え方も動き方も変わってしまう。そこに別の王が同じ言葉を口にしたとしてもそれは民たちにとって紛い物であって似て非なるもの。誰かの考え、言葉を口にすることを間違いとは口にしない。ただ、そこに確固たる個人が存在していなければ誰の目から見ても二番煎じ。七光りよりもひどいと言わざるを得ない。
「孫呉は虎連が起こした国。袁術によって一度奪われた国。そんな国を虎連であればまだしも孫策では救うことがまずできない」
「ちょっと待て旦那様。それではどうやって孫呉に雪蓮、この二つを救うというのだ?」
彼は孫呉へと向かう船内で確かに彼女の前で二人と国を救うと口にした。
「一度全てを壊してしまえばいい」
彼は何気なく口にするが、その言葉を聞いて三人は絶句してしまう。彼が言っていることは自分たちが全て築いてきたものを捨てろと口にしているのだ。底辺から、最初からやり直せと。
「救うというのは現状維持のまま持ち直すか、やり直すことのどちらかを指す。前者は無理だ。なら、後者しかあるまい?」
「儂らだけでなく、雪蓮にもそれを強要しろと?」
「強要しろとは言っていない。そういう道が有り、その選択肢を取ることをすれば両方の望みを叶えられると口にしただけだ。俺は行き先を提示しただけ。選ぶのはお前たち自身。俺は底抜けの善人ではないから救わせてくれなどと口にするつもりは毛頭ない」
一から国を作り直すことこそ今の孫呉を救い出す唯一の手段。そこに必要となってくるのが孫策自身の王道。それを実行することのできるための手順まで彼は整えた。そうなればあとは当人たちの問題。
「虎連も俺も、おそらくだが真琳もそうだろう。自分一人ではないが、自分から動いて国を作ったのだ。誰かの作った地盤を利用して、誰かの王道を借りた人間が王を名乗ることなど話にすらならん」
その言葉を孫堅は否定できない。娘である孫策も娘と敵対している曹操も母親から国を譲り受けた者たち。二人と違って協力者はいたものの、自分の力で国を起こした伊邪那岐。後者の苦労、苦悩を知っているがゆえに孫堅は認めたくないと思いながらも彼の言葉に賛同してしまう。
「なぁ、お前達は王とは一体なんだと思う?」
そんな彼の問いかけ。其の問いに一体どんな意味があるのか理解できない二人は首をかしげるが、
「人間よ。私たちとなんら変わりのないただの人間」
孫権の言葉が響く。それを聞いて二人は眉根を歪めたのだが、彼は声を上げて笑い出したではないか。その様子に呆気にとられてしまった三人だったが次の彼の言葉を聞いてさらに度肝を抜かれてしまう。
「凄いな蓮華。おそらくだが、この大陸で生活している人間の中でお前と同じ言葉を口にできる人間は多くない、いやほとんどいないだろう。俺もわかっていないことを平然と口にできるのから」
彼はそう口にして笑い続ける。それが目の前の三人には理解できない。
王とは君臨者であり他とは一線を画す存在。
過去に王であった孫堅でさえもそう捉えているというのに、実の娘の捉え方は違う。そして、目の前にいる現役の王はその答えにたどり着いていない。
「王とは権威の象徴。そして権威とは衣と同様に着るもの。なるほど、そう考えれば王はただの人間だ。誰だって王になれる。ふふっ、なかなかに楽しい解釈を聞いた。実にいい気分だ」
楽しげに口にして彼は釣竿を肩に背負い、銀を伴って去っていく。
「蓮華」
「えっ?」
急に名前を呼ばれ、孫権は背中越しに彼の言葉を聞く。
「お前は自分が思っているよりも凄い人間だ。姉への劣等感に苛まれていた過去がここまでお前の糧になるなど俺自身も思ってすらいなかった」
「持ち上げすぎよ」
「おべっかを使っているつもりなどないよ。なるほど、過去俺が感じた物の正体はこれか。今になって気づくとは俺もまだまだだな」
「何を言っているのか、理解できるように口にして欲しいのだけれど?」
「なんのことはない。俺が思い描いた王の姿に一番近いのがお前だというだけだ。お前が王になっていれば俺はお前の下で働いていただろうよ」
彼は誰にも認められていない自分を認めてくれた。同情からでも哀れみからでもないし、同じような経験があるからだけでもない。彼は立場も人種も肌の色も気にせずに当人に触れて判断する。そんな彼だからこそ彼女は何を犠牲にしたとしても傍にいたいと願ったのだから。
「どうして一人で逝ってしまうのよ」
それでも、その願いはもはや届かない。
いい加減、過去から今に帰ってきましょう